はじめに
今日は5月14日で、ローズンゲンという「日々の聖句」を書いた本には、今日は復活後第5主日とあり、「祈れ」とあります。今日の御言葉として「祈り」がテーマになっています。そこで、今朝の聖書の箇所は、主イエスが祈りについて教えてくださった箇所であるルカによる福音書11章から主のメッセージを受けたいと思います。ルカによる福音書11章は、主イエスの弟子たちが主イエスに「祈りを教えてください。」と言ったことから始まっています。1節から4節では、主は弟子たちに、何を祈るべきかということについて教えられました。主イエスが最初に教えられたのは、具体的な祈りの言葉である、いわゆる「主の祈り」を与えて下さったことが語られています。祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主が、それを補足するように5節以下を語っておられるのです。主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。今朝はこの主イエスが語られたたとえ話を通して祈ることについて考えます。
パンを借りに来た友人のたとえ話
当時のユダヤ人の家には部屋は一つしかなく、家族が全員その部屋で寝ていました。ある真夜中、すでに子供たちも眠っていた家族に、一人の友人が尋ねて来てドアをノックします。子供たちが目を覚ますかもしれません。その友人は、ある旅人が、旅の途中にやって来たけれども、その人に食べさせるものが家に何も無いので、パンを3つ貸して欲しいというのです。その旅人は、尋ねて来た友人の「友達」だと記されています。どうして、その旅人は真夜中にやって来たのでしょうか。それには理由があります。イスラエルは、昼間は非常に暑いので、日が落ちてから旅に出かける人が多いのです。そのため、目的地に到着するのが真夜中になることも珍しいことではありませんでした。また、イスラエルでは、「客人をもてなす」ことは最も大切なことと考えられていたので、どんなに客が遅く着いたとしても、ご飯を出さない訳にはいかなかったし、もてなさなければならなかったのです。なぜなら、現在の観光旅行や出張旅行と違い、当時の旅行は文字通り命がけの旅だったのです。空腹や渇きによって行き倒れてしまう人も多かったのです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してもてなすと言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするということだったのです。ですから、夜中でも尋ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然なすべきことでした。ところがあいにく家にはパンが全くなかったのです。そこで近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえ話の設定です。
ところが、寝ていたその家の主人は、せっかく一日の仕事を終えて休んでいるのに、ドンドンと扉をたたく音が聞こえて、腹が立ったと思います。彼は友人に言います。「面倒をかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子供たちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」と言ったわけです。当時でも、真夜中にこんなふうに尋ねてこられるのは迷惑な話です。しかし、主イエスがこのたとえ話によって語ろうとしておられることの中心は、次の8節にあります。
8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
主イエスは、「しつように頼めば」と言っていますが、その意味は、この家の主人は、友人がドアをたたき続けるなら、うるさくて寝られないので、友人だからという愛の心ではなく、早く面倒なことから逃れたいという気持ちから、その友達にパンを3つ貸すだろうと言っているのです。
このたとえ話で、主イエスが弟子たちに教えようとしたことは何でしょうか。このパンを借りるために来た人のように、相手にどんな迷惑がかかっても求め続けなさい、ということでしょうか。そうではありません。主イエスはこのたとえ話で、寝ていた家の主人と神とを比べているのです。この家の主人は、相手が求め続けるので、厄介払いをしたいために、そして自分がゆっくり寝られるためにという理由で、友人にパンを貸しました。そこには友情も愛もありません。ところが、私たちが祈っている相手は、父なる神です。神は自分の愛する子供が助けを求めたら、この家の主人よりもっと早く、もっと喜んで、私たちの願いを聞いてくださるはずです。私たちと主なる神の関係は、友人関係ではなく親子の関係です。父なる神は、夜中にやってきて迷惑だと腹を立てる方ではありません。この親切とは言えない友人が、ドアをたたき続けた結果、パンを借りることができたとするならば、私たちが父なる神に求める祈り、その祈りに、神は喜んで答えて下さるのです。
求めなさい、探しなさい、叩きなさい
主イエスは9節、10節でこう言われました。
9そこで、わたしは言っておく、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
求める、探す、たたくとは、祈りのいろいろな面を表わしていると言うことができます。これは命令文ですが、厳密に訳すと、「求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい」となります。この命令は、1回だけやりなさいという命令ではなくて、いつもそのようにしなさい、という命令なのです。
「求めなさい」という言葉ですが、ここで使われている「求める」という言葉は低い立場の人が上の立場の人にお願いする時に使う言葉で、ギリシャ語の「アイテオー」という言葉が使われているのです。つまり、私たちが神を求める時、神の前に謙遜な心を持つことが必要だということを教えているのです。「祈ったら答えてもらうのが当然」というような心ではいけないのです。子供が親に何かを買ってもらおうとするときに、子供はいろいろ考えます。子供なりに計算して親に求めると思います「これは親が買ってくれるだろうか、それともだめと言われるだろうか。」と。私たちが神に何かを求める時も同じなのです。これは神が喜ぶ求めなのか、神が認めてくれる求めなのかを考えるのです。自分が求めているものは、本当に必要なものか、自分にとって本当に良いものなのか、神が認めてくれるものなのかと考えて求めることが大切なのです。
