はじめに
今日から待降節、アドベントに入ります。今年は12月24日のクリスマス・イブが土曜日で、25日の日曜日がクリスマス礼拝になります。今年は、クリスマスの日が聖日礼拝というまれな年です。主イエスのお誕生を喜び合いたいものです。しかし、今またコロナの第8波の中にあるので、お祝いの会も感染対策をしながら、ということになるでしょう。しかし、どのような状況の中にあっても、世界中が救い主の誕生をお祝いします。教会の長い歴史はそうしてきたのです。さて、待降節第1主日に与えられた説教のテーマは「主の来臨の希望」ということです。早速、御言葉の恵みに与りたいと思います。
主の再臨の予告
今日の聖書箇所のルカによる福音書21章は、主イエスのご生涯の最後の一週間の出来事です。エルサレムに入城された主イエスは、毎日、エルサレム神殿の境内で集まって来る人々に教えを語っておられました。そのことは、この21章の最後、37節、38節に語られています。
37それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。38民衆は皆、話しを聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まってきた。
主イエスは、エルサレム神殿で、人々や弟子たちの前で、この神殿がやがて破壊される日が来ること、そしてエルサレムも陥落することを予告されました。
主イエスが語られたことは、この世の終わりについてのことでした。この世の終わりが近づいてくるとどんな徴があるのか、と問うた人々に対して主イエスは戦争とか、暴動とか、大きな地震、疫病といったことが起る。また、神を信じ、主イエスに従って歩んでいる者に対する迫害が起り、そのために殺されてしまう者も出ると、21章の前半でお語りになりました。けれども、そこで主イエスが語られたことの最も大事な点は、それらの恐ろしい出来事でこの世が終わるのではない、終わりをもたらすのは27節に語られているように、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と言う出来事なのです。「人の子」とは主イエスご自身のことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来る。父なる神のみもとから、もう一度来られるということです。それを主イエスの再臨と言います、この世の終わりは、恐ろしい破局によってではなく、主イエスの再臨によって来るのだと、主イエスは言われたのです。
なぜ、主イエスはご自身を「人の子」と呼ばれたのでしょう。「人の子」というのは旧約聖書のダニエル書7章13節で、ダニエルが見た幻の中で、永遠の主権者、最終的審判者を意味する言葉として用いられています。主イエスは、ダニエルが幻の中で見た「人の子」という言葉を、再び地上に来られるご自身を表わすものとして使っています。私たちにとって、主イエスの再臨は、恐ろしい審きの日ではありません。私たちの解放の日です。主イエスは、罪に支配され、その奴隷となっている私たちを二千年前にこの世に来て下さり、私たちの罪のすべてをご自身の身に背負われ、十字架にかかって死んで下さいました。罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスがもう一度来てくださるのは、悪を審き、私たちの救いを完全に成してくださるためです。つまり、主イエスの再臨は、私たちが罪から完全に解放される時でもあります。
主イエスは「わたしの言葉は決して滅びない」(33節)と言われています。ですから、私たちは、主イエスの再臨に希望を置いて、たとえ苦しみの中でも、「身を起こして頭を上げ(28節)、忍耐して信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。
神の国が近づいている
29節以下において主イエスは、身を起こして頭を上げつつ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていく私たちのための教えを語って下さっています。主イエスは一つのたとえによってその教えを語られました。「いちじくの木や、ほかのすべての木」のたとえです。時の徴を、いちじくの若葉にたとえて語られました。それらの木を見ていれば若葉が出始めれば夏が近いことがおのずと分かると言われます。その意味は、いちじくの木は、葉が出るよりも早い段階で、花が咲くようなのです。葉よりも花が先に咲いて、早成りの実がつくといいます。葉の出現と収穫の時との期間が短いのです。葉が出る時にはいよいよ収穫の夏になるのです。人々がいよいよ収穫の時だと悟るというのです。主イエスがここで語ろうとしておられるのは、31節の、「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起るのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」ということです。様々な恐ろしい出来事が起るのを見る時、私たちは恐れ、うろたえます。そのような私たちに主イエスは、これらのことが起るのを見たら神の国が近づいていると悟りなさい、と言われたのです。神の国とは、神のご支配という意味です。罪と汚れに染まった旧世界が一掃されるという希望に満ちたことなのです。つまり主イエスがこのたとえによって語っておられるのは、さまざまな恐ろしい出来事による苦しみや悲しみや迫害が起るならば、神の国の到来による救いの完成が近い、だから、身を起こして頭を上げ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜きなさい、ということなのです。
