3/5説教「ぶどう園と農夫」

はじめに                              
受難節第2主日に与えられた新約聖書の御言葉は、マルコによる福音書12章1節から12節までです。この主イエスの語られたたとえ話は、神の国を語る主イエスの多くのたとえ話とはひと味違っています。この12章の「ぶどう園と農夫」のたとえ話は、人々を神の国へと導くためではなく、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちとの論争の中で語られたものです。このたとえ話は、そういう性格を持っているのです。まず、そのことを確認した上で、御言葉からの恵みに与りたいと思います。

悪い農夫たち
主イエスがこのたとえを語られた相手は、祭司長、律法学者、長老たちです。この箇所のすぐ前の11章27節以下で、彼らと主イエスとの間の権威についての論争があります。それに引き続いて、主イエスが語られたのがこのたとえ話です。たとえ自体は分かり易い話ですが、おおよそ次のような話しになります。ある人がぶどう園をつくり、それを農夫たちに貸して旅に出たのです。収穫の時期になったので、一人の僕を送って、収穫の分け前を取り立てさせようとしました。しかし、農夫たちは、その僕をなぐり、何も持たせないで帰らせたのです。そして他の僕を行かせると、頭を殴り侮辱したのです。更に、もう一人送ったが、今度は殺してしまったのです。そこで、このぶどう園の主人は、最後に、最愛のひとり息子を遣いにやったのです。すると農夫たちは、「あれはあと取りだ」と言って、彼を殺してぶどう園の外に投げ捨てたのです。ひどい話しです。そこで、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。と祭司長、律法学者、長老たち指導者たちに主イエスは問うているのです。主イエスは自ら言います。「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいない」と。そういうたとえを話されたのです。これを聞いて、祭司長、律法学者、長老たちは、「自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、主イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れ」(12節)立ち去ったというのです。
この主イエスのたとえ話は、イスラエル民族の、信仰の歴史を明確に言い表しているたとえです。ぶどう園はイスラエルを、農夫は当時の宗教指導者たちを表わし、僕たちは旧約の預言者たちのことで、ひとり息子とはイエスのことです。つまり、主イエスは、たとえを通して、父なる神と、神の民として歩むイスラエルの民、更には祭司長を始めとするイスラエルの指導者たちとの関係をお示しになったのです。                               
このようなぶどう園の話しを聞くと、イスラエルの人々ならすぐに思い出す旧約聖書の箇所があります。それが今朝、私たちに与えられている旧約聖書の御言葉、イザヤ書5章1節から7節の言葉です。

ぶどう畑の歌
イザヤ書5章のぶどう畑の歌を見てみましょう。この愛の歌を通して神がどれほどイスラエルを愛しておられたかを示しています。収穫したときに良い酒を作るための一切の用意を整えて、ぶどうを栽培しました。イスラエルではそのまま食べるのではなくぶどう酒を作るのが目的だったのです。ぶどう畑とはイスラエルのことです。なぜ神はこんなにもイスラエルを愛されたのか、それは収穫を期待していたからです。つまり甘くて美味しいぶどうがなるのを楽しみに待っていたのです。ところが神の熱い期待とは裏腹に、何と酸っぱいぶどうが出来てしまいました。この酸っぱいぶどうは、臭くて食べ物にならない実です。なぜ酸っぱいぶどうが出来てしまったのか。答は7節にあります。
7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。
この「裁き」(ミシュパト)と「流血」(ミスパハ)という言葉、そして「正義」(ツェダカ)と「叫喚」つまり泣き叫びと言う意味ですが(ツェアカ)の音はよく似ています。ヘブライ語の音の遊びというか語呂合わせになっているのです。音はよく似ていますが、意味は全く違うのです。つまり、見かけは神の期待にそっくりでも、中味は全く違っていたということなのです。これが問題だったのです。実際はそうではないのに、そうであるかのように見せかけること、これが問題だったのです。イスラエルは、そのように良い実を結ぶことが出来ないものになってしまいました。恵みのエリート意識の中に閉じこもってしまい、恵みを受けながらも神の民としての歩みを捨ててしまった、実りをもたらさない
ということがこのたとえにおいて語られていることなのです。

農夫たちは民の指導者
主イエスがお語りになった今朝のたとえ話は、このイザヤ書5章のたとえ話を土台にしています。ここでも、ぶどう園を作ったある人とは、主なる神のことであり、ぶどう園はイスラエルの民のことです。しかし、イザヤ書の語る「ぶどう畑の歌」は、主なる神の期待に反して酸っぱいぶどうが出来てしまったという話しですが、主イエスが語ったたとえでは、ぶどうは立派に実を付け収穫を迎えたのです。主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出たわけですが、ぶどう園を委ねた農夫たちの存在、それが問題となっているのです。その農夫たちとは、イスラエルの民の指導者として立てられている、神殿の祭司長、律法学者、長老たちを指しているのです。2節に「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕たちを農夫のところへ送った」とありますが、何年もかけてやっとぶどうが収穫できるようになったという意味です。初めての収穫かもしれません。主人は自分の取り分を受け取るために僕を遣わしました。これが、祭司長、律法学者、長老たちと主イエスとの論争におけるこのたとえ話の意味です。

