8/21 説教「知恵が必要である」

はじめに

 日曜日の夜、NHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」という放送をしています。三谷幸喜(みたにこうき)氏が解釈したエンターテインメントですが、面白く、毎回見ています。頼朝と義経の平家を滅ぼす話しは良く知っていましたが、伊豆や鎌倉と近い大磯、二宮も、頼朝が行った巻き狩りに乗じて親の敵、工藤祐経(すけつね)を殺した曾我兄弟の遺跡などもあったり、また三浦半島も三浦義村の領地で、馴染みのところです。先週の放送で、北条一族に滅ぼされた比企能員(よしかず)という有力な御家人が出てきます。演じている俳優の佐藤二朗氏は個性的な俳優で、歴史探偵という別の番組にも出演していますが、比企という苗字は平塚で何人か知っています。関係があるのかもしれません。放送を見ている内に北条義時役の小栗旬氏も、義時の盟友、三浦義村役の山本耕史(こうじ)氏も好感がもてます。神奈川県に身近な歴史ドラマのお話です。今朝の聖書箇所のヨハネの黙示録と全く関係無いように思えるのですが、一点に、国の政治のあり方、権力争奪のすさまじさ、悪い政治の実態、悪い指導者によって社会は混乱することなどは一致しています。そして問題が起きると直ぐに殺し合いが始まるのです。

 さて、今朝もヨハネの黙示録13章11節から18節の御言葉から、その恵みに預かりたいと思います。

獣の刻印は二匹の獣

 ヨハネ黙示録13章の主題は「国家」、特に「教会と国家権力の関係」のことを言っています。国家というものは社会に必要な組織であり、国が機能しているので秩序が保たれるのです。パウロは「上に立つ権威は本来、神によって立てられたものだ」と言っています(ローマ書13章)。しかし、国は必要な秩序であるが、しかし、絶対ではないのです。さまざまな間違いを犯すのです。時には悪い政府やとんでもない指導者が恣意的に法をつくてしまうことになります。かつてのナチスドイツはその典型でありました。この夏も広島、長崎の原爆の凄惨な映像を見ました。終戦記念日前後には太平洋戦争がなぜ起こったかを考えました。その時の指導者だけの問題ではないと思います。今もウクライナでは侵略の指導者と、国を守る人々の戦闘が続いています。その時、悪い国家権力が支配した時に教会はどうするか。これがヨハネの黙示録が直面した問題であったのです。

 さて、今朝の聖書箇所のすぐ前、13章の10節までに書かれていることは、海から上って来た獣がいたということです。この獣は、自らを神とするローマ皇帝、さらにはローマ帝国を意味しています。獣は竜から権威を与えられて、神のごとく人々から拝まれるのです。実はこの獣はイエス・キリストを模倣しています。皮肉っぽく作りかえたパロディーです。そのことは、ここに出てくる「竜」を「神」に置き換えるとよく分かります。13章4節を、「竜」を「神」に置き換えて読むとこうなります。

神(竜)が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は神(竜)を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」

 主イエスが神から権威を与えられて、人々から拝まれるように、獣は竜から権威を与えられて人々から拝まれるのです。また、獣が主イエスのパロディー(皮肉な模倣)であることは、3節の言葉にも示されています。3節はこうです。

この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってし まった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。

 主イエスが死から復活されたように、この獣の頭の一つも死から復活するのです。この獣の頭の一つは、ローマ帝国においてキリスト教会を最初に迫害した皇帝ネロと考えられています。ネロは自殺したと言われますが、民衆の間には、ネロが生き返るとのうわさが広まっていました。そのような民衆のうわさを背景にして、この所は記されているのです。ヨハネの黙示録が記された時代、教会は皇帝ドミティアヌスから迫害されていました。皇帝ドミティアヌスこそ、皇帝ネロの生き返りと言われていたのです。

 すでに海から獣が上っているわけですが、11節ではもう一匹の獣が「地中から上ってくるのを見た」とヨハネは言うのです。「海」と「地中」は世界を二分する二つの領域を言っているのです。ヨハネはこの二つを並べることによって、広大な領域全体を暗示しています。つまり、ここで「獣」と言っているのは、広大な領土と絶大な権力を誇ったローマ帝国のことをヨハネは暗に言っているのです。この「獣」は、神にさからう存在です。竜と同様にものを言うことができるが、同時に小羊に似ていたと言っています。竜は悪魔的であり、小羊はキリストを譬えて言っているのですから。つまりローマ帝国は、実質は悪魔的なのに、外見は神聖さを装っていると言うのです。そして「致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた」(12節)。と言っているのは、ローマ皇帝、暴君ネロのことであり、この暴君は神格化され、その像は礼拝の対象となったと言われています。

 竜が神のパロディ(皮肉な模倣)であり、海から上って来た獣がキリストのパロディーであるとすれば、地中から上って来た獣は聖霊のパロディーということでしょう。なぜなら、地中から上って来る獣は、海から上って来た獣に対し、そこに住む人々にローマ皇帝を礼拝するようにさせるからです。しかし、実はこの二匹の獣は、皇帝礼拝を推進する偽預言者たちのことなのです。

 そのことがはっきりと書いてあるのが、少し先の16章13節の次の言葉です。(470頁)

