12/11説教「主は先立って道を整える」

はじめに
クリスマス・クランツに3本目のローソクが灯されました。アドベントは、救い主を待ち、救いを待っている時です。しかし私たちが待っているだけではありません。もっと深い意味において、私たちを待っておられる方がおられるのです。私たちこそ待たれているのではないでしょうか。アドベントはアドベンチャーに通じると言われます。イエス・キリストは危険な冒険を冒してやってこられたのです。私たちを解放するためにやって来られたのです。心を開いてお迎えしたいと思います。
ところで、今年もあと3週間を残すまでになりました。多くのことがありました。ロシアのウクライナ侵攻は世界を驚かせました。まだ解決の目処もたっていません。何百万人の避難民が生まれ、世界は食糧が不足し、石油もガスも不足し、価格が高騰しています。世界の国々は自国の利益をあからさまに追求し、日本も軍備を増強しようとしています。自国民の利益を第一にすることは当然かもしれませんが、閉鎖的になることは世界にとって危険なことです。また安倍元首相の銃撃事件から旧統一教会と政治の癒着、カルト的手法で多くの被害が明らかになりました。しかし、カルト化は宗教団体、そして教会にとっても必ずしも人ごとではないことを認識しなければなりません。救済法の成立は一歩前進ということでしょう。またコロナ禍は長く続き、コロナと付き合いながら生活するしかありません。しかし、今の時代が特別暗く闇のような時代というわけではありません。最初のクリスマスの時も世界は暗く、困難の中にあったのです。今朝も救い主の誕生を待ち望み、キリストが再びこの世界に来られるという約束に希望を持つアドベントのメッセージを聞きたいと思います。

ヨハネの誕生
祭司であったザカリアは、主の聖所に入って香をたく奉仕をしていた時に、主の天使からお告げを受けます。1章13節以下に次のようにあります。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい。・・・彼は主の御前に偉大な人になり、・・イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」ところがザカリアはこの神からのお告げを受け入れることができず、人間的な判断によって心をかたくなにします。自分は老人だし、妻も歳をとっているのにどうしてそんなことがあり得るのだろうか、ついては何によってそれを知ることができるのか、と神を試み、しるしを求めようとしたのです。これに対して与えられたしるしは、ザカリア自身が、事の起る日まで口が利けなくなり、話すことが出来なくなるというものでした。
やがて、ザカリアの年とった妻エリサベトに子が生まれました。
人間のあらゆる思惑を越えて、神の御業がなります。口をきくことが出来なかったザカリアが、天使のお告げどおり生まれた子に「その名はヨハネ」と板に書いたとき、彼の不服従は消え讃美を歌いだしました。

救いの角
ルカによる福音書1章67節以下で、ザカリアが歌った讃美は、イスラエルの解放です。福音とは解放の訪れです。
68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し」
69我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
祭司ザカリアは「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と歌っています。「救いの角」というのは、神の力を現わしています。旧約の民は幕屋や祭壇の四隅にある青銅製の突起を「角」と呼び、そこにつかまることで、身に迫る危険から守られると信じました。そこは「逃れの場」であり、そこに留まり、そこにつかまっていれば、あらゆる敵の害悪と恐れと悩みから守られる場所だったのです。悲劇的で、救いの希望が全く見失われているような時に、そこから逃れる場である「救いの角」は、私たちにとってどこでしょうか。ザカリアの預言が教えているのは、それはメシア、キリストのおられるところだ、と語っているのです。私たちのために救いの角を、僕ダビデの家系から起こされたと歌っているのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)そう語られた方の下に留まっていることが私たちにとっての「救いの角」ではないでしょうか。人間の再三にわたる裏切り行為にもかかわらず、人間に身を向け、関わり続けられる神の憐れみをザカリアは歌っています。人間の世界における契約は、まことに頼りなく、自分に不利になれば直ぐに解約されます。信頼を裏切るような行為があればすぐに解消され得るものです。私たちは人から裏切られて傷つき、また自らも人を裏切ったり傷つけたりして生きています。自分でも気がつかないうちに人の心を深くえぐり傷つけるようなことをしている存在なのです。主の御前に正しく仕えることなどあり得ない、救いようのない存在なのです。それなのに私たちが「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」(74節)ことができるとするなら、それは私たちの中にある手柄や功績では決してありません。度重なる背信にも関わらず、「救いの角」であるキリストをこの世にお与えになり、これにつかまり、これに枝としてつながれ、憐れみの言葉をくださった神の恵み以外に、私たちの救いの根拠はないのです。

イザヤ書のインマヌエル預言
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉はイザヤ書40章1節から11節の言葉です。さて、初代教会は、主イエスのご降誕を理解するとき、イザヤ書のこの言葉をメシア誕生の約束に結び会わせて理解しました。ユダヤの歴史から見るならば、第二イザヤのこの預言は、ヒゼキヤ王を指していたと考えられるのです。神に背を向けてアッシリアに依り頼んで、そのアッシリアに滅ぼされたゼブルン、ナフタリの地を、再び回復されたことを、主イエスの誕生の時、ザカリアは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る」と述べているのです。
南ユダ王国は滅亡し、700年後に生まれた主イエスの時代、シオンの地はローマ帝国の支配の下にありました。初代教会の人たちは、このイザヤの預言がイエス・キリストがご自分を犠牲にされた十字架の死と復活で、もっと深い仕方で預言が成し遂げられたと理解したのです。クリスマスの預言の背後には、大国から蹂躙された戦争の悲惨、社会の悲惨、罪深さの爆発、そうした中でうめき苦しみ、傷ついた人々に対する神の出来事があるのです。そしてザカリアの子ヨハネは、成長して「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる人」となったのです。バプテスマのヨハネと呼ばれることになります。

