はじめに
今朝は受難節第6主日で、「棕櫚の主日」とも呼ばれます。なぜ、そのように言うかといえば、主イエスがエルサレムに入城する時に大勢の群衆が棕櫚の葉を振って迎えたというところからそのように言われているのです。もっとも新共同訳聖書では「なつめやしの枝」と言う言葉に代わりましたので、棕櫚の主日と言っても分かりにくくなってしまいました。ところで、3年前の棕櫚の主日は2020年4月5日であったのですが、その時はこの会堂で礼拝は行っていませんでした。家庭礼拝用のメッセージを送らせていただいていましたが、その時の聖書箇所も同じヨハネによる福音書12章12節から19節まででした。説教題は「ろばの子に乗って」ということでA4で1ページ半の短いメッセージを郵送で送っていました。週報も発行しませんでしたので、週報は2020年3月8日で一旦終わり、再開されたのが、会堂で礼拝が再開された同じ年の6月7日からでした。その後もコロナ感染の拡大で、何度か会堂での礼拝は中止し、家庭礼拝という変則でメッセージだけを送る形でした。その後、会堂での礼拝が再開されましたが、礼拝の式順を短縮し時間を短くしてきました。そして、ようやく今日からは元に戻ることが出来たわけです。讃美歌は2節までにしましたが、それでも短縮した礼拝になれてしまったので、当面は、礼拝が長く感じるかもしれません。マスクも原則的には外してよくなりましたが、御自分で判断してください。付けていた方が良いと思われる方はそのようにしてください。
受難週は、私たちが真実に主イエスを王として迎える時です。神の恵みの招きに預かる時です。それでは、早速、棕櫚の日の聖書箇所、ヨハネによる福音書12章12節から19節の御言葉から恵みに与りましょう。
イエスのエルサレム入城を迎えた人々
主イエスがエルサレムに入られる時、人々が、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って歓迎しました。そのように主イエスを歓迎した人々とは誰だったでしょうか。それを福音書の著者ヨハネは明確に語っています。それは過越祭を祝うためにエルサレムに来ていた大勢の群衆であると言っています。彼らは、主イエスが、イスラエルの王として、王の都であるエルサレムに来ると聞いて、歓呼の叫びを上げて迎えたのです。そして、この群衆は何故、なつめやしの枝を持って主イエスを迎えたかについては理由があるのです。それは紀元前164年の出来事から来ているのです。当時イスラエルは異教徒に支配され、ギリシャの神ゼウスの像がエルサレム神殿に置かれていました。それはユダヤ人にとって、主なる神の神殿が冒瀆されているという耐えがたい屈辱であり苦しみでありました。しかし、紀元164年、マカベヤのユダという人が戦いに勝利して、エルサレムを異教徒から奪還し、神殿を清めて主なる神のものとしたのです。このことを記念して「神殿奉献記念祭」と言う祭りが行われるようになったのですが、その時に人々はなつめやしの枝を振って喜び祝ったのです。つまりなつめやしの枝を振るということには、エルサレムが異邦人の支配から解放されることを喜ぶ、という意味がありました。異邦人に勝利し、解放されイスラエルの王の到来を喜び迎えるために、なつめやしの枝が振られるのです。今、まさにイスラエルはローマ帝国に支配されています。群衆は主イエスこそ、その王だと期待して歓迎したのです。ところが、このエルサレムで過越祭に集まっていた群衆の思いと、エルサレムに入城された主イエスのお姿の間には大きな隔たりがありました。14節、15節には次のように記されています。
14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
つまり、過越祭に各地から集まっていた多くの群衆は、あのラザロを墓から呼び出し、よみがえらせたと評判のイエスという方なら、きっとローマ帝国の支配から解放してくれる力ある方にちがいないと期待したのです。しかし、主イエスは、その人々の思い、期待に反してろばの子にお乗りになって入ってこられたのです。
ろばの子にお乗りになった
主イエスは「ろばの子を見つけて、お乗りになった」とありますが、これにはどういう意味があるのでしょうか。15節の言葉は、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の言葉を引用しています。旧約聖書1489頁ですが、こうあります。
9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。
こういうゼカリヤの預言ですが、これは主イエスがエルサレムに来られたことによってこの預言が成就したのです。この預言が語っているのは、エルサレムに来られるまことの王は、雌ろばの子に乗って来る、ということです。そしてその意味するところは「高ぶることなく」ということです。つまりへりくだった姿でと言うことです。戦車や軍馬、弓といった軍事力によってではないのです。エルサレムにこられるまことの王は、強さよりはむしろ弱さによって、支配を確立するのです。その象徴が「ろばの子に乗る」ということに表わされています。その王の支配が海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶことによって、神による救い、そしてまことの平和が実現するのだとゼカリヤは語っているのです。
歓呼の叫びをあげて主イエスを歓迎したエルサレムの人々の期待と、ろばの子に乗った主イエスのお姿は正反対であり、エルサレムの群衆の思いとは、決して相容れません。ヨハネによる福音書はそのコントラストをここに鮮やかに描き出しています。そしてこの思いのすれ違いこそが、この群衆が数日後には「イエスを十字架につけろと叫ぶようになった理由なのです。
信仰とは振り返って分かるもの
16節の言葉に注目したいと思います。
16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