13わたしはまた、竜の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出てくるのを見た。

 この「偽預言者」が地中から出て来た獣であるのです。竜と獣と偽預言者、この三者は教会を滅ぼそうとする悪の三位一体とも言えるのです。

地中から上って来た獣は偽預言者

 地中から上って来た獣は、大地の裂け目から上ってきたようです。この獣には、小羊の角に似た二本の角があったと言います。小羊に似た角があることは、この獣が羊の皮を被った偽預言者であることを暗示しています。また、この獣は竜のようにものを言いました。竜は神のパロディー(皮肉な模倣)と言いましたが、12章9節を見ると「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」という説明がありますから、竜のようにものを言うとは、惑わすことを語るということです。このように、第二の獣は、人を惑わす偽預言者のことをヨハネは言っているのです。

 13節には、「人々の前で天から地上へ火を降らせた」と記されています。旧約の預言者エリヤが、バアルの預言者と戦って、天から地上へ火を降らせたように、偽預言者も、天から地上へ火を降らせたのです。そのようなしるしによって、人々を惑わせ、獣を拝むようにさせたのです。15節を見ると、「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにした」とあります。実際は、像の中に人間が入っていたり、隣の部屋から話したり、腹話術を用いたりしたようです。マジックを使ったのです。当時の人々にとって、像がものを言うことは、拝むべき神であることの証拠でありました。このように、偽預言者たちによって多くの人々が惑わされるのです。ここで一つ確認しておきたいことは、「許された」という言葉が使われていることです。14節に「先の獣の前で行うことを許されたしるしによって」とか、15節の「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて」とあります。ここで「許して」おられるのは誰でしょうか。それは究極的に言えば、神であります。なぜなら、悪魔である竜は、神の許しのもとで活動しているからです。竜が第二の獣に権力を与えたとしても、それは究極的に言えば、神の許しの中で行われているのです。では、なぜ、神はそのようなことを許されるのでしょうか。私たちもしばしば、そのように問います。神は何故殺し合う戦争を止めないのか。コロナ禍で、高齢者や基礎疾患のある人々に辛い目に遭わせるのか。自分だけに不公平な患難をなぜ与えるのか。サタンのささやきが心に芽生えます。神はあなたに耐えられないような試練は与えないというけれど、もう耐える限度を超えています、と言いたくなるのです。しかし、申命記13章2節から4節の言葉を読みたいと思います。

預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。

 偽預言者が行うしるしや奇跡、竜である悪魔が行う活動は、私たちにとって、全身全霊で神を愛する者であるかを試される試練であるのです。その試練として、神は偽預言者らがしるしや奇跡を行うことを許されるのです。

獣の刻印は666

 すべてのものに獣の刻印が押される。これも、神の僕たちに神の刻印が押されることのパロディーです。7章に四人の天使によって十四万四千人の額に刻印が押されたことが記されていました。ここで、獣の刻印が押されるということは、その人が獣に所有されていることを示しています。獣の支配の下にあることを示しているのです。この刻印はローマ帝国への忠誠の徴であります。そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも売ることもできないようにされたのです。つまり、獣の刻印を受けていないキリスト者たちは、経済活動を営むことができず、困窮を強いられたのです。ヨハネの黙示録の宛先である小アジアの教会は、そのような状況にありました。今、世界はウクライナ戦争の影響やコロナ禍の影響で、エネルギー不足、食料不足に追い込まれつつあります。支配力の強い勢力の刻印を受けなければ生存出来ないような緊迫感を感じます。2千年前のヨハネが黙示録を送った教会の状況を少しは味わっています。

 そのヨハネの教会に対して、「獣の刻印は六百六十六である」とヨハネは語るのです。ここではヨハネ黙示録で最も興味深い数字について語っています。「数字は人間を指している。数字は六百六十六である」(18節)。ヨハネ黙示録で最もよく知られている数字で、この謎めいた数字は何でしょうか。私たちにはさっぱり分からない数字ですが、黙示録を読んだ当時の人たちにとっては、よく分かった数字なのです。これについては古来幾つかの解釈がありますが、最も有力なのは、「ゲマトリア」という人名表現法を用いたのだという説です。ヘブライ語もギリシャ語もアルファベットがありますが、一つ一つの数の表し方は文字によったのです。たとえば、Aが1、Bが2、Cが3というようにしたのである 。このことを説明する例として紹介されるのは次の例です。

 ナポリ近郷のヴェスヴィオス火山が爆発してポンペイの町がすっかり溶岩と砂に覆われてしまった。その遺跡が発掘され、いくつもの落書きが見つかり、その一つに、「わたしは五百四十五の彼女を愛する」と書いてあるのだそうです。「六百六十六」も同じことであります。「ネロ皇帝」をローマ字で表記するとNRON KSRとなるそうですが、それぞれの字母の数字は、五十・二百・六・五十・百・六十・二百となるそうです。合計すると六百六十六になるのです。恐らく黙示録を読んだ信徒の多くは、六百六十六という数字を見ればネロのことを連想することが出来たのです。聖書において七という数字は完全数ですが、完全数の七百七十七には及びもつかないのです。悪魔は神より劣った存在です。そしてヨハネは、神として礼拝されるほどの権力を握った皇帝ネロもまた悪魔の手先である一匹の獣に過ぎず、やがて滅びるということを洞察したのです。この洞察には、信仰に支えられた知恵が必要であり、現在の世界の状況は、まさにこの知恵を私たちに要求しているのです。竜と獣と偽預言者の悪の三位一体の支配は歴史の中で時々現れます。それは不完全な666の数字で一時的な支配であります。そのことを私たちに教えています。そこに教会に対する慰め、励ましがあるのです。また、この洞察には信仰に支えられた知恵も必要なのです。現代の世界の状況は、正にこの知恵を私たちに要求しているのです。祈ります。

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