ザカリアの子ヨハネ
ザカリアの子ヨハネは、成長して、まさに「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(77節)人となりました。バプテスマのヨハネは、ユダヤ人に罪を問いました。あなたがたは自分たちを「主の民」だと自負している。神の民なのだから当然、救いが約束されていると思い込んでいる。「主の民」だということに良い気になって、あぐらをかいているではないか。神から遠く離れている罪を悔い改めよ。そう呼びかけて、ヨルダン川で、罪の赦しのしるしである洗礼を授けました。そのことをザカリアは76節から77節で歌っているのです。
76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
77 主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。

平和への道
そして、ザカリアは78節,79節でこう歌っています。
78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。
ここで言う「暗闇と死の陰に座している者たち」というのは、特別な苦しみや不幸の中にいる人々のことではなくて、神に背き逆らう者、罪のとりことなり、神の怒りを受けて滅びるしかない私たち一人一人のことです。その私たちの上に、神の憐れみによって、あけぼのの光が訪れ、私たちを照らして下さるとザカリアは讃美を歌っています。「あけぼの」というのは、夜明けのことです。朝のことです。朝、水平線の彼方から太陽が上がるあの神秘的な力強さ、山の上で、最も深い暗闇から太陽の光がさす、あの一瞬の光景です。これはイエス・キリストのことを言っているのです。あけぼのの光こそが主イエス・キリストです。主イエス・キリストによる罪の赦しという救いにあずかった私たちは、この光に照らされて、「平和の道」へと導かれると歌っているのです。「平和の道」は、平和の内に歩むことができる道です。つまり平和は、この道を歩んで行くはるか先に目標としてあるのではなく、今ここに、現実としてあるのです。イエス・キリストによる罪の赦しという救いにあずかることによって、私たちは平和の道へと導かれるのです。

ある少女のプレゼント
リーダースダイジェストに掲載された実際の話です。カナダのある町のはずれに刑務所がありました。ある冬の寒い日、刑務所の高い塀の外の寂しい道を、12、3歳の少女が一人、行ったり来たりしていました。ちょうど刑務所の所長がそこを通りかかり、「どうしたの?」と声をかけたところ、少女は、おびえたように小さな声で言いました。「私、この中にいるお父さんにクリスマスプレゼントを届けに来たのです」。所長は、その少女のお父さんにプレゼントを届けてあげると約束しました。少女のお父さんは強盗犯人で、刑務所でも有名な嫌われ者でした。乱暴で、すぐにけんかをし、規則を守らず、手のつけられない囚人でした。所長は、自分で少女のプレゼントを渡しに行きました。でもそのお父さんは一言も口をきかず、包みを開こうともしません。怖い顔で所長をにらみつけます。所長は言いました。「君の娘さんの心のこもったプレゼントなんだ、さあ開けてごらん」と。やっとお父さんはリボンをほどき、小さな紙の箱を開けました。箱を開けたお父さんは「あぁー、これは!」と大きな声をあげました。なんと、その中にはきれいな金髪の巻き毛が入っていました。少女は、自分の髪の毛を惜しげもなく、ばっさりと切って、箱に入れたのです。そして娘さんのカードが添えてありました。「愛するお父さん、クリスマスおめでとうございます。お父さんに何か良いプレゼントを考えたのですが、お金がありません。お父さんも大好きだった私の大切な髪の毛を、クリスマスプレゼントとして送ります。早くうちに帰って来てちょうだい。私はいつも待っています。お母さんもいなくなったので、私は今、伯父さん叔母さんの所にいます。二人とも、お父さんのことを良く言いません。でも、お父さんは私にとって世界でたった一人のお父さん。寂しくても、私はお父さんを待っています」。手紙を読んでいるうちに、この男の目から涙がどっと溢れて、本当に長い間泣き続けたということです。荒れすさんだお父さんの心に平和をもたらしたのです。それから刑務所でも模範的な囚人になったそうです。

良い知らせを人々に知らせるために
最後に、今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉、イザヤ書40章9節でイザヤは、「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ」と語っています。高い山に登るのは、山の下の町にいる人たちに伝えるためです。福音というのは良い知らせを伝えることです。良い知らせを人々に知らせるために力を振るって福音を伝えるのです。希望を失っているみんなに良い知らせを届けるために、声を張り上げるのです。どうしても伝えたい、その思いは大きな声を生んでいきます。クリスマス、救い主の誕生を私たちも伝えたい。私たちの罪、重荷をすべて負って十字架に架かり、そして復活されたキリストを、私たちも恐れずに伝えていきたいと思います。日本のクリスチャン人口はカトリックもプロテスタントもギリシャ正教もすべて含めて全人口の1パーセントと言われて久しくなります。それは負け惜しみでなく、数の問題ではありません。主なる神が救いの業をなさるのです。心から主に仕える者を主はお求めなのです。
イエス・キリストのもう一つのお名前、インマヌエル。その意味は、主が我らと共にいてくださるという意味です。希望の光である「インマヌエル」の主のお誕生を心からお迎えしたいと思います。祈ります。

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