はじめに
新年を迎えて3週間があっという間に過ぎた気がするのですが、役員会では来年度へ向けての準備が始まっています。来年度の教会目標つまり、目指すテーマを何にするかの原案を今、考えています。昨年は祈りについてテーマにしました。コロナ禍もまだ続いています。政府は季節性インフルエンザ並にコロナもするようで、マスクも外す指導を準備していると聞きます。コロナ禍の3年の間に大磯教会も変化があり、これから婦人会や聖書に親しむ会もどうするか、いっその事、統一した一つの会にしたらとも思ったりします。しかし、一方で子どもたちへの礼拝、信仰の継承をしなければなりません。誰がそれを担うか。その体制作りも必要です。オルガニストの養成も必要です。礼拝案内看板を筆の字で書いていましたが、引き継ぐ奉仕者はいるでしょうか。牧師館のことの準備も必要です。さまざまな教会の課題はありますが、何より大磯教会がこの地で伝道を続けるには、しっかりと聖書に基づいてキリストの福音を伝え続けることが一番必要なことです。そのために、来年度は、教会員と共に正しい神学を学ぶことにしたいと考えています。「良薬口に苦し」と言いますが、皆さんと一緒に神学を学びたいと思っています。昨日は、大磯教会で文化財消防訓練を行い、大磯教会から火災発生という想定で、教会員も初期消火で実際に消火器の操作も行い、私も本物に似せて作られた重要物の運び出しを行い、消防団と大磯消防署から消防車3台も来て放水直前までの訓練を行いました。町長も教育長、消防団長も来ました。実際の訓練の必要性もありますが、教会が社会に対してすることは全て伝道なのです。明日、行われる新島襄終焉の地碑前祭に参加し、大磯教会が休憩所になるのも、また対社会に対しての伝道なのです。教会が行う事は全て伝道です。世の中の人は皆見ているのです。今朝の聖書の箇所、ローマの信徒への手紙は、パウロがローマの信徒へ書いたものですが、パウロが福音の神髄を語ったものと言えます。パウロの生涯は全てを伝道に賭けた一生です。そのパウロが「わたしは福音を恥としない」と語っています。あの福音伝道のスーパースターとも言えるパウロもまた福音を恥と思ってしまう弱い自分があるということを自覚していたのです。今朝の説教題「福音を恥としない」とはどういう意味なのか。パウロの語る言葉からその恵みにあずかりたいと思います。
福音を恥じとしない
私は青年時代からクリスチャンでしたが、牧師になりたいとは思っていませんでした。何か禁欲生活を強いられるような気がしたし、弁護士になりたくて司法試験に挑戦したり、なれなくて公務員になったり、事業を起こそうとしたり、マンション管理や建築営業で営業成績を競う仕事をしたり、興信所で会社の資産調査の仕事をしたり、いろいろな仕事をしましたが,仕事を極めることはありませんでした。ある牧師の言葉がきっかけで伝道者への道に60歳から入ったわけですが、成れると思っていなかった牧師になれた喜びがあったので、誇りでこそあれ、牧師職を恥ずかしいと思ったことはありません。しかし、信徒である時は何とはなしに恥ずかしい思いが伴うところがありました。仕事上でぶつかるからです。アパートの建築契約の成果を挙げれば、建築の度に、当時は愛知県の岡崎営業所にいたので地元の龍城神社という徳川家康ゆかりの神社の神主を呼んで地鎮祭を自分が段取りをしなければなりません。そして、日曜日には教会に行って信徒として礼拝し長老の仕事もしていました。パウロがいた頃のローマと同じような状況は日本の社会にもあります。キリストを信じている者が圧倒的に少数であり、全く別の力や論理によって人々が生きているこの日本の社会で、キリストの福音を信じてそれを宣べ伝えようとする時に、私たちも恐れと不安を覚え、ともすれば福音を恥とする思いに陥ります。そして自分がキリストを信じている者であることを人々に隠そうとすることが起るのです。何となく恥ずかしいのです。わたしは教会に行っている、神を信じているということをどこででも明らかにして生きることにためらいがある。恥ずかしさがあるのです。立派な行いをしなければいけないという自意識かもしれません。それは人間として自然な思いだとも思います。
使徒パウロも伝道を始めた時から、そうした恥ずかしさを知っていたと思います。当時の知識人の集まるギリシャの都アテネのアレオパゴスで伝道説教をし、主イエスの復活を語った途端、人々に嘲られました。ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と軽くいなされたのです。そして、パウロは教会の中でも「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話しもつまらない」(コリントⅡ10:10)などと最も辛い評価をされています。あるいはまた、パウロは使徒として教会の中でいつでも重んじられていたわけではありません。かつては教会の迫害者であったことを取り沙汰されることもあったようです。人間的にも決して完璧な人ではなかったでしょう。
