はじめに
今朝の説教題は、「声高らかに神を賛美する」としました。今朝の新約聖書の御言葉であるルカによる福音書19章37節に記されている言葉です。今朝は、神を賛美するというテーマでお話します。ところで教会では「賛美」という言葉をよく使います。何よりも「讃美歌」は礼拝で欠くことのできないものです。そして「賛美する」と似た言葉に「賞賛する」という言葉があります。どう違うのかをインターネットで調べて見ました。
どちらも「褒める」という意味があるのですが、「賞賛」というのは、相手の素晴らしい行いに感動して、称えることとあります。私が今年になって賞賛したのは、WBCで活躍し、今年もエンジェルスで活躍するであろう大谷翔平選手です。優れたプレー、業績に敬意を表わし賞賛の言葉を贈ります。それに対して「賛美」とは、神聖なものを崇めること。恐れ多いものに敬意を表すること、とあります。そして讃美歌は教会で歌われている、神聖な合唱のこと。神様への愛をつづったメロディーとあり、神は目には見えない、圧倒的な存在。と説明がありました。まさに圧倒的な存在である神を賛美した弟子たちの行為。その行為を賞賛した主イエスの言葉から恵みに預かりたいと思います。
主の御名によって来る人に、祝福あれ
主イエスがエルサレムに向かって弟子たちと向かっていましたが、オリーブ山の坂に来た時には、大勢の群衆が彼らと行動を共にし、声高らかに神を賛美し始めた、とあります。
38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」という、この賛美の言葉は、先ほど交読詩編で唱和した詩編118編の26節から取られた言葉です。詩編118編は、救い主メシアがエルサレムに来ることを預言して歌っている詩編です。約束の救い主メシアが城門を通ってエルサレムに入る、それを喜び、出迎えて、人々が「祝福あれ、主の御名によって来る人に」と賛美しています。救い主メシアがエルサレムに入り、神の民が出迎えて賛美する光景を描いており、まさにまことの王である主イエスを迎えるにふさわしい賛美の歌です。
ですから、主イエスは、ファリサイ派の人々が「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったとき、その求めを退けられました。ファリサイ派の人々は、弟子たちが熱狂的に主イエスを賛美する様子を危険に感じたのでしょう。また、ファリサイ派は主イエスがまことの王だと認めませんから、そう叫ばせたままで放っておくことはできないと思ったでしょう。彼らは、主イエスにこう言うわけです。いくらあなたが人々を癒やし、奇跡を行い、力がある方だからといっても、救い主、メシアということはないだろう、そう言われるとあなたも困るんじゃないですかと。
しかし、主イエスはファリサイ派の求めを拒んで、言いました。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。弟子たちが真理について沈黙すれば、沈黙している石でさえ彼らに代わって叫び出す。これは、真理は決して隠しておくことはできない。という意味の言葉です。主の御名をほめたたえる賛美の声は誰も止めることはできないのです。主イエスは、弟子たちや大勢の群衆が声高らかに神を賛美する、その歌声を喜んでおられるのです。
天には平和、いと高きところには栄光
弟子たちは、「天には平和、いと高きところには栄光」と賛美しています。この言葉は、クリスマスには毎回聞く言葉です。しかし、クリスマスの時の天使の賛美は「地に平和、御心に適う人にあれ」でした(ルカ2:14)。クリスマスの夜、天使が「地には平和」と歌ったのに、ここで弟子たちは「天には平和」と歌っています。何故だろうと思います。地上に平和などなくてもいいというのではありません。そして、神が住まわれる天に改めて平和がいるのかと思うかもしれません。しかし、弟子たちは、主イエスを王として迎えつつ、既に天に平和が始まっていることを見させていただいていたのです。神に逆らっている悪魔は退けられ、ここに始まる主の十字架の道は神の勝利の道でありました。悪魔は敗北しました。
