聖書:哀歌4章16-20節、ヨハネによる福音書18章1-11節

【説教の参考に】

ヨハネ福音書の18章からは、いよいよ主イエスの十字架の死に至るまでの歩みへと入ります。キドロンの谷はエルサレムの街とオリーブ山の間にある谷です。オリーブ山の一部にゲッセマネの園があったと言われます。「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」、進み出たとありますから、主はすべてをご存知だったのです。イエスを裏切るユダはその場所を知っていたというのですから、捕り手の兵士たちにとってイエスを見つけるのは易しいことでした。主イエスは、そこへ堂々と行かれたのですから、すべてを承知の上で、進んで捕われたのです。決して敵の策略にまんまとはまったのではありません。ここでのやり取りを主導しているのは主イエスなのです。

ここでヨハネ福音書が語ろうとしていることは、ただ主イエスが悲しいことに、裏切られ、逮捕されたのだ、というようなことではありません。逮捕され、裏切られる歩みを辿りつつ、主イエスは、いったいいかなる方であられたかということをきちんと語っているのです。

キリストの十字架は、ひと事としてみると残酷に見えますが、自分のこととして受けとめると、全く見方が変わるのです。その姿は、わたしたちの痛みを担う姿なのです。