10/30 説教「聖霊が取り成す祈り」

 

はじめに

 今朝は「聖霊が取り成す祈り」というテーマで祈りを考えたいと思います。霊と言っているのは、何か神秘的な力ということではありません。人間の霊や魂のことでもありません。三位一体の聖霊のことです。私たちが洗礼においてキリストと結び合わされて新しく生きることができるのは、私たちの内に宿って下さっている聖霊の働きによるのです。ローマの信徒への手紙8章26

節にパウロが「同様に、〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあります。聖霊が私たちの内に宿って、弱い私たちを助けて下さるのです。それはどのような助けなのでしょうか。

早速、今朝の御言葉から、その恵みに預かりたいと思います。

 

私たちの弱さ

パウロは26節で「同様に、〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と言っています。私たちは自分が弱い者であることを、様々なことを通して思い知らされています。最近、坂を上る時、歩くことが辛いと感じることがあります。余分な脂肪が歩行を困難にしていることもあると思いますが、つい老いのせいにしてしまいがちです。様々な肉体的な弱さを意識させられます。またデジタル化で変化の激しい時代について行けない弱さを感じます。長引くコロナ禍と世界戦争への不安、また多くの友を失い人生の終末と孤独で心が弱り、それを乗り越えて行けない弱さを抱えています。しかし、その弱さの中で、パウロがここで特に語っているのは、私たちが抱えている様々な弱さの中で、最も根本的なこととして見つめるべきなのは、人々が「どう祈るべきか知らない」という弱さだと言っているのです。

そこで、パウロが第一に語るのは、聖霊は「弱いわたしたちを助けてくださる」ということです。ここで「助けてくださる」と訳されている言葉は、ギリシャ語の語源的に言うと、三つの言葉をくっつけてできた言葉、三つの言葉の複合語だと言われます。一つは「一緒に」という言葉で、二番目は「代わって」という言葉で、三番目は「受け取る」という意味の言葉だと言われます。忙しく立ち働いているところに、一緒に立って働いてくれる、辛いなと思う仕事を代わってくれる、自分の重荷を受け取ってくれる。そして自分の傍らに立って一緒に働いてくれる方。聖霊はそのように私たちの手助けになるお方なのだと、パウロは言うのです。しかし、いったいどこで私たちを助けてくださるのか。それは、私たちの弱さが現れてくるところで、私たちに代わって、その弱さを担い取ってくださると言うのです。

26節の始めに「同様に」とありますが、23節で「〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」という言葉を受けているのです。

 

祈れない弱さ

パウロは祈れないことが私たちの弱さの中心だと言いますが、皆さんはどう思われるでしょうか。弱さの中心はもっと他にある。能力の無さや、心の弱さ、肉体の弱さの方が深刻だと思いがちです。祈ることについては、私たちが困った時、弱さを覚え苦しみを感じる時には祈ることができると言うかもしれません。そうであれば、祈れないことが私たちの弱さだというのは当たらないことになります。しかし、ここでパウロが「祈る」と言っている言葉は、祈り願うことを求めることだけでなく、神を拝み、御言葉を聞き、神と共に生きるということの全体が祈りに込められているのです。つまり、私たちが御心にかなった祈りをどのようにしたらよいのかわからないという意味なのです。そうだとしたら私たちは「どう祈るべきか知らない」者なのです。自分の願いや希望だけを神に祈ることはできても、それは本当の意味で正しく祈ることではないのです。それが出来ないことに私たちの弱さの根本があるのです。

祈らないことが最大の罪だと書いている『祈りの精神』(フォーサイス)の言葉を前回紹介しましたが、聖霊は、「私たちの中に生きて働く神」ですから、私たちは聖霊の助けを求めて祈る以外にないのです。他のすべての助けは、人間の目には立派に見えても、聖霊の助けを欠くとき、何も起こらないのです。

私たちは,「私は何をどのように祈ったらよいか分からない」と言います。これこそが、私たちの本当の弱さということです。しかし、聖霊はこの私たちの弱さを知っています。具体的に目に見えるものしか信じない、この弱さを一番良く知っておられるのは神ご自身です。しかし、知っているだけでなく、実際に助けて下さるのです。「共に、代わって、受け取って」下さるのです。単に助けるのではなく、私たちと一緒にいて、重荷を負ってくださるのです。ルカによる福音書10章30節以下に語られているたとえ話があります。強盗に襲われ瀕死の旅人を、通りかかったサマリア人が介抱し、荷物を負い、一切の面倒を看てくれたように、聖霊は実に私たちの荷物を負い、介抱してくださるのです。聖霊ご自身が私たちを捕えてくださるのです。弱くて無知であるにもかかわらず、私たちが平安と確信をもつことが出来る理由はここにあるのです。

 

人の心を見抜く神

27節は次のように語られています。

人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は、神の御心に従って、聖なる者たちのために取り成してくださるからです。

「人の心を見抜く方」と言っていますが、聖書協会共同訳では「人の心を見極める方」と訳していますが、それが父なる神です。神は私たちが心の奥に隠しているすべての思いを見抜き、ご存じです。私たちは、自分の心の思いを人には隠しておくことができても、神に対しては隠しておくことはできません。私たちの心の中には様々な罪の思いがあります。また人には見せていない様々な弱さがあります。そしてその弱さの中心には、神にどう祈ったら良いのか、神との関係を築くことのできないという根本的な弱さがあります。