次に「探しなさい」という言葉です。最近、メガネをどこに置いたか。スマホを何処に置いたか、忘れることがあります。運転免許証やカード類が入った財布を忘れた時は、焦って懸命に探します。何かを探している時、たいてい、それが見つかるまで探し続けます。探すのに必要なものは根気強さとエネルギーです。これがないと途中であきらめてしまいます。どうでもいいものは探しません。主イエスが「探しなさい」と言われたのは、祈りとは、軽い気持ちでちょちょっとお祈りして終わる、そのようなものではないということなのです。絶対に見つけるのだという決意をもって探し続けることが必要なのです。
最後は「叩きなさい」です。これも厳密に言えば「叩き続けなさい」という命令です。これは、たとえ話のように、助けを求めて友達の家のドアをたたき続ける姿を現わしています。私たちがお祈りする時も、自分の目の前のドアが閉ざされているように思える時があります。様々な困難に直面する時、私たちは八方ふさがりの中にいるように思える時があります。そんな時、私たちは「神を信じているのに、どうしてこんなことになるのだろう。」と不信仰な思いが浮かんできます。しかし、こんな時こそ、神を信頼してドアをノックし続けることが大切なのです。主イエスは言われました。「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい。」私たちが祈る時、祈り続ける決意が必要です。その時、求めているものが与えられ、探しているものが見つかり、閉ざされていたドアが開かれると主イエスは約束しておられるのです。
聖霊を与えてくださる
13節で「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と主イエスは言われています。同じ教えを語っているマタイによる福音書7章11節では、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」と記されています。ルカにおいては「良い物」が「聖霊」となっているのです。天の父なる神が私たちの祈りに答えて与えてくださる良い物とは、聖霊である、とこの福音書は語っているのです。聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことを語っているのが、ローマの信徒への手紙8章14,15節です。そこを読んでみたいと思います。284頁です。
14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
ここに、神の霊すなわち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか。聖霊が与えられることによってどうなるのか、が示されています。聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。聖霊は、私たちを救い主イエス・キリストと結び付け、それによって私たちをも神の子とし、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるのです。天の父が求める者に与えて下さるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神は私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神が私たちに与えて下さる「良い物」の中心です。個々の具体的な良い物、私たちが様々なことを祈り求めることは、この父と子という関係の中でこそ与えられていくのです。
気が変わることのない方
最後に、今朝の旧約聖書の御言葉、出エジプト記32章7節から14節の箇所から学びます。(旧約147頁)。7節以降にこう記されています。
主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでいる。・・・わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅びし尽くす」
と言われたのです。それに対して、モーセは必死に神をなだめるのです。
「ご自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。・・彼らは神が創造された民であるばかりでなく、その偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導きだされた民です。それほど愛されたご自身の民なのです。その民に対してどうして御怒りを燃やされるのでしょうか」
と必死になってイスラエルの民のためにモーセは神にとりなすのです。思い直してくださいと訴えるのです。モーセは神の贖い、神の御名、神の約束に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいと懇願したのです。徹頭徹尾、神を中心に、それを前面に押し出して訴えたわけです。イスラエルの民の正しさ、理屈などは一切関係ありません。ただ神の義に訴えたのです。これが神のみこころにかなった祈りです。私たちがだれかの救いのために祈るとき、それはその人がどういう人であるかということ以上に、それが神にとってどういうことなのかを考えて祈らなければなりません。
すると、主は何と言われたでしょうか。14節です。「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」これはどういうことでしょうか。主が考え直すということがあるのでしょうか。サムエル記上15章29節には、「イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない。」とあります。神の御心が変わることはありません。それなのに、ここで神の御心が変わったかのような印象を与えているのは、モーセにとりなしの祈りの機会を与えるためだったと考えられるのです。ここに祈りの本質があるのだと思います。私たちの祈りも、神の御心を変化させるためではありません。神の御心がなるようにと祈るものなのです。神は私たちが求める祈りに、恵み深く応えてくださる御方です。 祈ります。