12/25説教「人となられた神」

はじめに

今年のクリスマス礼拝は、ちょうど12月25日に当たり、今日、世界中でクリスマスを祝っています。子どもたちもプレゼントが貰える嬉しい日です。皆様と共に、救い主イエス・キリストのご降誕を、お祝いできますことを、心から主に感謝いたします。二千年前、私たちを愛し、私たちを救いたいと、切に願われた神は、独り子イエス・キリストを、この世に送ってくださいました。クリスマスの夜、ベツレヘムの馬小屋で、幼な子イエスが、飼い葉桶に眠られたように、皆様の心の中に、主イエスが宿ってくださいますように祈ります。

ところで、夕方のテレビ番組で5歳のチコちゃんが質問してゲストが答えるという「チコちゃんに叱られる」という番組がありますが、少し前ですが、こういう質問をしていました。1年を振り返って子供は長く感じるのに、大人は短く感じるのはどうしてか、という質問です。ゲストの皆さんもいろいろ言っていましたが、結局は分かりません。私も何故だろうと思いました。答は、子供は好奇心が強いからだと言うのです。何にでも好奇心があり関心をもつというのです、どうして、何でだろうと常に新しい発見がある。常に活動しているから長く感じるんだというのです。それに対して大人は、ある意味、生活が惰性になっていて、新鮮に感じなくなっている。だから1年が過ぎるのが短く感じるのだというのです。意外な答えでしたが、ああ、そうなんだと納得しました。しかし、今年は大人も1年が長く感じたのではないでしょうか。全てに超然としていていつもと変わらないと思う方もいるかもしれませんが、決して好奇心が強い訳ではないのですが、世の中があまりにも衝撃的で、驚かされることが多かったのではないでしょうか。コロナ禍は3年過ぎ慣れて不感症になりつつありますが、ロシアのウクライナ侵攻は世界に衝撃を与え、世の中を変えました。過去の戦争の記憶が呼び覚まされましたし、何百万人の避難民が生まれています。日本も専守防衛の世論が、一斉に反撃能力を持つ自衛隊という方向に動き出しました。時代と平和に逆行する暗い傾向ですが世論も支持しています。石油もガスも家畜の飼料も、食料も、輸入にたよるもの全てが高騰しました。そして旧統一教会の献金や不当な勧誘や資金集めや、カルトの問題が大きくクローズアップされ、政治との関係があまりにも深いことに衝撃を受けました。私たちに無関係ということはありません。さまざまな事がありましたが、今日が今年最後の礼拝でもありますので振り返っているのですが、大磯教会にも、皆様一人一人にも様々な不安、悲しみ、怒りもあったと思います。決して明るくはない1年でありました。携帯基地局のために人生を突然振り回された姉妹もおりますし、先週の木曜日早朝、天に召された敬愛する姉妹のことを覚えます。姉妹の周りにはいつも人の輪がありました。ご家族も教会もその突然の悲しみの渦中にあります。しかし、これ以上語ると聖書の説き明かしでなくなるので止めますが、しかし、聖書が語っている救いの出来事の歴史も暗い中にあったのです。ルカによる福音書1章79節にザカリアが預言した次の言葉があります。

暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

クリスマスの出来事は「夜」の出来事でした。世界に「夜」があり、私たち自身に「夜」があります。しかし、その夜の真っ只中に神の恵みの「光」が訪れた、それがクリスマスです。この「夜」とその中に輝く「光」というコントラストによって、私たちに、もたらされたクリスマスの救いの素晴らしさを御言葉から学びたいと思います。そして神を賛美したいと思います。

 

初めに言があった

    初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(1節)

この謎のような言葉をもってヨハネによる福音書は書き始めています。「言」と一字で訳された言葉は、ロゴスというギリシャ語で、知恵という意味がありますが、実はイエス・キリストのことを聖書は語っているのです。この「言」を「イエス・キリスト」に入れ替えて読むと意味がよく分かります。「初めにイエス・キリストがあった。イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった」というように読めるのです。そして、「初めに言があった。」とありますが、これは、創世記第1章1節の「初めに、神は天地を創造された。」という言葉を思い出させます。主イエスのお姿は天地創造のみ業の中に直接的には現れてはいません。しかし、隠された仕方で、そこには主イエスのお姿が示されているのです。そのように洞察する鍵となる言葉が一字で表わす「言」なのです。1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあるのは、この創世記の記述を受けてのことなのです。天地創造は、神が言によってなされた御業です。その言をヨハネ福音書は、そこに神の独り子イエス・キリストを見ているのです。天地創造において、言葉を語りかけることによってこの世界と人間を造ってくださった神は、イエス・キリストを、人間としてこの世に遣わしてくださいました。罪の闇の中でうめき苦しみ、悲しみの中にある私たちのために、救いのみ業を行ってくださったのです。「言」であるまことの光が世に来た、その偉大なクリスマスプレゼントを私たちはいただいたのです。

 

まことの光を受け入れ、自分の光を消す

クリスマスの出来事は「まことの光」であるキリストが「世に来てすべての人を照らす」出来事です。だれもその光から漏れる者はいません。しかし「世」は救い主を受け入れなかったのです。なぜ世の民は、まことの光であるキリストを受け入れなかったのか。それは民が自分自身の光を輝かすことを求めたからです。そのとき、神の光は必要なくなるのです。むしろ邪魔になるのです。しかし、どんなに自分の光を輝かしても、それは一時的にすぎず、まことの光ではありません。そして自分の光が消える時、私たちは闇に突き落とされてしまうのです。たとえどんなにこの世で成功しても、富を得ても、まことの光に照らされなければ、それはむなしく一時的でしかないのです。

