8/20説教「へりくだる者の恵み」

はじめに
8月という月は毎年戦争を考えることになります。広島への原爆投下、長崎への原爆投下、そして終戦記念日があるからです。町の広報放送の案内に従って黙祷を捧げました。先日、兄の家に行き、珍しく親のルーツなどについて語ったのですが、お互いに人生の先が見えて来たからかも知れません。その時、父親の軍隊手帳があるからと、渡されました。カーキ色の名刺入れより少し大きいサイズで前半に「勅諭」とか「軍隊心得」が印刷してありますが、後半に父親の軍隊での履歴がびっしりと書かれています。第七師団、暁第6195部隊に所属して、工兵として陸軍曹長で終戦を迎えていました。国内だけにいたのかと思っていたら、満州にも行っているし、満州と朝鮮の国境付近にもいたようで、北海道釧路の出身ですが、昭和10年1月に入隊し、昭和20年10月15日に召集解除となっているので、10年10ヶ月を、青春の日々を軍隊で生活していたことが分かりました。今、ウクライナでの破壊された建物の映像を毎日のように見ますが、父親が軍隊で身に着けていた軍隊手帳を実際に見ると戦争が身近に感じられました。すべての戦争は敵も味方も皆正義の戦争です。すべての戦争は始めるときみな自衛のための戦いです。政治家はいつも自らの潔癖を主張しますが、世の中は、いつも正しさで満ち満ちているようです。自称義人ばかりです。この世は正しさの洪水のようです。その根本には何があるのでしょうか。みな自己のみを信頼し、神からの恵みを信じていないのです。義人の確信の根拠は、自分自身にほかなりません。今朝の新約聖書の御言葉に二人の人物が登場しています。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(10節)。この二人の姿は、神の前における人の姿を浮き彫りにして見せてくれます。さっそく、主イエスのたとえ話から御言葉の恵みに与りたいと思います。

ファリサイ派の人と徴税人
二人の人物は、ファリサイ派の人と徴税人です。エルサレム神殿の前庭に人々は集まって祈りました。日に七回祈る機会があり、午後、最初の祈りの時が一番大事にされたようです。ファリサイ派の人は心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(11節)と祈り、後半では、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(12節)と、特別な生き方をしていることをあげて祈っています。この言葉の中にファリサイ派の生き方が分かります。彼は自分を義人だと信じ、他人を見下しているのです。一方、徴税人の方は、離れたところに立ち、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながらいった。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(13節)と言っています。当時は、手をあげ、目をあげて祈るのが普通であったのです。主イエスは、神に義と認められるのは徴税人の方だと結論付けています。

ファリサイ派とサドカイ派
ファリサイ派とは、どういう人たちだったでしょうか。サドカイ派の人たちは、神殿に仕える祭司という立場であって、いわば体制派です。それに対して、ファリサイ派の人たちは、神に対する自分たちの責任は、まず律法を守ることによって生活を聖別しなければならないと考えたのです。ファリサイ派は、サドカイ派と違って、信徒として生きたのであり、商人や職人や農民としての職業人でもあったのです。その中でも特に律法を詳しく学んだ者が律法学者であり。ラビと呼ばれ尊敬されていました。サドカイ派が特権階級として神殿に仕えた祭司であったのに対して、ファリサイ派は、信徒として民衆のために律法を遵守することを指導したのです。彼らは「地の民」と呼ばれる律法を知らない、そのため律法を守らない民衆とは交際しないことを誓約することが、ファリサイ派としての掟であったと言われます。そして、反ローマ的愛国者でもあったのです。そのため、ローマのための税金徴収の仕事で儲けている徴税人はファリサイ派の最も嫌う者たちであったのです。
私たちはファリサイ派を偏狭な狂信的な人たちと見てしまいます。自分たちとは全く違う人たちと思いがちです。しかし、私たちも、礼拝を遵守しよう。正しい生活をしよう。聖書をよく読もう。常に祈ろう。献金は責任をもってささげよう。奉仕活動に励もう。地域の人々に仕えよう。これはどれも大切なことですが、しかし、このように修養に努力する先に、いわばキリスト者の理想像として描いたものが、ファリサイ派に似てはいないでしょうか。このような理想像に近い人が教会にいたら、すぐに長老に選ばれるかもしれません。キリスト者は、必然的にファリサイ派となる方向を内包しているのです。聖書が、繰り返し、繰り返し、ファリサイ派と主イエスとの闘いを記しているのは、これが事実であったというだけでなく、語り伝えていく教会の中に、常に同じ危険があり、闘いが必要だったからです。まさに教会の中の問題でもあったのです。

