はじめに
新年礼拝の今日から新しい年が始まります。キリスト者は教会暦というものがあるので、それによるとアドヴェントの第一主日からキリスト教の1年が始まっているということになりますが、一般的には1月1日が新年の始まりということになります。そして私たちを取り巻く状況は決して明るいものではありませんが、誰もが新しい1年が良い年であることを願っています。今朝は、1年を始めるにあたって、神の祝福が与えられる生き方を学びたいと思います。そして、誰もが神の祝福に満ち溢れた1年を過ごされるようにお祈り致します。
神から祝福を受ける
初めに詩編1篇の言葉を読みました。イスラエルの人々は神の民として特別に選ばれた人々でした。彼らは聖なる民ですから、彼らは、他の民族に囲まれて暮らしていましたが、他の民族が行っていた偶像礼拝などの罪の影響を受けないように、神の教えに従うことが求められました。このことは、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、その恵みにあずかる私たちにも当てはまることです。私たちもこの世の中に生きていますし、すべての人と平和を守りたいと思うわけですが、世の人々と親しく交わる時に注意しなければならないこともあります。神に反対する者と親しく交わるうちに、神よりもこの世のことを愛するようになり、世の人々の生き方に調子を合わせるような生き方をすることがあるからです。1節にはこう書かれています。
いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
詩編150篇の始まりは、「いかに幸いなことか」で始まります。人生の方角を明確に指し示す道しるべとして、詩編1篇は詩編全体のはじめの扉という位置に据えられているのです。この言葉によって作者は、信徒の正しいふるまいをたたえ、1節では、人が罪に陥っていく3つの段階、つまり、3つの行動パターンが記されています。それは「歩む」「とどまる」「座る」というパターンです。人間が罪に陥っていくときは、少しづつ罪にひきつけられて行くのです。まず、神に逆らう者の計らいに従って歩むことが起こります。「歩む」という状況ですから、これは罪に陥る第一段階と言えるでしょう。足を一歩踏み入れる、あるいは、誘惑の声に耳を貸すといった段階です。創世記を見ると、最初の人間のアダムとエバは、神からエデンの園にあるどの木からでも実を食べてもよいが中央にある一本の木の実だけは食べてはならないと言われました。ところが蛇の姿をした悪魔がエバにいろいろ話しかけます。エバはその言葉を聞いて心が揺れ動きました。私たちは、悪魔のはかりごとに近づくことをまず避けなければなりません。最近、オレオレ詐欺とその進化型の詐欺が横行していて高齢者をターゲットにしています。さまざまな広報を通して、またNHKの放送でも毎日注意喚起していますが、それだけだましのテクニックが巧妙になり被害が多いということでしょう。私自身もそういう電話を受けたことがあります。ところで詩編1篇に戻りますが、ここでは悪者のはかりごとに近づくことを避けなければならないということが語られています。次に「罪ある者の道にとどまらず」とあります。最初は悪い誘惑の声を聞いている段階ですが、今度はその道にとどまるのですから罪の行動に出ることを決心したことを意味しています。罪に向かって一歩進んでしまいました。そして、3番目は「傲慢な者と共に座らず」とありますが、傲慢な者と共に座ってしまう危険を表わしています。「傲慢な者」という言い方は、聖書協会共同訳では「嘲る者」と訳していますが、ここで言う「傲慢な者」とは、神を嘲り、神を信じることを馬鹿にする者ということです。その人と一緒に座るというのですから、罪を犯すことに抵抗を感じなくなった状態を表わしています。このようにして、人は少しづつ罪の誘惑を受けて罪に陥って行くのです。私たちは、神の言葉に逆らって罪を犯すときに神の裁きを受けることになります。このような生き方に陥らないように、いつも神の教えに従っていかなければなりません。私たちがそのように生きるならば、周囲がどのような状況であっても、神からの祝福を受けることができるのです。
さて、2節にはこう書かれています。
主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人
「口ずさむ」とは、「自然と口をついて出る」というような意味ですが、主の教えを愛することと口ずさむことはつながっています。誰でも、自分が愛し楽しむことについては、自然と口をついて出てきます。好きなことについては、自然に出てくるのです。苦痛になりません。おそらくどなたにもそのように熱中できるものがあるのではないでしょうか。
私事になりますが、私はコンクリートを練って、重い石も持ち上げて、自分の思い描いたものを造るのが好きです。他人から見たら何であんな苦労をして造るのか、年齢も考えずに、よくやっていると思われるでしょう。無理をして完成したところでどれだけ役に立つのかと思うかもしれません。しかし、好きなことについては苦労に思わないものです。他人や社会に迷惑をかけすぎることは問題になりますが、誰でも好きなことについては、仕事でも趣味でも、どんなことでも喜んで出来ますし、苦痛にはならないのです。
そして、私たちは、人間関係においても、自分が心から信頼している人が語る言葉にはしっかりと耳を傾けます。そして私たちの聖書の言葉に対する姿勢は、主イエスに対する姿勢を表わしていると思います。この新しい年、私たち一人一人が、聖書の言葉に新しい気持ちで接する時に、私たちは神から祝福が与えられると思います。
流れのほとりに植えられた木
3節にはこう書かれています。
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
