はじめに
祈りについての聖書の言葉から主のメッセージを聴いていますが、今朝は「疑わずに祈る」という題で、マルコによる福音書11章15~25節の箇所から、その恵みに預かりたいと思います。ここには主イエスの宮清めの出来事と、枯れたいちじくの木の教訓が記されています。共に祈りということがテーマとなっています。早速、主の御言葉の恵みに預かりましょう。
すべての人の祈りの家
柔和なイメージの主イエスにしては、なぜ、エルサレム神殿で暴力行使とも思える宮清めの出来事がなされたのか、という疑問が少なからずあります。今朝の前半、15節からは、主イエスが神殿の境内で、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したという、いわゆる「宮清め」の出来事が記されています。主イエスは、単に神殿が商売の場となっていることに対して怒られたのではありません。エルサレム神殿は幾重もの大きな囲いの中にありますが、その囲いの一番外側にユダヤ人でなくても入れる空間があったのです。そこが「異邦人の庭」です。神殿の中に入ることのできない異邦人たちのための唯一の礼拝の場でありました。ところが、その場所が、ユダヤ人たちが礼拝でささげる鳩や羊の動物を買ったり、献金のためのお金を両替する商売の場になってしまっていたのです。そのことに対して主イエスは激しくお怒りになったのです。異邦人たちの祈りと礼拝が妨げられている、そのことに対して主イエスは激しくお怒りになったのです。
献げ物の問題
今、旧統一教会の異常な献金の実態による被害と、政治家との関係が問題になっていますが、何千万円や億を超える献金を借金させてまで献金させるなど、異常としか思えません。しかし、主イエスは、献げものを否定してはおられません。貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献げた姿を見て、主イエスは心から喜んでおられます。レプトン銅貨というのは、現在に換算すれば50~60円ですから、二枚で100円ぐらいです。そこでは祈りの心が伴う献げものであるかどうかが問われているのです。ところで、当時、巡礼の人々が神殿に多く献げた供え物は鳩です。鳩は貧しい者の供え物の代表的なものでした。巡礼は泊まりがけの旅をしながらやって来るので、鳩を抱えてやってくるわけにいきません。神殿の内外にその鳩を売ってくれる人があり、それを買って献げるのです。日本の神社にも絵馬を献げる習慣があります。あれも、もともと生きた馬を献げなければならなかったのに、誰でも出来るわけではないので、馬を絵に描いて献げたのが由来だといいます。
また両替人のことが記されています。当時の人々は一年に一度は、税金のように神殿にお金を納めなければならなかったのです。しかし、納める通貨は古いユダヤの通貨(シェケル)と定められていたので、人々は、日常に用いているローマの通貨を両替しなければなりません。そのため神殿の中で両替人が手数料を取って商売していたのです。それらのこと自体は納得できることですが、異邦人が神殿で唯一祈りができる「異邦人の庭」で行っていたことに主イエスは激しく怒られたのです。主イエスがここで「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という旧約聖書の言葉を引用しておられることがそのことを示しています。
異邦人の救い
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、イザヤ書56章1~8節までです。ここには異邦人の救いだけでなく、宦官の救いについても語られています。3節にこう語られています。
3主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
異邦人も宦官も、神の救いの外にあると考えられていました。異邦人は神に選ばれた民ユダヤ人ではないからです。また、子供を生むことが神の祝福の印と考えられていたユダヤ人においては、去勢することによってその能力を捨てた宦官は祝福から落ちた者、まさに枯れ木のように実を実らせることの出来ない者とされていたのです。しかし、イザヤ書には主の民となることを熱心に求めるなら、主は彼らを御自分の民に加えてくださる、ということが語られています。そして、異邦人に対して、7節で次のように語っています。
7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なる ことを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
つまりこの言葉は、異邦人が神の民に加えられ、共に主に祈ることを許される、そして神殿が、異邦人も含めた全ての人々の祈りの家となる、ということを語っているのです。主イエスはその御言葉を引用して、「異邦人の庭」がユダヤ人の商売の場になっているこの現状は何か、と批判しておられるのです。
主イエスの宮清めの出来事に対して、「祭司長や律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(18節)とあります。それは主イエスの自分たちへの批判を知っただけでなく、主イエスが、神の礼拝の場であるべきこの神殿の本当の主人は自分であると主張していると感じ取ったからでしょう。確かに、全ての人々の祈りの家を打ち立てるために、主イエスはこの世に来られたのです。
枯れたいちじくの木の教訓