罪の赦しの場はどこに
今年、大磯の三つの教会を中心に、町民、周辺の市民にも呼びかけてクリスマスキャロリングを計画しています。9月から合同の練習が始まります。是非、多くの方々が参加されることを願っています。キリスト教の教派に関係無くクリスマスの讃美歌、カトリックでは聖歌と呼びますが、歌詞も違いますし、違うクリスマスの聖歌もあります。合同で歌う「ハレルヤ クリスマス」という聖歌はカトリックの綺麗な聖歌です。今日も讃美歌を歌う会で合唱練習をするかと思いますが、いろいろな発見もあり、クリスマスを喜ぶ思いは同じです。ところで、カトリックには「ざんげ」あるいは「告解」と呼ばれ、現在は「ゆるしの秘蹟」と呼ばれる、罪の赦しを具体的な制度として司祭がその務めに任じられています。このような悔い改め、「ざんげ」をすることをプロテスタント教会ではどのように考えるのでしょうか。私たちの教会では、そのための部屋はありません。改革者ルターの流れを汲むルター派の教会では、「告解」「ゆるしの秘蹟」の伝統を捨ててはいないようですが、カルヴァン派の教会では「告解」と言う制度は捨てました。けれども私たちが「ざんげ」をしなくていいということではなくて、今ここに集まっている礼拝こそが、何よりもこの罪の悔い改めの最もよき場所として整えることを考えたのです。カルヴァンは礼拝式順の中に悔い改めの言葉を唱和するようにしました。我々の教会は、この礼拝慣習をあまり大切にしていませんが、司式者の祈りや説教後の牧師の祈りの中に悔い改めの祈りを意識して祈りたいと思います。

神のみを見上げる
9節に「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあります。これは主イエスがお語りになったことではなくて、この福音書を書いたルカの、いわば解説の言葉です。主イエスご自身はこのたとえの意味や目的を解説はしておられません。結論としておっしゃったのは最後の14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。
ルカは、主イエスのお語りになったこの結論の意味をよりはっきりさせようとして、「高ぶる者」とは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ、という説明を、たとえ話の前に置いたのです。9節に「自分は」正しい人間だとうぬぼれて、という言葉があります。主イエスがこのたとえによって問題としておられるのは、「自分」のことをどのように見るかということ、つまり「自己評価」の問題なのです。自分を高くする、高く評価することと、低くする、低く評価することとが、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの違いによってあざやかに描き出されているのです。
ところで徴税人がしている祈り。これはほとんど祈りとも言えません。私たちが考えるような意味における形の整った祈りではありません。むしろ、悲鳴のようなものです。胸を打ちながらの叫びです。憐れんでください。助けてください。他にどうしようもない、ということです。この徴税人について、加藤常昭説教集10巻で、このように語っていました。
この徴税人につきまして、特にプロテスタント教会の神学者、牧師たちが書きます文章のなかに、ひとつの反省の言葉がよく現れてまいります。われわれは好んで徴税人のところに身を置こうとしている。そして自分の胸を打ちながら言う。神よ、わたしを憐れんでくださいと。そして重ねて言う。神よ、わたしはこの自分の罪を知り、あなたの憐れみを知るということにおいて、あの人よりはましであり、この人よりもましであります。そこでまたわれわれは罪を犯す。ファリサイ派と同じ罪を犯すというのであります。
罪人であることを自覚する。これは私どもが繰り返し教会で教えられている正しいことであります。この、罪人であることを自覚するということ、それは結構だが、そこでどうしても併せて他人を見る。他人を裁く。あの男も、この男も罪人としての自覚が足りない。謙遜が足りない。それなのに、なぜあんなふうに、いかにもキリスト者という顔をして、あんなところにしゃしゃり出ているのだろうか。わたしは違う。鋭い良心をもって自分を裁くことができる。そう思いつつファリサイ派と同じ罪を犯しているのです。そのようなことから、「徴税人ファリサイ主義」という表現すら生まれていると語っています。そして更にこう語っています。
この徴税人とファリサイ派との明確な区別はどこにあるかといえば、徴税人は他人を見なかったということです。他人を顧みる余裕はなかったということであります。その必要も感じていなかったでしょう。神の前に自分ひとりでしか立っていなかったのです。彼は、神の憐れみに支えられるより他に、神と共に生きることはできないということを弁えていたのです。