私たちは何を聞き取るか
私たちは、このたとえ話を私たちに語りかけていることとして聞き取らなければなりません。私たちに関係無いとは言えないのです。この農夫たちに預けられたぶどう園、それは私たち一人一人の人生である、と言うこともできるのです。このぶどう園は全て、主なる神が作り、整えてくれたものです。つまり、私たちの命、身体、人生は、神が造り、預けてくださったものです。男か女か、どんな身体を持っているか、努力して身体能力を上げて野球のイチロー選手や大谷選手のように鍛えることは出来ますが、自分の命を自分で造り出した人はいないのです。人生の様々な条件、どんな能力、賜物を持っているか、どのような家庭に生まれるか。といったことを自分で決めて生まれてきた人は一人もいないのです。それらは全て神が備え、与えてくださったものです。私たちは、神から預けられたぶどう園にたとえられた人生において、少しでも良い実を実らせようと努力しているのです。私たちの努力も含めて、それらの実を結ぶための条件を整えてくださったのは神なのです。

神の取り分
したがって、私たちの人生というぶどう園において、神は、御自分の取り分を要求なさいます。このたとえ話においても、主人は農夫たちを搾取して自分の利益をあげようとしているのではありません。むしろ主人は農夫たちのためにこのぶどう園を作り、必要な設備を作り、農夫たちが安心して働き、収穫をあげ、利益をあげて生活することができるように配慮しているのです。その主人が求めている取り分とは、何でしょうか。このぶどう園は主人のものであり、主人が整えてくれたものであることを認めて、感謝して良い交わりを持って生きるということだけなのです。主人のその思いは、普通にはあり得ないこと、愛するわが子まで遣わされたことに示されています。この神の愛と恵みをきちんと受け止め、それに応えていくことこそ、神が私たちに求めておられる「取り分」なのです。

主人の怒り、裁き
9節には「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」とあります。農夫たちは、主人の愛する息子をも殺して、主人の恵み、愛による語りかけを徹底的に拒否しました。もはや関係を回復する道は閉ざされました。主人は「戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」と言いました。このことは、実際、祭司長、律法学者、長老たちに関しては、紀元70年のローマ帝国によるエルサレム陥落、破壊において起きたのです。そして2世紀前半のローマへの反乱の結果、ユダヤ人の指導者たちは殺され、ユダヤ人はエルサレムを追われ、各地に散らされてしまったという歴史の事実によって実現されてしまったのです。そして、パレスチナの地は長く、他の民族のものとなったのです。
さて、それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちも、この祭司長、律法学者、長老たちと同じように、自分に預けられているぶどう園である人生を自分のものにしてしまっており、神からの恵みを忘れて、自分が主人となって生きている者ではないか。そのように神に敵対している私たちも、神の独り子イエス・キリストを十字架につけて殺した者と同じです。そうであるならば、私たちも、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされるしかないのでしょうか。

家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった。
聖書学の上では、主イエスが語ったこのたとえ話は、9節で終わっているのです。10節、11節は後からマルコが編集したと言います。しかし、私たちが神との関係が回復される時に、この10節以下の言葉が光を放ってくるのです。そこに語られているのは、詩編118編22節、23節の引用です。この詩編118編は、神の救いの恵みを感謝し、ほめたたえている歌です。1節に「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という言葉があります。神の救いの恵みが繰り返し語られており、自分の罪が深く意識されている歌です。その中に「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」という言葉があるのです。この詩編の言葉をここで引用しているのは、あのたとえ話における愛する息子、つまり主イエスご自身が、農夫たちによって殺されてぶどう園の外に放り出される、つまり十字架につけられて殺される、そのことを通して、神の救いが実現していくことを示すためです。主イエスは、祭司長、律法学者、長老たちに拒否され、捨てられて十字架にかけられ、死なれました。私たちもまた、彼らと同じ罪を犯している者です。主イエスの十字架の死によって、神は私たちのための救いの道を開いてくださいました。そして父なる神は、主イエスを死者の中から復活させて下さり、主イエスを隅の親石として、新しい神の民である教会を築いて下さったのです。私たちは、主イエスが隅の親石である教会の一員とされ、罪の赦しと、復活による新しい命に与って生きることができるのです。10節、11節の詩編の引用は、そういう神の不思議な、驚くべき救いの御業を指し示しているのです。この神の語りかけに耳を開き、応えていくことが大切です。その信仰によって私たちは、神が与えて下さったそれぞれの人生というぶどう園で、神の栄光を表わす良い実を結んでいくことが出来るのです。

わたしはまことのぶどうの木
ぶどう園のたとえ話から学んできましたが、ヨハネによる福音書15章に、主イエスがまことのぶどうの木、わたしの父は農夫であるという主イエスの話が記されています。ここでは農夫が神であり、ぶどうの木が主イエスで、私たちは、その木につながっている枝であると言っており、枝とぶどうの幹とは絶えず生き生きと結びついていなければならないことを強調しています。即ち、主イエスとの生ける交わりを通してのみ、私たちは実を結ぶことができるのです。素晴らしい約束です。自分の力では酸っぱくて食べられないような実しかできないのに主イエスとの交わり、主イエスのいのちによって、甘いぶどうの実ができるのです。主イエスの幹にしっかりとつながっていたいと思います。 祈ります。

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