とあります。エルサレムの過越祭に来ていたたくさんの群衆の思いと、主イエスの思いがすれ違っていたというだけでなく、主イエスの弟子たちも、主イエスの思いがまだ分からなかったのです。それが分かったのは、主イエスが栄光を受けられたときだというのです。それは主イエスが十字架につけられて死んで復活して、弟子たちに現れて下さり、聖霊が降った時ということです。復活の主イエスとの出会いにおいてこそ、弟子たちは本当に知ることが出来たのです。ゼカリヤの預言どおりに、高ぶることなく、つまり十字架の死と復活によってまことの王となるために、主イエスは、エルサレムに入られたのです。このことを通して、ヨハネによる福音書は、信仰とは振り返って分かるもの、ということを私たちに伝えているのです。弟子たちは、主イエスが十字架で殺されてから、不安と恐れの中でも、必死になって聖書を開いて捜したのです。聖書を紐解いたのです。この出来事は聖書のこの箇所のことかと当てはめて見ていったのです。これはキリスト教の信仰がどのようにして成り立ったのかを記す貴重な証言です。有名なイザヤ書52章の「苦難の僕」なども、同じように再発見され解釈され、十字架の意味が確定されていったのです。信仰は、出来事の終わった後で振り返って確認することです。なぜなら、主イエスの弟子たちはそのようにして主イエスをキリスト(救い主)と信じたからです。彼らは、聖書の中にキリストを発見しました。そして、私たち一人一人も、また、御言葉の中でキリストに出会います。あの御言葉に出会って信仰を持つことが出来たということがあるのではないでしょうか。あの時、教会のあの人に出会い、御言葉を聞いた。それが神の導きであったと後で思うのです。すべて聖霊があなたを信仰へと導いたということです。
主イエスが裁きを身代わりに受けてくださった
主イエスは平和の王として、2千年前にこの世に来られ、柔和な方として平和の王として、私たちと神との和解のために来られました。私たちは自分の罪のために裁かれるわけですが、感謝なことに、イエス・キリストを信じた者は裁きに会うことはありません。なぜなら、私たちの罪はすべて十字架の上に置かれ、イエス・キリストが身代わりに裁きを受けてくださったからです。これが神の恵みです。あっと驚くべき恵み、アメージング・グレースです。有名なアメージング・グレースという歌を書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。ある日、奴隷たちを積んでイギリスに戻る途中、大嵐の中で船が転覆しそうになったとき、彼は神に祈りました。すると、神は彼を助け、無事にイギリスに寄港することができたのです。それから数年経って、彼はその時の経験を思い起こし、何という恵みだろう。こんな自分を救ってくださったと、讃美歌を書いたのです。讃美歌21の451番「くすしきみ恵み」は次のような言葉です。
1 くすしき恵み われを救い、まよいしこの身も たちかえりぬ。
2 おそれを信仰に 変えたまいし わが主のみ恵み とうときかな。
3 思えば過ぎにし すべての日々、苦しみ悩みも またみ恵み。
主は、私たちの日々の恐れ、不安を信仰に変えてくださるのです。思えば、私たちも多くの日々が過ぎました。そのすべての日々の後悔も、無念さも、苦しみ悩みも、また恵みに変えてくださるのです。まさに、このくすしき恵みはわが身を、救いへと立ち返らせてくださるのです。「弟子たちは最初これらのことが分からなかった」(16節)とあるように、後で分かるのです。その時、その意味が、十字架を通しての勝利の意味が分からなくても、後で分かったのです。ここに「栄光」という言葉があります。この栄光は分かりにくい栄光です。しかし、その時、分からなくても、後で聖霊をいただけば分かることがあります。主イエスは言われます。「今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16章12,13節)。若い時、聞いた十字架の真理が、年を取って苦労した時、初めてよく分かったとか、聖霊がどうしても分からなかったが、突然分かったということがあります。心の中で熟成するということかもしれません。今、分からなくても、直線的に分かろうとしないで、一つの経験、それが失敗の経験でも、病気の経験でもいいのです。ある経験を通して分かってくるのです。
主に反抗しても無駄である
ヨハネは19節で次のようにファリサイ派の人々のつぶやきをしるしています。
19「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
このファリサイ派とはユダヤ教の指導者たちのことです。彼らはすでに主イエスを殺す計画を立てていました。しかし、祭りの間はいけない。多くの群衆が主イエスを政治的なメシアとして期待していたので、そこで殺そうものなら大騒ぎになるからです。そうなれば、ローマ軍が攻めて来てエルサレムを滅ぼしてしまうことになります。そうなると自分たちの立場が危うくなります。それで過越祭が終わった後で主イエスを殺すつもりでした。ここには彼らのイライラ感、焦り、怒り、ねたみが見えます。結局、彼らのこうしたねたみによって主イエスは十字架につけられるわけです。でも彼らは、主イエスを訴える口実を何一つ見つけることが出来ませんでした。当然です。主イエスは全く罪の無い方なのですから。その方が私たちを神と和解させるために、平和の王として来てくださいました。ろばの子に乗って。今、私たちは、それぞれに恐れと不安を抱えているのです。その私たちに主なる神は、「恐れるな」と語りかけて下さっています。
新しい年度、2023年度の大磯教会の歩みがスタートしました。今年もさまざまなことがあると思いますが、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と賛美の声を上げてこの一年を始めたいと思います。祈ります。