「飼い葉桶の中のメシア」ルカによる福音書2章8~20節

○はじめに
今年もクリスマス礼拝をこの会堂で共に出来ることが出来てホットしているというか、感謝いています。教会として当然と思われていたことが、今年は当然ではないからです。今年大磯教会は創立120周年の節目を迎えていますが、太平洋戦争の戦中も、戦前も礼拝をこの会堂で出来なかったことは無かったのではないかと思います。たとえ少数でも。そういう意味では、どこの教会でも、日本の教会だけではなく、世界中の教会は試練の時を迎えました。コロナの感染を防ぎ、健康と命を守るためです。まだ継続しています。新型コロナ・ウイルスの感染の拡大は第4波、第5波の可能性もあるのです。日本の医療も危機に瀕しています。早くワクチン接種が出来ることを願いたいと思います。一方で人間は楽観的です。そして私たちもそうです。今回のことでプラスの面もあります。日本の弱点が良く解ったし、教会の問題も分かってきます。今は教会のコロナ捕囚、イスラエルの民がアッシリアに攻められて、バビロンに囚われの民となってヤーウェを礼拝できなくなった。神殿礼拝が出来なくなったことに、なぞらえる人もいます。その屈辱と、苦しさ、絶望があったから旧約聖書が編纂されたし、神殿礼拝から各地の会堂、シナゴーグでの礼拝へと変化していったのです。教会も制度的な変化の時を迎えるかもしれません。
 東日本大震災で被災した教会の牧師が、あの時のことを語っていたのを思い起こします。震災の翌日に礼拝を控え、瓦礫で傷付いた会堂で、数人の信徒と共に礼拝したと言います。礼拝を守ることに必死であったのです。今回の新型コロナ・ウイルスでは、牧師も長老も、信徒も迷い、悩むことが多いと思います。リモートの礼拝は礼拝と言えるのか。改めて信仰とは何か、人と接触し話すことが伝道牧会と考えていたことは正しかったのか。礼拝とは何かを問われてもいます。
そういう中で迎える救い主の誕生を祝う今年のクリスマスは、ひときわ心に響きます。さて今日も聖書の御言葉からクリスマスのメッセージを聴いて行きたいと思います。

羊飼いに真っ先に告げられた
さて、イエス・キリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになることを天使が真っ先に伝えたのは、野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちであった、とルカは記しています。なぜ羊飼いに最初に伝えられたのか、ということについて、おそらく多くの方も同意するかもしれませんが、羊飼いは当時の社会において差別された人々であったから、という理解です。
羊は愛される動物です。家畜として昔から人間の役に立つ動物です。羊のそのイメージから、私たちは、羊飼いという人々も、牧歌的に、のんびりと羊の番をしながら澄んだ夜空をながめているような姿を想像します。しかし、実際の羊飼いの現実はもっと厳しくつらいものでありました。夏の猛暑と冬の厳しい寒さに苦しめられ、オオカミや盗人から羊を守らなければならず、そして、もっと厳しい現実は、社会的にも非常に地位の低い人たちであったのです。細かい律法の規定も守られないため非難される人々でもあったのです。
なぜ、イエス・キリストの誕生は、真っ先にこの羊飼いたちに知らされたのであろうか。それは、神は、救い主の誕生を心から待ち望んでいた人たちのところへ真っ先に知らせた、と考えられるのです。苦しく、つらく暗い生活の中にあって、一筋の光が射したのです。その光があれば、世界がどれほど暗く、絶望的であっても、決して最悪ではないのです。羊飼いたちは、救い主の誕生を聞いて心から喜んだのです。逆に言えば、神の救いを心から望んでいない人たちにキリストの誕生が告げられても、それはつまらない話なのです。取るに足りない、どうでもいい話なのです。しかし、救い主の誕生を心から待ち望んでいた人たちにとっては、それは大きな喜びとなったのです。
羊飼いたちは、この世に対する深い絶望の中で、心から神の救いを待ち望んでいました。そして、それゆえに、救い主の誕生の知らせを真っ先に聞くことになったのです。それは、今の時代でも同じではないでしょうか。毎年、クリスマスの季節を迎えるたびに、私たちはキリストの誕生を知らされますが、その知らせを、私たちはどういう思いで聞いているでしょうか。それは喜びなのでしょうか。それともどうでもいい話なのでしょうか。おそらく、心から神の救いを求めている人たちにとっては、救い主の誕生という話は、心温まる話となるのではないでしょうか。そして、その心は、大きな喜びに満ち溢れていくのではないでしょうか。光が差し込んでくるのではないでしょうか。そして、この世界がいまだ真っ暗な闇に包まれているとしても、そこには生きる力がわいてくるのではないでしょうか。たとえコロナのパンデミックが猛威を奮っていても、その光があれば、世界がどれほど暗く、絶望的であるとしても、決して最悪ではないのです。そこには、かすかではあるとしても、希望の光が照りだしているからです。そして、それは、徐々に暗い闇を打ち砕いていくのです。