まことの光を受け入れるために大切なのは、何でしょうか。それは自分の光を消すことです。私たちは日々さまざまな思いに囚われています。自分をむなしくして、まことの光を仰ぐのです。星を見る時、自分の明かりを消して見るように、自分の光を消すのです。私たちが毎週礼拝に来るのもそうなのではないでしょうか。そして救い主の誕生であるクリスマスもまた、自分の光を消す時です。イエス・キリストの道備えをしたバプテスマのヨハネもそうでありました。人間的に偉大なヨハネは、まことの光の前で自分をむなしくし、光を証しする者として歩みました。また、マリアの夫ヨセフもそうでありました。婚約中のマリアの妊娠を知った彼は、ただ御言の前に黙って妻を受け入れました。そして1章12節にこう記されています。

12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

まことの光に照らされ、イエス・キリストを受け入れる者は「神の子となる資格」が与えられると語っています。この「資格」という翻訳がいいのかは議論のあるところでしょう。ちなみに口語訳聖書では「神の子となる力を与えた」となっています。一番新しい聖書協会共同訳では「神の子となる権能を与えた」となっています。いずれにしても、生まれつきの人間には神の子となる資格も権能もないのです。神から離れている人間が神との正しい交わりの関係を回復する道は、人となった神、クリスマスの主の言葉を受け入れる以外にないのです。ですから、自分の光を消して、すべてを主に委ね、まことの光キリストに照らしていただきたいと願うのです。

 

一番大切なことは何か

 「初めに言があった」とヨハネ福音書の著者は語りますが、初めに何があったかを考えることは、人生でいちばん大切なものは何かを考えることに通じると思います。私たちは何者なのか?なぜ生きているのか?生きていることに何の意味があるのか?という人生の答えに直結しているのです。世の中はお金が一番大切だと思えば、「初めにお金があった」となるでしょう。また、科学の進歩をすべての根本だと思う人は、「初めに科学の進歩ありき」と言うかもしれません。つまり私たちの価値観、人生観が出るのです。人生に意味を与えるものは何なのか、と考えることも相通ずるものがあります。私たちは、自分の人生がうまくいっている時には、そんなことはほとんど考えません。聖書の言葉など聞く耳を持ちません。けれども、うまく行かなくなった時、壁にぶつかった時、病気になったとき、迷った時、愛する者を失ったとき、私たちは、自分が何者であるか、人生の意味を考えさせられるのです。

 ある説教者が、ロゴス「言」を「愛」と考えてもよいのではないかと言います。「愛は神と共にあった。愛は神であった、この愛は初めに神と共にあった。万物は愛によって成った」。しっくりくるようにも思います。キリスト者の場合、それは、自分が生きているのではなく、生かされているということ。神さまが自分を愛し、愛によって生かしてくださっている、という信仰だと思うのです。神さまに愛されているということに価値を見出しているからこそ、私たちは生きることが出来るのです。

私たちは、健康や財産、友情、家庭生活など、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものに支えられて生きているわけです。だから、いざそういうものを失ってしまったときに、まさにヨブのようにためされ、今まで価値ある大切なものと思っていたものを失って、色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えて見れば人生で一番大切なものではないでしょうか。キリスト者の場合、それは、自分が生きているのではなく、生かされているということ。神さまが自分を愛し、愛によって生かしてくださっている、という信仰だと思うのです。すべての人が神さまに愛されているからこそ、私たちは生きることが出来るのです。

 

クリスマスの喜び

今日、3年振りに大磯教会の交わりの情報誌と言いますか、機関紙『大磯の地塩』55号を皆さんにお届け出来ることになりました。まさにクリスマス・プレゼントになったことは幸いなことです。コロナ禍で教会内での交わりの機会が少なくなっている中で嬉しいことです。寄稿して下さった方々の一つ一つに真実の思いが伝わってきます。最後の「大磯教会ニュース」というコーナーにも書かれていますが、何人もの敬愛する信徒を天に送りました。先週も最高齢でありましたが、いつも私たちに元気を与えて下さった姉妹を天に送ることになりました。しかし、また主は新しく洗礼を授ける方々を常に与えてくださり、転入会する方もあたえてくださることに感謝いたします。

何よりも私たちは、主の御降誕を心からお祝い致します。私たちの地上の人生は、主がその愛のゆえにここに来てくださった人生なのです。主が受け入れ、生きてくださった人生です。誰の足跡もない孤独な中を生きる人生ではありません。主イエスが十字架を負われて歩まれ、その跡がはっきりとついている、その人生を私たちも歩むのです。主イエスが私たちのために生きてくださった同じ人生を生きることができます。私たちの人生は主イエスとともに生きることのできる人生になったのです。それがクリスマスの喜びです。

この後、聖餐式を行います。聖餐は、主イエスが今も共にいてくださることを示している聖礼典です。ベツレヘムの馬小屋に生まれて、飼い葉桶の中で、布にくるまってくださった主は、今日、この教会の聖餐式の中におられ、ウエハスと容器に入ったぶどう液を受けるさなかで私たちに出会ってくださいます。クリスマスの出来事は夜、羊飼いたちに、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げられました。「あなたがたのために」と言われたのは最も人々から低く見られていた羊飼いたちに語られた言葉ですが、それは、今日、ここにいる「みなさんのため」でもあるのです。主の御心に適う人は、特別な資格や長所を持っている人ではありません。それはただ御言葉を信じて受け入れるだけのひとではないでしょうか。まことの光が世に来た、そのクリスマスを私たちは心から喜びましょう。 祈ります。

 

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