はじめに
愛とは何か、という問いは、答えるのが簡単なようで、実は難しいものです。何かつかみどころのないもののようです。別にキリスト信仰を持ち出さなくても、人間だったら自然な親子関係を通して愛が分かると言う人もいるでしょう。また、同じ目的を持つ人が連帯して協力し合い、時には共通の目的のため、また同志のために自分を犠牲にすることを厭わないという同志愛もあるでしょう。恋愛、親子愛、同志愛、これらは人間の自然な本性に由来する愛と言うことができます。しかし、キリスト信仰では、人間の外部に由来する愛が中心になってくるのです。全ての見えるものと見えないものを造られた父なる神に由来する愛です。この神に由来する愛について、ヨハネの手紙一4章7節から9節は、次のように教えています。
7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。
ここでは、神が私たち人間を愛したことが出発点にあって、それを受けて私たちも愛することができるようになる、という神由来の愛が強く示されています。恋愛も親子愛も同士愛もその土台に神由来の愛を敷いて、それらを神由来の愛で方向付けていくということであります.
神由来の愛とは、罪の償いが神由来の愛の中心にあって、それを受け取った私たちが愛することができるようになる、という教えは、今朝のルカによる福音書7章36節から50節の箇所に具体例として現れています。早速、以下にそれを見ていきましょう。
香油注ぎと涙でぬぐう話
ファリサイ派のシモンという人の家で、主イエスが食事に招かれた時に起こったとされるこの話は、主イエスが語った短いたとえ話と共に興味深いものです。福音書には似たような出来事がいくつもあるのですが、今朝の出来事の中の罪深い女の行動もまた、これはどういうことなのだろうという思いを持つのです。この話は、ルカが独自の資料から書いたものですが、主イエスへの香油注ぎについては、マルコによる福音書14章3節以下に、ベタニアの女の香油注ぎの記事が記されています。そこでは、同じシモンという名前の重い皮膚病の人の家で主イエスが食事の席に着いて居られたとき、一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけたという話です。そしてそこにいた何人かが「なぜ、こんな香油を無駄遣いしたのか」と、咎めたというのです。その一人はユダだと言われていますが、主イエスはその女性の行為を受け入れ、それは、これから起こる主イエスの受難、そして埋葬の準備をしてくれたのだと言われたのです。そしてまた、「主イエスの足もとに近づき、足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい」ということについては、ヨハネによる福音書12章3節にあるベタニアのマルタとマリアの姉妹の一人マリアが「主イエスの足に香油を塗り、自分の髪でその足をぬぐった」という記事に近いのです。ここでは、ルカが自らの伝承の資料にもとづいて書いた内容から見てゆきたいと思います。
シモンの家で敬愛の行為があった
主イエスが、ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中では主イエスに敵対するグループとして描かれていますが、これは一体どういうことでしょうか。主イエスと激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中には主イエスに一目置く人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜、人目を避けて主イエスに教えを受けにきます。罪の汚れからの清めということを真剣に考えれば考えるほど、清めの儀式だけでいいのだろうかと疑問を持つことがあっても不思議ではなかったでしょう。今朝の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、主イエスを家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスとやらを呼んで、本当に尊敬に値する者か見てみようと考えたのでしょう。そういうわけで、この会食は、大勢を招待した一人の客として主イエスも招待されたようです。44節から46節で、主イエスは、到着時にシモンは歓迎の接吻もせず、主イエスに足を洗う水も用意しなかった、と指摘していますが、そのように、シモンは、主イエスに特別な敬意を表わすことはなかったようです。以上のような背景の中で、今朝の箇所の出来事が起こりました。45節で、主イエスが、女性は家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性は主イエスが来るのを家の前で待っていて、主イエスが来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐに汚れる部分です。そして、接吻というのは、日本では馴染みが無いので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えたらいいでしょう。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為として見た方が良いかも知れません。汚れを髪の毛でぬぐえば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。しかしこの女性は、そんなことは意にかえさず、主イエスのために今出来ることを精一杯したのです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。そして、主イエスはこの時、シモンの心のつぶやきを見て取りました。主イエスを預言者ではなかったと感じたシモンは、主イエスをあしらっており、自分の心を見抜かれたことに気付きません。そこで、主イエスは、この女性の行為が何を意味するのかをシモンに教えるために、一つのたとえを話します。
借金を帳消しにされた人のたとえ話
ある貸主からお金を借りた二人の人がいました。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンを借りました。1デナリオンは、当時一日の労働者の賃金です。この二人は返すことができなかったので、貸主は、二人の借金を帳消しにしてあげました。二人のうち、どちらが貸主をより多く愛するでしょうという話です。500デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人は、その恩を一生涯忘れないでしょう。主イエスは、シモンにこのたとえ話を話されたのです。ここ主イエスは、シモンを、50デナリオンを借りて帳消しにしてもらった人にたとえており、そして、主イエスに高価な香油を注ぎ、泣きながら主イエスの足を涙でぬらしたこの罪深い女性を、500デナリオンを帳消しにしてもらった人にたとえているように見えます。なぜなら、主イエスも47節で次のように語っています。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言っています。「わたしに示した愛の大きさで分かる」と言い、この婦人は多くの愛を捧げています。従って、確かに常識的にはそのように思えます。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。しかし、使徒パウロはローマの信徒への手紙3章10節で次のように語っています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない」。果たして、シモンの罪は小さくて、この婦人の罪は大きいと言えるのでしょうか。そんなことはありません。問題は罪に対する意識の問題ということになります。シモンは、自分自身を50デナリオンの借金を免除された者だと思っていたのではないでしょうか。あるいはそもそも自分は借金などしていないので、自分の事ではないと思ったかもしれません。しかし、人間は皆、罪人だということを考えれば、このファリサイ派のシモンもまた500デナリオン借りた人なのです。それなのに50デナリオンだと思っているところに問題があるのです。私たちの罪の現実は、結局は、自分のことしか考えていないのです。そして、自分の罪の深さに目が開かれた時、愛の心が生まれるだけでなく、そこには愛の行為が生まれるのです。愛は深い罪の意識の中から生まれて来ると言えるのではないでしょうか。使徒パウロは「わたしは罪人のかしらである」と言っています。ですから「最大の罪は、罪の意識のないことだ」と言うことになるでしょう。ファリサイ派は、自分たちは神の律法を守る正しい人間とばから考えていました。他の人の罪を責めますが、自分の罪を認めません。自分が正しいとうぬぼれていると、神の心が分かりません。自分が十字架の主イエスによって赦していただくより仕方がないと知った人は、神の心をひしひしと感じて、人を愛そうと動くのです。罪の自覚と、愛の深さとは、互いに関係があるのです。
罪の赦しの宣言を受けた者
そこで、主イエスは、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、ということを明らかにします。この女性は、「罪深い女」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したとか、または娼婦そのものであっただろうとか、いずれにしても十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。第六戒は「あなたは姦淫してはならない」です。しかし具体的に述べられていないので断定はできません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公に明るみに出てしまった、ということでありましょう。
主イエスは、この女性の献身的な行為というものは、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じであると教えるのです。つまり、主イエスに沢山の罪を赦されたので、それが献身的な行為に現れたと言うのです。ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初め赦されていて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということです。47節で主イエスは、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」と言う意味は、「この人は、過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前に主イエスが女性に罪の赦しの宣言を既に行っていた、ということです。「罪を赦す」というのは、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまったにもかかわらず、その人がそれが神の怒りを買うものであることを認めて、これからはしません、だから怒りを