信仰に生きる私たちの心は複雑です。世間の目を気にするし、神のまなざしには、ますますはっきり自分の恥が現れます。どっちを向いても顔を上げることができないような思いがあります。けれどもその顔を上げさせる力が働くのです。それが神の力です。私たちが「福音を恥じとしない」と言えるためには何が必要なのでしょうか。強い意志と、困難の中でも恐れや不安に負けない不屈の信仰が必要なのでしょうか。パウロはそうは考えていません。パウロが見つめているのは、自分の意志の強さや信仰の深さではなくて、福音そのものの力です。そのことが16章後半に語られています。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言っています。彼は、福音を信じる自分の力がどうかではなくて、福音そのものが神の力であることを見つめているのです。「ギリシャ人」は、ここではユダヤ人以外の全ての人々、つまり「異邦人」を代表しています。つまり、全ての人々に、ということです。その神の力をを、信頼することによって「わたしは福音を恥としない」と言うことができたのです。ですから、「福音を恥としない」ために必要なのは、福音に働いている神の力を知ることなのです。
主を畏れることは知恵の初め
今朝の旧約聖書の御言葉は、詩編111編を読みました。この詩編は神の御業を讃える詩編です。1節で詩人は次のように歌います。
1ハレルヤ
わたしは心を尽くして主に感謝をささげる
正しい人々の集い、会衆の中で。
ここで「正しい人々」と言っているのは、人間の行いや考えが正しいという意味ではなく、「神に対して真っ直ぐな人」という意味です。つまり正しい人々とは、真の神のみを捜し求める人々を指すのです。私たちは罪に染まっているから、そのままでは神の御前に立つことなどできないわけで、それは神の救いから程遠いと詩人は歌っているのです。しかし、神は、出エジプトの出来事を通して、いかに忍耐強く、また憐れみ深くイスラエルを導かれたかを見るのだと言っているのです。そして9節で語っていることは、主はご自分の民を贖う。つまり身代金を払って救い出すと言う意味の言葉を語っているのです。神はこのような贖いを、罪に満ちた民に送って下さると詩人は歌っているのです。神が送ってくださった贖いとは、御子イエス・キリストに他ならないのです。神はこのようにかけがえのない代価を払われて、すべての人間を罪から解放してくださったのです。これほどまでに大きな恵みを受けているから私たちは毎週礼拝を捧げているのです。礼拝するということは、神を拝むことです。古くさい言葉に聞こえますが、私たちは神を拝むのです。聖書の解釈を聞く講演ではないのです。10節の言葉はよく知られた言葉です。
10主を畏れることは知恵の初め。
これを行う人はすぐれた思慮を得る。
主の賛美は永遠に続く。
そのように、神は礼拝を通して、私たちに「思慮」すなわち信仰を増し加えてくださるのです。
正しい者は信仰によって生きる
ローマの信徒への手紙1章17節の最後のところの「正しい者は信仰によって生きる」という言葉は、旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用です。「正しい」と訳されているのは「義なる人」という言葉です。義なる人は信仰によって生きる、それはただ信仰によってのみ生きる、ということです。その信仰とは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えてくださる義をいただくことです。自分で何らかの義、正しさ、拠り所、誇りを築いてそれによって生きていくのではなくて、神が独り子キリストによって与えて下さった義によってのみ、つまり神の恵みの業によってのみ生きる者、それが「義なる者、正しい人」なのです。パウロが語っているこの「信仰のみによって義とされる」という真理をマルティン・ルターが再発見したことによって宗教改革が起り、プロテスタント教会が誕生しました。神の義とは主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、義として下さる神の恵みの業であり、私たちは信仰によってのみその救いにあずかることができるのです。この福音にこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力が示されています。この神の力を信じ、それに信頼することによって、私たちもパウロと共に「わたしは福音を恥としない」とはっきりと言うことができるのです。
「わたしは福音を恥としない」その福音はすべて信じる者、この自分たち、自分を含めたすべて信じる者に救いを与える神の力です。それは、私たちは言い訳をしないということを意味します。自分の弱さについて言いわけをしないということです。取り繕わないということです。弱いなら弱いでいいのです。愚かに見えるなら愚かでいいのです。逃げてもいいけれど負けないのです。私たちは神の御国を目指して、絶えず改革され、「信仰から信仰へ」の旅をつづけるのです。休んではならないのです。しかし、急ぐにはおよびません。キリストが共にいるのですから。
祈ります。