ダビデの悔い改め
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、サムエル記下12章1節から10節までです。ダビデがウリヤとその妻バト・シェバにしたことは、「主の御心に適わなかった」(11:26)と前章の終わりに記されていますが、預言者ナタンが、ダビデのしたことがどれほど罪深いものであったかを悟らせ、その罪を叱責するものとして登場しています。そして、ナタンはダビデのよき批判者、助言者としてこの後も登場します。
ナタンは、一人の豊かな金持ちの男が多くの羊や牛をもっているのに、ある日、自分のところに訪れてきた旅人をもてなすために、一人の貧しい男が自分で飼っていた一匹しかいない大事な雌の小羊を、取り上げ、その客に振る舞ってしまった、という譬えをダビデに語りました。この譬えを聞いた「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5‐6節)といって、強い正義感をもって、その男の罪を断罪しました。この言葉を語るダビデの信仰と精神はきわめて健全でありました。しかしナタンは、このような反応を示したダビデに向って、「その男はあなただ。」(7節)と答え、死罪に値する人間はダビデその人であることを宣告しました。この宣告を聞いたダビデは、全身に稲妻が走るような大きな衝撃を受け、自分がウリヤとその妻バト・シェバにした罪のことが指摘されていることを悟りました。ダビデがこの言葉を自分への死刑宣告として聞き、自ら示した正義の基準に従い、潔く「わたしは主に罪を犯しました」と告白し、その裁きを受け入れるべく、悔い改めを表しているさまが、生き生きとしていて、迫力が感じられます。しかし、この言葉を受け、直ちにその罪を主に向って告白したダビデに与えられた言葉は、死刑の宣告ではなく、「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」(13節)という罪の赦しの宣言でした。つまりダビデにくだされた死刑判決は、ダビデの罪の告白に基づき撤回されたのです。主が望まれるのは罪人の死ではなく、罪人が悔い改めて生きることです。ダビデの罪の告白を聞いたナタンは主によってこのような赦しを告げたのです。しかし、ダビデは罪赦されて、何のとがめだてがなかったのではありません。災いは、ウリヤを戦場で死なせたその罪にふさわしく、第一に、戦争と剣による災いがダビデの家に襲い来ることが告げられ、第二に、バト・シェバとの姦淫による罪に対する災いとして、それに相応しい罰がその家の歴史において起こることが告げられています。ダビデはこの神の忍耐深い愛による罪の赦しと同時に、愛する子の死という厳しい判決を聞かねばならなかったのです。しかし、この厳しいダビデの子供の死という災いは、この犠牲により、ダビデ自身は死から免れ、再びその罪を問われず、災いはこれで終わり、そのかなたに大きな恵みがあることを告げる意味もありました。この幼子の死という悲しむべき出来事は、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いを示す預言的意味をもつ出来事となりました。ダビデは息子の死を悟ります。神の御心を知り、ダビデは立ちあがり、身を洗い、香油を体に塗り、衣を着替えて、礼拝を守り、用意された食事を取りました。死という人間の手で変えることのできない事実を素直に受け入れ、立ちあがるダビデの信仰は実に見事です。ダビデは、この事実を実に素直に受け入れているのです。ダビデはウリヤとその妻バト・シェバに対する大きな罪にもかかわらず、サウル王のように主の拒絶による裁きへとは向わず、むしろ赦され祝福へと導かれています。その道を用意したのは、預言者ナタンです。ダビデは、その罪を指摘し、その罪を悔い改めさせ、そこから立ちあがらせる預言者をもっていました。この王を恐れず語る預言者を持つことは王にとって大きな救いでありました。適切な助言者、正しい道へ導く助言者を持つことは、どんな場合でも幸いなことです。ダビデとサウル王の人生に大きな違いがあるとすれば、その罪の大きさではなく、犯した罪の後の悔い改めと、御言葉に聞く態度の違いです。サウルは預言者たちを殺し、その罪を指摘し、道を正してくれる助言者を持ちませんでした。しかし、ダビデにはこの自らの罪を指摘してくれる預言者ナタンがいました。わたしたちも、罪を指摘してくれる神の言葉を取り次ぐ預言者をもって生きることが幸いな信仰の歩みであることを知るのです。
神の裁きを信じる
神のみ前に本当に立つ、それは言い換えれば、神の裁きの前に立つということです。神がこの私をお裁きになる方であるということを本当に知ることこそが、神のみ前に立つことなのです。あの徴税人は、神の裁きを知っており、それを恐れていました。だからこそ、「罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったのです。他方ファリサイ派の人は、神の裁きなど真剣に受け止めていません。恐れてもいません。だから呑気に、あの人と比べて自分は立派だ、などと思って満足していられるのです。つまりこの二人の違いの根本には、神の裁きが必ず行われることを信じ、恐れをもってそれに備えているか否か、ということがあるのです。
私たちが人のことばかりを見つめ、人と比べ合ってばかりいる目を、御神の方に向け、御神の裁きを恐れをもって信じつつそのみ前に立つならば、私たちはこの徴税人のように自分を低くする者となります。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈る者となるのです。その時私たちは本当に祈る者となります。神様はその祈りをしっかりと受け止めて下さり、私たちを義として下さるのです。そのために、神の独り子イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのです。このことが、へりくだる者の恵みなのです。 祈ります。

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