12節を見ると、「12翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。」と記されています。そして、その木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。とあります。そのいちじくの木を呪ったのです。いちじくの季節ではなかったからである、と書かれているので、言うことがむちゃくちゃという感じがします。理不尽ではないかと思えます。いちじくは普通6月に実がなるようですが、この時、過越の祭の頃ですから確かにいちじくの実のなる時季ではありません。しかし、ある人は、4月ならまだ冬を越した実が少数ながら見られると言われます。したがって時季外れに、実を求めた主イエスの態度も、決しておかしなことではないかもしれないと言っています。しかし、ここではそのことが問題なのではありません。主イエスは何か食べたかったのではなく、エルサレムの人々の心を御覧になり、神を崇める信仰の荒廃を嘆かれたのです。エルサレムの都は、葉の茂ったいちじくのように、遠くから見ると繁栄し、信仰心もあついように見えました。祭りの賑わいはそれを表わしています。けれども近くによって見ると、実の無い形ばかりの信仰であった。このいちじくの木に象徴される行為と、神殿を清められた主イエスの宮清めの行為は関係があるのです。私は、東京オリンピック大会(東京2020)の影で行われていた、大会運営者と、利権を得ようとした業者の黒い腐敗の影を思いました。コロナ禍の中で、開催が一年遅れても、選手は頑張り、平和の祭典は無事終わったかに見えたのに、裏では腐敗があったのです。
主イエスは神殿を「祈りの家」と考え、全ての人々が祈る場所だと理解していました。そこでは犠牲に捧げる動物を売ったり、神殿に献げるユダヤの通貨への両替で賑わい、両替屋が大もうけしたり、また神殿の祭司と結託していた商人もいたかもしれません。まさに祭りは、宗教行事であるとともに、商売の利益のあがる最高のチャンスであったのです。
祈りについての教え
マルコによる福音書11章22節以下に主イエスの教えが語られていますが、そのテーマは「祈り」です。祈りに関して二つのことが教えられています。まず22節から24節はこうです。
22そこで、主イエスは言われた。「神を信じなさい。23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」
つまり、少しも疑わずに信じて祈るなら、必ずその通りになる、祈りは聞かれる、ということです。その具体例として、山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言えばその通りになる、と語られているのです。
祈りは不可能を可能にする
「山が動く」という言い方があります。かつて社会党の土井たか子委員長が選挙で大勝した時に言った言葉です。山というのは、私たちが動かすことのできない現実としてそこにあるものです。物理的な山は、正確に言えば何千年という単位では少しずつ動いているのでしょうが、突然、大噴火や大地震で山体崩壊すると言うことでも無い限り動きません。動かない山が動くというのは、到底不可能と思われることが実現するということです。不可能が可能となるということです。山が立ち上がって海に飛び込む、ということが意味しているのはそういうことでしょう。その山とは、私たちにとって何でしょうか。私たちの人生は様々な困難の山に遭遇します。病気、離婚、子供の問題、会社の倒産や失業、死別、事故、災害などが突然やってくることがあります。それらは私たちの人生において立ち塞がり、歩みを妨げ、前に進むことができなくしている山かもしれません。自分の力で到底乗り越えられそうもない苦しみや悲しみかもしれません。私たちの内に深く巣食っている罪の思いが山かもしれません。そういう山が、祈ることにおいて動くのです。乗り越えられないと思われた苦しみ悲しみに耐える力が与えられるのです。そして、自分でぬぐい去ることができず、赦されることもないと絶望していた罪が赦され、新しく歩み出すことが出来るのです。祈ることにおいて、そのようなことが起こるのだと主イエスは言っておられるのです。祈りというのは、神を動かして自分の願いを叶えるためにあるのではなくて、神が既に備え、与えて下さっている恵みを信じて求め、それを見出していくためにあるのです。そのように神を信頼して祈り求める者たちの群れこそ、主イエスが打ち立てようとされておられる「祈りの家」です。全ての人をこの祈りの家へと招くために、主イエスは今エルサレムに来られ、十字架の死への道を歩んでおられるのです。主イエスの十字架の死と復活によってこそ私たちは、神が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、導き、支えてくださっている恵みをはっきりと知ることができるのです。そのようにして私たちも、祈りの家に招かれているのです。
ニーバーの祈り
リニューアルされた大磯教会ホームページの中に「牧師室から」というコーナーが出来ました。その最後にラインホールド・ニーバーの「冷静を求める祈り」を載せています。
神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
数え切れないほど多くの人々に愛されてきたこの祈り。人々はこの祈りを通して、あるときは変革への希望を抱き、あるときは変え得ない現実に冷静に対処する力を得つつ、神の恩寵の確かな支配に目を向けさせられてきたに違いありません。
教会は祈りの家
最後に25を読みます。
25また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。
この言葉は、「主の祈り」の中の、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と同じことを語っています。主の祈りにおいても、神に自分の罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すことが不可分に結びついています。私たちが人の罪を赦すことが、神に赦していただくための交換条件ということではありません。神は独り子イエス・キリストの十字架の死によって、罪人である私たちを赦して下さっているのです。しかし、私たちがその赦いの恵みを知り、恵みに預かるために、人の罪を赦すことが大切なのです。そのことは、私たちが祈りつつ、神との交わりに生きる中で与えられていくのです。今を主と共に生きる私たちにとって、教会こそ、全ての人々のための祈りの家です。私たちはこの祈りの家の家族として共に生きて行きたいと願うのです。 祈ります。