世界は、そして日本も、確かに、三年に及ぶコロナ禍で多くの人が亡くなり、病気で苦しみ、教会も聖日礼拝も守れなくなりました。今、ウクライナでの戦争は、いつまで続くのかまだ分かりません。スーダンでも戦闘が始まり、避難民が増え続けます。地には平和が見えないのです。今、理不尽なことを身近に経験している人もいます。家庭生活が地獄のように思える人もいます。勤めや学校に行くのがもうイヤだと思っている人もいます。苦しい病気から解放されたいと願っている人もいます。そのように、地に平和が見えない時に、天には既に平和がある、いと高きところには栄光があるように、と賛美を歌うのです。
主イエスは平和の主として、この地上に、来てくださいました。地上は相変わらず、争いや戦いで満ちています。しかし、ろばの子に乗ってエルサレムに来て下さった主イエスの十字架と復活と昇天によって、天において、罪と死の力は既に打ち破られ平和が打ち立てられているのです。そのことを信じて、主イエスによる救いの恵みをほめたたえつつ、地上の歩みをするのがキリスト者です。主イエスに敵対していたファリサイ派の人々は、主イエスに弟子たちを黙らせるようにと言います。しかし、主イエスは弟子たちの賛美と叫びを許されたのです。この福音書の著者ルカは、再び来られる主を待ち望むことができる信仰に生きることが出来るのは、このようにエルサレムに来られた主イエスを喜び迎えた弟子たちであると伝えているのです。37節で「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美あい始めた」とあります。それは主イエスがガリラヤにいた時から一緒に歩み、従って来ていた弟子たちだからできることです。もちろん、弟子たちも主イエスのことをちゃんと分かっていたわけではないけれども、決して一事の感情の高まりで主イエスを喜び迎えているのではない、ということがここに示されているのです。
私たちも、神の真理について、まことに未熟で、不十分な理解しかできません。しかしイエス・キリストこそが神の真理です。私たちキリスト者は、この真理を追い求めて生きるのです。また、まことの神がおられる。そのことも真理です。神が生きて働いておられ、歴史を支配しておられる。そのこともまた真理です。真理は必ず明らかにされるのです。石をも打ち破り、死の壁をも打ち破る力があります。私たちは、たとえ未熟で、不十分な者であったとしても、主なる神が、私たちに賛美の言葉、信仰の告白の言葉を授けてくださるのです。
神を賛美する声を大きく
教会は、主イエスに従う信仰者の群れです。その使命は、まことの主、まことの王を知らせて、人々、群衆の中で、主イエス・キリストによる救いの恵みを与えてくださった神をほめたたえ、賛美の声を高らかにあげることであります。そして、主イエスに招かれた者として、私たちも人々に、まことの主であり王である主イエスが、あなたを招き用いて下さることを告げ知らせていくのです。私たちを取り巻くこの現実の世界は、賛美と証しの言葉を私たちから奪おうとします。しかし、私たちが黙れば、石が叫び出すであろうと主イエスはおっしゃっています。それは、主イエスに従う弟子の群れである私たち教会以外の誰が、この賛美と証しの言葉を語り得るのか、という励ましの言葉なのです。先日、私たちは教会総会を開催し、昨年度一年間の歩みを主の前に振り返り、長老も選任され、新しい年度の出発をしました。今年度の教会目標として、今日の週報の裏面にも書かれていますが、「何を信じるか~信仰告白を学ぶ」と決めました。主イエスこそ、生ける神の子であることを明確に告白する者でありたいと思います。私たちの罪や多くの欠けにもかかわらず、主が恵みの業をもって導いて下さっていることに感謝し、新しい一年も賛美の声を高らかにあげて歩みたいと思います。
恵み深い主に感謝せよ
この後歌う讃美歌152番「みめぐみふかき主に」という讃美歌は、今日の交読で唱和した詩編118編の1節から17節までを歌っています。この讃美歌はカルヴァン派のジュネーヴ詩編歌ですが、日本においては、明治の初め宣教師によって讃美歌が伝えられましたが、当時の英米ではジュネーブ詩編歌はあまり歌われておらず、日本の讃美歌集に収録されたのは、昭和6年版『讃美歌』が最初です。そこで収録されたジュネーブ詩編歌の一つが、この讃美歌21の152番「みめぐみふかき主に」という曲です。この曲は、ジュネーブ詩編歌のうちで、最も歌われている歌といわれます。詩編118編1節から17節までの言葉を、クレマン・マローという人が歌詞にしており、旋律はルイ・ブルジョアという人が作曲しています。詩編の言葉と全く同じではありませんが、詩編118編とこの讃美歌152番の1節から4節までとは内容的に対応しています。苦難の時にあってもなお主を信頼し従う信仰、勝利の歌を力強く賛美している讃美歌です。
