はじめに
祈りについて語っている聖書の箇所から御言葉を聞いてきましたが、今日が9回目で最後になります。そして次週のアドベントの礼拝から、主のご降誕へむけての御言葉の恵みにあずかりたいと思います。祈りの最後は「パウロの祈り」と題して、喜びの手紙といわれるフィリピの信徒への手紙1章3節から11節の箇所からパウロの祈りを学びます。では早速その御言葉の恵みにあずかりましょう。
フィリピ教会の人々
このフィリピの信徒への手紙ですが、これはパウロがローマで獄中から送った手紙で、パウロの最後の手紙と言われます。パウロは獄中から書いているのですが、「喜び」という言葉が何度も記されています。
フィリピの信徒への手紙は、かつて第二回伝道旅行でマケドニア、つまり今のギリシャにある町ですが、そこに行った時にパウロによって建てられたフィリピ教会に宛てて送られた手紙です。フィリピに教会が出来た時の様子は使徒言行録16章11節以下に記されていますが、パウロが小アジアのトロアスから地中海を渡ってマケドニア地方のフィリピに行ったのは紀元50年頃のことです。そこで紫布の商人でリディアという婦人が信仰者になり、そして家族ともども信仰を持つに至りました。したがってフィリピ教会はこのリディアの家の教会から始まったわけです。家庭集会のような集まりから始まったというわけです。ところが、ある出来事によってパウロと同行のシラスたちは捕えられ、牢に投獄されました。その牢獄の中でも、賛美の歌をうたって神に祈るパウロたちの姿によって、人々は大きな影響を受けたと言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と、パウロはこのフィリピの地で語ったと言います。しかし、フィリピの人々とは、ほんのわずかな交わりであったのです。それが脈々と今もなお続いて存在しているということがパウロの手紙からよく分かります。今朝の聖書箇所は、そのフィリピ教会の人々へ牢獄の中から書き送られたパウロの手紙なのです。
パウロを喜びで支えるもの
そのような厳しい状況にあるパウロが、フィリピ教会の人々の存在によって、今支えられているというのです。「監禁されているときも、福音を弁明し、立証するときも」、フィリピ教会の人々の存在を神に感謝していると言うのです。フィリピ教会の人々のために喜んで祈っているとパウロは言っているのです。逮捕され、投獄されているパウロが、フィリピ教会の人々の生きている姿によって支えられている。わずか数人で始められたフィリピ教会の群れが今もなお生きて、パウロによって語られた福音とともに、フィリピの地で生き続けていることに、パウロは神に感謝し、いつも喜んでいると言っているのです。このパウロとフィリピの教会の人々をつなぐものは一体何なのでしょうか。
パウロはその理由を、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」と言います。そして、「最初の日から今日まで、あなたがたの中で善い業を始められた方が、その業を最後の日までに成し遂げてくださると確信しているからです。あなたがた一同を、共にその方の恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」と言っているのです。フィリピの教会の人々が今、「共に恵みにあずかる者」として存在していることが、私の喜び、わたしの神に対する感謝であるとパウロは語るのです。この小さな群れであるフィリピの教会の人々の姿に、パウロは慰められ、励まされているのです。大磯教会も大きな信仰の群れではありません。しかし、私たちのこの信仰者の群れ、小さな姿にもまた、大きな務めがあるのです。「共に恵みにあずかる者」を物語る存在なのです。
しかし、パウロはいたずらに過去に捕われ、感慨にふけっているわけではありません。「あなたがたのうちに良い業を始めたお方が、キリスト・イエスの日までに完成してくださる、このことをわたしは確信しています」と極めて前向きに語っています。将来を見据えています。一般的に私たちは、高齢化するとともに、後ろを振り返り、過去のことばかりを考えがちです。しかし、過去にのみ生きている人には将来がありません。生きているとは、将来を持っていることではないでしょうか。今パウロは、「キリスト・イエスの日」という、信仰者の将来を示しました。それはほかでもなく神の国の到来の日です。主イエスが再び来られる日、それは当てにならない頼みではありません。「わたしは初めであり、終わりである」と言ってくださった、イエス・キリストが、最後に全てを完成してくださることを目標にして生きるのです。
聖霊のコイノニア