心が鈍くならないように
この信仰に生きるためのもう一つの教えが34節以下に語られています。
34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
心が鈍くなるというのは、神の御言葉に対する感覚が鈍ることと言ってもいいでしょう。天地は滅びるが、神の御言葉は決して滅びない、ということを見失い、御言葉よりも天地の方が、つまりこの世の中で盤石に見えるものの方が滅びないもの、頼りがいのあるものに見えてしまうことです。そうなると、この世のものに人生の基盤を置き、それに寄り頼んで歩むことになります。その結果どうなるか。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲う」ことになるのです。神の御言葉を聞き、そこにこそ信頼を置いて生きる信仰の感覚を鈍らせるもの、それが「放縦や深酒や生活の煩い」ということです。
若い時の罪と背きは思い起こさないでください
詩編25篇は、詩人が自分の信仰にかかわる問題をまじめに受け止めて歌った嘆きの詩です。したがって内容的には、個人の嘆きを歌った詩編です。詩人は神への信頼のなかで、自己を見つめつつ、その歩むべき「道」が示されることと苦難からの解放を願っています。この詩の中心的な言葉は、11節の『主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください。』という言葉です。この「罪深いわたしをお赦し下さい」という祈りを真剣に受け止めて歌っています。しかしながら、罪の赦しの解決が与えられるのは、主イエス・キリストを待たなければならないのです。
そして、7節の言葉に注目したいと思います。懺悔の言葉です。
7わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。
「若いときの罪と背きは思い起こさないでください」と主(ヤハウェ)に願っているのです。若い時には、誰しも無茶をし、勝手なことをして、親もさぞ心配したことであろうと、親も亡くなった頃気が付くものです。夢多い時であると同時に、恥多き時でもあります。人間は誰しも、世間的には体面を保てても、若い時の罪を今もどこかに引きずっているのです。この詩人も、主の前では隠すことができません。詩人は若い時のことを思い出しているのですが、どうぞ主よ、私の若い時の罪や恥を思い出さないでください。若い時の私に対しては目をつぶっていてください。と都合のいいお願いをしているのです。あなたの慈しみにしたがって私を思い出してください。罪と恥を思い出さないで、私を御心に留めてくださいと歌っているのです。人間心理の機微に属することを歌った詩編として珍しい内容ですが、私たちの心にも響くものです。私自身も若いとき遊びを共にしていた親友に語らせたらこまることが沢山あります。若気のいたりとして密かに葬りたいことを誰もが抱えているものです。中世の西欧キリスト教神学の基礎を築いたとも言えるアウグスティヌスが『告白』で書いていることは衝撃です。梨を盗んだ少年時代、また、一人の女性と出会い同棲で子供が生まれ、後年、アウグスティヌスがこの伴侶に対して取った態度への深刻な反省が、彼のキリスト教への回心を促すことになります。
この7節の歌は、詩編には珍しい人間の機微に触れるすばらしい歌ではないでしょうか。
いつも目を覚まして祈りなさい
36節には「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」とあります。滅びから逃れて「人の子の前に立つことができるようにと言われています」。私たちは再臨の主イエスによる最後の審判において、自分の正しさ、清さ、立派さによって救いを獲得出来るような者ではありません。私たちは、生まれつき、神をも隣人をも愛することが出来ずにむしろ憎んでしまう罪人です。その罪は私たちを支配しており、自分の力でそこから抜け出すことが出来ません。だから、最後の審判において、自分の正しさはどうかと問われたら、私たちに救われる可能性はありません。私たちの救い、解放は、私たちの罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられるものです。主イエス・キリストは、今、今日この日に、私たちが主イエスの前に立つことを求めておられるのです。人の子主イエスの前に立つべき時は、世の終わりではなくてむしろ今なのです。
そのための勧めが「いつも目を覚まして祈りなさい」ということです。祈ることなしに信仰は成り立たないのです。祈っていることこそが、信仰において目を覚ましていることなのです。私たちは、この世の煩いに心鈍らせることなく、目を覚まして日々過ごしたいと思います。 祈ります。