サウルの苦しみ
今朝私たちに与えられている旧約聖書の御言葉、サムエル記上16章14~23節からも学びます。イスラエルの王として選ばれながらも、神に正しく従わないサウル王を、神はその王位から退けられました。そして、主の霊はサウル王から離れ、その代わり、悪霊がサウルをさいなむようになったのです。しかし、サウルに悪霊が送られたことにも神の御心があるのです。よく旧約聖書の神は、厳しい裁きの神であると言われますが、そうではなく、神は何よりも憐れみの神なのです。サウル王は、今で言ううつ病で苦しんだのです。誰かが何かのことで苦しんでいる時、その奥にある意味は結局、わからないことがほとんどではないでしょうか。少なくとも、その苦しんでいる時には分からないことが多いと思います。もしその苦しみの意味がわかるとするならば、その人本人が神に示されて理解出来るのです。しかし、一つ確かに言えることは、私たちが病気や、さまざまな試練に遭うとき、神はその試練を通して、普通の時以上に深く私たちに関わろうとして下さっているということです。まさに困窮状態においてこそ、私たち人間は、自分の命が有限であり、死ぬべき存在であり、救われるべき存在であるということを痛感せざるを得ないからです。またそこにおいてこそ「罪人」であることを知るからです。
サウル王にとってこの悪霊による精神の塞ぎは、大きな苦難の始まりでありました。しかし同時に神はここでサウル王を憐れみ、助けをお与えになるのです。それが少年ダビデでありました。サウル王はダビデによって慰められました。それは、ある人は、竪琴という楽器を使った音楽療法であると言います。音楽療法は現代にもあります。しかし本当に、それが私たちの心のひだに触れるほどの、苦しみ、悲しみを癒やす力があるのでしょうか。ペットには心を癒やす効果があると言われます。高齢者施設でも犬が癒やしに用いられていると聞きます。更にはロボットの犬でも癒しの効果があると研究が進んでいるようです。サウル王の場合、ある人がこのように語っています。ダビデが奏でる竪琴の旋律に癒しがあったというよりも、その音楽と共に歌われるダビデの詩に慰めがあったのだと。ダビデの詩といえば詩編です。琴の名手であるダビデは、その竪琴で作曲しながら、信仰の歌を作る優れた詩人でもあったのだと言うのです。サウル王はダビデが歌う信仰の歌を通して癒やされたのです。音楽と共に歌われる賛美の詩編によって癒やされたと言えるかもしれません。
ところで、私たちは讃美歌を歌うとき、メロディー(旋律)にばかり注意がいっていないでしょうか。私がそうなのかもしれませんが、曲がよく分かっていないと、音符ばかりに目を追って歌詞に注目していないことがあります。言葉の意味も分からないで曲を歌っていることがあります。どの讃美歌にも、その成立にドラマがあります。そして必ず聖書の御言葉が歌われているのです。讃美歌ごとに歌詞の下に関係している聖書箇所が載っています。礼拝で歌う讃美歌も、説教後に歌う讃美歌は、説教の内容にふさわしい歌詞を意識して説教者は選んでいるのです。今日の場合は152番「みめぐみふかき主に」という詩編118編の神を賛美する讃美歌を選んでいるのです。大部前になりますが、聖書研究祈祷会で讃美歌の成立事情とその讃美歌が歌う聖書箇所の解説を連続して学んだことがありますが、神を賛美する歌ですから、御言葉を少しでも意識して歌いたいと思っています。
ところで、サウル王が悪霊に苦しんだのは、いつまでも正しく神に応答しなかったからです。サウル王は最後まで頑なだったのです。そういう頑なさを私たちも捨てなくてはなりません。光が見えているにもかかわらず、主の恵みがそこにあるにもかかわらず、立とうとしない。そういう現実が私たち一人一人にも問われているのではないでしょうか。私たちはみな神の救いへと招かれ、神の恵みへと招かれているのです。サウル王のような頑固さと高慢さを捨て、主イエス・キリストの十字架と復活を信じ、主イエスをその心に招き、従っていきたいのです。主イエスが、私たちの人生の助け主、慰め主として、いつも私たちの傍らに立ち続けてくださっているからです。 お祈りいたします。