「流れのほとり」とありますが、パレスチナでは、自然の川のことではないのです。「流れのほとりに植えられた木」とは、灌漑するために掘られた水路のそばに植えられた木をイメージすべきだと言われます。乾燥した大地では、そうした水路のほとりに植えられた木は生き生きと茂るのです。パレスチナにおいては自然の川は少なく、水は貴重であり、その流れは砂漠に花を咲かせ、植物に生命を与え、実を結ばせるのです。水路のそばに生えている木や作物は、根から十分な水分を吸い上げることが出来るのでいつもみずみずしく力強く生きていることが出来るのです。灌漑するために掘られた水路のそばに植えられた木と言えば、私は中村哲氏を思い出します。中村哲氏は、アフガニスタンでペシャワール会という組織を作り、人々に無償で医療を行い、アフガニスタン人の生活を守るために、砂漠のように荒れた土地に用水路の建設を自ら重機を操縦して建設しました。そして多くの人々の命と生活を救ったのです。彼は何者かの銃撃を受けて亡くなりましたが、今では、ほとりに植えられた木や作物が青々として根付いています。
ここで詩編の作者が語っていることは、神を信ずる者が神に聞き従う、その意味と、真の価値のことを言っているのです。3節の最後に「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」という言葉があります。つまり、信じる者は何を企てても成功すると歌っています。
3節と鋭い対照をなしているのが4節の言葉です。「彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」という言葉は、神に逆らう者の人生がいかに無価値であるかが述べられています。彼らの生活は、作者の目には脱穀して、吹き分けのため、空中で吹き飛ばされるもみ殻のように空しいというのです。
神に逆らう者の運命は、裁きに耐え得ないのです。神の裁きにおいてその空しさを露呈し、消滅すると語っています。これに対し、神を信ずる者たちは、神から認められ、「義しき者たち」の共同体を築くと歌っています。
神からの祝福の人生を歩むなら、私たちの周りで何が起きようとも、私たちは何も恐れることはないのです。私たちは誰に自分の人生を託すのでしょうか。
神の憐れみを受けての出発
新しい年の最初の新約聖書の御言葉は、ローマの信徒への手紙12章1節から8節までです。今朝は1節2節の御言葉を中心に学びたいと思います。
1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を 神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2あなたがたは、この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
パウロはこの箇所で、日々の生活における信仰者の生き方について語っています。1節で「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っています。人間の行いを問題にするとき、パウロはまず「神の憐れみ」ということから始めます。私たちの信仰は、聖霊によって神の恵みとしていただいています。しかし、日々の行動は自分が行うことと考えがちです。それでは信仰と行いが不一致です。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(11章36節)。その過程で、私たちのきよめ、つまり聖化ということが起ります。しかし、それは「私は以前と比べてこのくらい清くなった」というものではありません。それは人間の努力によるのではなく、聖霊の賜物として与えられるのです。飛行機のエンジンはひたすら前に進む運動をしているのですが、翼がそれを上昇運動に変えています。私たちも、ただ前に、ひたすら神に向かってゆこうとすれば、聖霊がいつのまにか上昇の運動に変えてくださるのです。
献身のしるしとして献げる
パウロは、礼拝とは、自分自身を神に献げることだと言います。自分自身が供え物です。パウロがここで勧めている最初のことは、あなたがたの体を供えものとして献げよ、ということです。体という言い方は、とても具体的なものです。肉体ということです。私たちの生き方そのものです。生活そのものを、神にお献げするということです。簡潔に言えば献身するということです。キリスト者であるならば例外なく、神に身を献げた者として生きるのだとパウロが言った時に、皆さんはどのように考えられるでしょうか。昨年は旧統一教会のことが多く問題になりました。中でも財産の多くを教団に献げることが問題になっています。子供の生活が犠牲になり、家財産を売り払ってまで、先祖供養というか何十代にも渡る先祖の悪を取り除くためという名目で献金をさせることは、人間の弱さにつけ込んだ詐欺と言わざるをえません。
パウロがここで「献げなさい」と言っていますが、そこに用いられている言葉の一番の元の意味は、「ある人の側(そば)に置く」という意味だと言われます。自分の側にある物を、その人の側に移すのです。そして、どうぞお使いくださいと言うのです。私たちの体を、神のお側に置くのです。私たちは献金も献身のしるしだと祈ります。「これを献身のしるしとしてお受けください」と。それはどういう意味かというと、私たちが献金台に献金を置く時に、私たちの存在を、その傍らに置くのです。自分の手元ではなくて、神の手元に置いて、神様どうぞ使ってくださいと言うのです。それが、献身のしるしとして献金するということです。私たちの存在も教会も、神の側に置いているのだと知ることは大切なことです。私たち自身が供え物です。イエス・キリスト自身も十字架の上にささげられました。私たちの体が弱いからといっても、神に献げられないほど、弱いなどということはありません。それは「神が喜ばれる」献げものです。
2023年が始まりました。予測の立たない時代に生きています。地上でも予測できないことが次から次と起りますが、天を見上げる目を持つことができれば、振り回されることはありません。すべてのことがイエス・キリストに知られているのです。天にその名が記されていることを喜びます。新しい一年も、御言葉にかなった礼拝を心から献げたいと思います。新しい一年が良い年であるように祈ります。