しかしここでパウロは、「人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます」と言っています。つまりパウロがここで言おうとしているのは、神は、私たちの心の隅まで知っているから何も隠し立てできない、ということではなくて、神は、私たちの心を見つめる時に、私たちの内に宿らせて下さった聖霊の思いを見つめて下さると言っておられるのです。聖霊の思いとは、私たちのために執り成し、私たちと神との関係を良いものとするために骨折ってくださる思いです。神はこの聖霊の思いを通して私たちを見つめて下さるのです。それが父なる神の御心なのです。この聖霊の執り成しによって私たちは、御子イエス・キリストが十字架の死と復活によって成し遂げてくださった罪の赦しの恵みに預かれるのです。ですから、私たちは「人の心を見抜く」神を怖がる必要はありません。むしろキリストによる救いに信頼して、安心して神に祈ることが出来るのです。

 

神は御手をもって私をとらえてくださる

今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、詩編139篇1節から10節までです。

1主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。

2座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

 

5前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いてくださる。

6その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。

 

9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも

10あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

この詩編の詩人は、神が自分のことをすべて知っておられること、この世の何処に行っても神の御前から逃れることはできないことを歌っています。そのことは詩人にとって恐ろしいことではなく、むしろ喜ばしいことなのです。天に登ろうとも、陰府に身を横たえようとも、海のかなたに行き着こうとも、神がそこで御手をもって導き、右の御手をもってとらえてくださる、ということを詩人は喜びをもって歌っているのです。聖霊が弱い私たちを助けて下さる、その助けはこのように、聖霊が私たちのために取り成して下さることによって与えられているのです。

 

讃美歌「いつくしみ深い」

 この後歌う讃美歌21-493番「いつくしみ深い」は世界中で愛されている讃美歌の一つです。主イエスの無償の愛を歌っていることから、結婚式で歌う讃美歌の定番にもなっているようですが、決して華やかな状況の中で生まれた歌ではありません。讃美歌の中では祈りの讃美歌として分類されています。一度、説教でもお話したことがあると思います。歌詞は次の通りです。

1 いつくしみ深い 友なるイェスは   2 いつくしみ深い 友なるイェスは

うれいも罪をも ぬぐい去られる。   われらの弱さを 共に負われる。

悩み苦しみを かくさず述べて、    嘆き悲しみを ゆだねて祈り

重荷のすべてを み手にゆだねよ。   つねに励ましを 受けるうれしさ。

 

3 いつくしみ深い 友なるイェスは

愛のみ手により 支え、みちびく。

世の友われらを 捨てさるときも

祈りに応えて なぐさめられる。

原曲の作詞者は、アイルランド生まれのジョセフ・スクラィヴィンという人です。彼の生涯は決して明るいものではありませんでした。それどころか、彼の生涯は悲しみの連続で、最初の婚約者は結婚式前夜に溺死しました。その後、移民として渡ったカナダでの結婚相手も結婚式直前に亡くしています。彼は、主イエスを信じる心は、自分の中にある神と一体になることだと理解し、一生を不幸な人や貧しい人への奉仕にひたすら仕えました。そして彼自身も溺死してしまったのですが、事故かどうかは分かっていないようです。この「いつくしみ深い」という賛美歌は、作者自身の述懐によれば、彼の母は長く闘病生活を続けていたそうです。「自分も苦しいけれど、母親も病と闘う苦しみに耐えている」そんな母を慰め、励ますためにこの詩を書いたと言われます。この賛美歌は、彼の代表作として、近代賛美歌のうち最もポピュラーなものの一つですが、実は、彼の晩年に病床を見舞った近所の人が偶然草稿を発見し、読んで感動し、なぜこれを発表しないのかとたずねたところ、「この歌は悲しんでいる母を慰めるために、神様と私が作ったもので、他人に見せたり、歌ってもらったりするつもりはなかった」と語ったと言います。2節に「嘆き悲しみを ゆだねて祈り」とあり、3節に「祈りに応えて なぐさめられ」とあるように、ジョセフ・スクラィヴィンの一生は、主に嘆き悲しみをすべてゆだね、祈りに応えて、主からなぐさめられた一生だったのです。前向きな信仰を歌った祈りの讃美歌です。

 

万事が益となるように変えられる

神はすべてのことを、共に働かせて、神を愛する者たち、ご計画に従って召された者たちのために益となるようにしてくださるのです。神はただ聖霊を送って助けてくださるだけでなく、私たちの周りに生ずる、あらゆる出来事を共に働かせるのです。そして万事を益と変えてくださるのです。神は、悪をさえ善に変え、災いさえも私たちの益に変えてくださるのです。神の長い御計画の中で、すべてが益と変えられます。山に登る者にとって、途中の困難は、かえって益になります。弱さを通して神の愛を学び、苦しみを通して信仰を得ることができます。しかし、そのように益に働くのは、「神を愛する者たち」に対してです。もし山の頂上を目指さなければ、山登りは強制労働にすぎないでしょう。万事が益と変えられるには、神とその愛に目が開かれなければなりません。神の御計画と御業は、何ものにも損なわれません。この愛の御計画に目が開かれる時、すべてのものがわたしに役立ち、前進できるのです。

様々なうめき苦しみの中で私たちに「父よ」という祈りを与えて下さるのが、聖霊の執り成しです。聖霊は、様々な弱さの中で嘆き悲しんでいる私たちのうめきを「父よ」という祈りに変えて下さるのです。私たちは28節に語られているように、父が私たちを召して下さり、万事が益となるように計らって下さることを信じて、神の御心にゆだねて生きてゆきたいと願うのです。

祈ります。

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