コイノニアというギリシャ語があります。「交わり」と訳します。大磯の国府教会の近くをよく車で通りますが、近くの看板に「コイノニア」と書いてあります。教会の中で「コイノニア」という言葉をよく聞きます。教会では普通「コイノニア」と言うと、人々の交わりを指しますが、パウロはコリントの信徒への手紙二13章13節で「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と語り、祝福の言葉において「聖霊の交わり」というように使っています。礼拝の最後の祝祷の言葉がそうです。「聖霊のコイノニア」です。今日の聖書の箇所でも、「福音にあずかっている」というのは「福音のコイノニア(交わり)」ということです。また「恵みを共に受ける者」というのは「恵みのコイノニア(交わり)」ということです。パウロの場合、私たち相互の交わりよりも、このように神との交わり、あるいは神の恵みの交わりというように用いることがほとんどです。この点、私たちが「コイノニア」というと、すぐ人間同志の交わりと取るのと対照的です。パウロが語るコイノニアも、もちろん、私たちの交わりではあるのですが、そこにはまず神との交わりがあって、私たちの交わりが成り立つのだと言うのです。兄弟姉妹の交わりは、神との交わりに支えられ、導かれているものでなくてはならないことを表わしています。キリスト者の交わりは、ただ皆仲良くといったことであってはいけないのです。霊の力に支えられて、成り立つ交わりでなくてはならないのです。
パウロの祈り
パウロはフィリピ教会への愛を語ったすぐ後に、9節、10節で次のように語ります。
9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて。清い者、とがめられるところのない者となり、
ここで、パウロはフィリピ教会の人々の愛が増し加わることを祈っていますそして、そのことが実現されるために「知る力と見抜く力を身に着けて」と祈っているのです。キリストの愛が豊かになるために、ある認識力が求められているのです。それは、単純に知識を得るというようなことではなく、主が、私たちに臨んで下さり、私たちの信仰の目が開かれ、主イエスの救いが自分自身のものとなると言うことです。だから、キリスト者は、知る力が与えられるように祈りつつ歩むのです。その時に、キリストの十字架の救いが知らされつつ、愛が生まれてくるからです。更に、パウロは、愛が豊かになって、その結果、「本当に重要なことを見分けられるように」なると語ります。愛が豊かになることによって、更に、重要なことが見分けられるようになると言うのです。本当に重要なことは何かを見極めるようにと言うのです。私たちの愛は、しばしば、私たちを盲目にさせ、重要なことが見分けられないという事態を生み出します。しかし、キリスト・イエスの救いの恵みから始まって豊かにされた愛は、私たちに何が重要なことなのかをわきまえる者とさせるのです。
神への畏れは知恵の根本
今朝の旧約聖書の御言葉は詩編111篇です。この詩編は神への賛美を歌った詩編ですが、詩人は、心の底から、会衆の中で会衆と共に神を讃美告白しています。また、「心を尽くして」誠実に感謝することが強調されています。そして、10節で、詩人は、神への畏れはすべての生活の知恵の根本であると歌っています。詩人は、自分自身の思想によく合う有名な知恵の言葉、箴言1章7節の言葉をこの讃美の詩編に付け加えているのです。
10主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。
神を畏れることは、この世に命を与えられている人間の分をわきまえ、へりくだることを意味します。単に知識だけでなく、熟慮と慎重さをもって生きることへと導く賢さを示しています。この知恵を得るために、私たちは生きることの真の意味と目的に目覚めなければならないのです。日本の夏は40度を超える熱帯のようになり、海水温が上がり今まで捕れた魚が捕れなくなり、氷河が溶けて世界中で洪水が起き、一方で大干ばつ、森林火災が起き、地球は危機的状況です。人間の利便性のみを求め、開発優先で来た結果が現在の状況です。地球全体の人口も増加し、賢い知恵が必要になっています。地球という星の環境を守ることは、人類全体にとっての急務です。神を知る賢い知恵を人間に与えて欲しいと願わざるを得ません。
神の栄光と誉れを讃える生き方
パウロは最後に11節で次のように祈ります。
11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け て、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
それはキリストの日、つまり終末の時に向かってゆく歩みです。キリストの 日に備えて、純真で責められるところのない者となり、イエス・キリストの義の実に満たされて、神の栄光と誉れを現わす生き方です。現在とても重要だと思っても、やがて神の目から見れば価値のない場合があります。また、今つまらない価値のないものに見えても、やがて力を発揮するものもあります。最後に主イエス・キリストのいらっしゃる、その日にほめていただけるもの、それをこそ求めてゆかなくてはならないのです。様々な社会情勢や、政治状況や、個人の家庭状況に悩み惑わされますが、本当のものを見失ってはならないのです。ルカによる福音書10章41節、42節でイエスはマルタに言われました。
あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。
主イエスが求めている、この本当のものに私たちは励みたいものです。
祈ります。