喜びを伝えるクリスマスカード
 先週の木曜日、17日の昼頃、私の携帯に1本の電話が入りました。「Sさんが、今日の早朝、秦野赤十字病院で亡くなられました」という、Sさんの成年後見人の行政書士の先生からでした。その行政書士の先生は、一度、大磯教会に挨拶に来られた女の方ですが、既に入所していた秦野の高齢者介護施設と相談し、土曜日の12時からお別れ会を行い、その後、秦野の火葬場に行く予定だということでした。それで私に司式をしていただきたいということでした。この時期なので施設の入居者は参加できないし、教会員も参加出来ないということで、ご遺族の出席も2~3人だと言うことでした。それで、昨日の土曜日にその高齢者介護施設のホールでお別れ会を行いました。それでも十数人が出席されました。讃美歌493番「いつくしみ深い」を歌って、短く聖書の話とSさんの話をして、火葬場へと向いました。少ない人数ではありましたが、良い時を持ちました。出棺の時、施設の職員の方々十数人がそれぞれ棺にお花と折り鶴を沢山入れてくれて出発しました。温かい葬儀でした。
 控え室で待っている時に、施設の施設長ともう一人の職員の方から伺ったことですが、大磯教会から、いつも手紙とカードが届いてSさんが喜んでいたと聞きました。Sさんは入院先の秦野赤十字病院を退院する予定であったとのことでしたが、その直前に亡くなられたようです。97歳になられ老衰だったと思います。97歳でしたがしっかりとした方でした。お亡くなりになる直前までしっかりとした方でした。
 そこで聞いたことですが、今年のクリスマス・カードも綺麗なカードで、Sさんは喜んでいたと言っておられました。1枚のクリスマス・カードがそれほど人に喜びを与え、周りの人々にも素晴らしさが伝わるのかと、感激しました。やはり、カード、手紙、週報を送るのも力があるのです。人によってはあまり送られるとプレッシャーになったり、押しつけがましくなりはしないか、と思ったりしていましたが、そうではない。1枚のクリスマス・カードが新型コロナのために人にも面会出来ない、親族ともほとんど会えない孤独な魂に、どれほど大きな喜びを与えるかを知りました。大きな収穫です。家に帰って改めてクリスマス・カードを見たら、今朝の聖書箇所、ルカ福音書2章14節の聖句が書いてありました。
   「いと高きところには栄光、神にあれ、
    地には平和、御心に適う人にあれ。」
 そして、礼拝の説教題は「飼い葉おけの中のメシア」です。Sさんは、古くからの大磯教会員ですが、私が大磯教会に赴任して11年になりますが、その時に既に入所していたのです。一度も礼拝に来られていないのです。それでも信仰を持ち続けられている。心から主イエスを愛している。1枚のクリスマス・カードの御言葉に心躍らせている。1枚のクリスマス・カードで、私たちとクリスマスを共に祝っている。場所は離れていても礼拝を一緒にお祝いしている。これは奇跡といってもいいのではないかと思います。人間の力、努力を超えたものです。少しばかり忙しい時でしたが良い経験を与えられました。

あなたがたのための救い
 さて、羊飼いが経験した最初のクリスマスの話に戻ります。羊飼いは当時のユダヤ社会において、差別された人々だったという話をしましたが、
一方で、当時の社会において羊飼いは豊かで尊敬はされてはいなかったけれども、特別に差別はされていなかった、と考える人がいます。比較的貧しい普通の人々であったのだというのです。
詩編23編にはこう記されています。
  主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
  主はわたしを青草の原に休ませ
  憩いの水のほとりに伴い
  魂を生き返らせてくださる。

羊飼いに悪いイメージはありません。神様のお姿が羊飼いに重ね合わされています。羊飼いは、当時の社会では比較的貧しい人たちではありますが、いうならば一般庶民です。当時は圧倒的に多くの人々がこの部類に属していたのです。基本的には今の私たちと同じなのです。
つまり、私たちと基本的には同じような人々であったと理解した方が良さそうです。天使は、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と告げましたが、大きな喜びになるための鍵の言葉は、「あなたがたのために」という言葉にあります。天使は、これを「あなたがたのため」の救いの出来事だと告げたのです。人類全体への救いという一般論ではなくて、この私のための救いを告げられたのです。この私を選ばれた、その神様の選びこそ大きな喜びなのです。それと同じことが私たちに起こっています。クリスマスの喜びが教会に起こっています。そのことが起こるのが礼拝です。天使が知らせてくれた出来事を見るために出かけていくベツレヘムとは、この主日の礼拝なのです。

恐れるな、大きな喜びを伝えよ
まだ先の見えない感染症の拡大の中にあって、人々は不安と制限された生活の中で疲れも感じています。しかし、聖書はこう記します。『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった』。
クリスマスは「あなたがたのために」だと言われています。それは羊飼いたちに言われたことですが、それは文字通り、今日、ここにいる私たちのためでもあるのです。そして「御心に適う人に平和」とあります。人間の取り柄や資格は問題ではありません。「御心に適う人」とは、特別な長所を持っている人ではありません。それはただ御言葉を信じて受け入れる人です。信じて受けるだけがすべての人です。神の民とされたことが喜びの人です。
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉に、一箇所だけ触れます。イザヤ書40章9節。旧約1124頁、に「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。 声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ」とイザヤは語っています。高い山に登るのは、山の下の町にいる人たちに伝えるためです。福音というのは良い知らせを伝えることです。良い知らせを人々に知らせるために力を振るって福音を伝えるのです。希望を失っているみんなに良い知らせを届けるために、声を張り上げるのです。どうしても伝えたい、その思いは大きな声を生んでいきます。クリスマス、救い主の誕生を私たちも伝えたい。私たちの罪、重荷をすべて負って十字架に架かり、そして復活されたキリストを、私たちも恐れずに伝えていきたいと思います。イエス・キリストのもう一つのお名前、インマヌエルの主、主が共にいてくださるからです。希望の光である「インマヌエル」の主の誕生を心から祝いましょう。