湿っぽい説教
ある教会の信徒が、うちの牧師の説教は湿っぽい話が多い、年は若いのに暗い話しが多いと少し愚痴を言っていました。湿っぽく、暗い話しとは、死とか悩みの話しとか罪のことだろうかと想像しましたが、恐らく、感謝、喜びに満ちた、元気を与えてくれるような説教を望んでいるのかな、と思いました。私の説教はどうなのだろう。暗い話しが多いのかな、確かに説教は救いの喜びを語るべきなのでしょう。そういう意味ではこれは暗い話しになるのかもしれませんが、キリスト者の墓地の墓碑銘について、20年ぐらい前に、調べたことがあります。愛知県のある教会で教会墓地を造ることになり、教会の墓地の墓碑銘に聖書のどの言葉を刻もうかということになりました。「わたしはよみがえりであり、命である」とか、「信仰・希望・愛」とか、これは結婚式でも、どんな時にも好まれますが、「我が国籍は天にあり」これも多いです。ちなみに大磯教会の墓石に刻まれている墓碑銘は、ヨブ記19章26節の口語訳の言葉です「わたしは肉を離れて神を見るであろう」という言葉です。それぞれに思いを込めた聖書の言葉が刻まれています。
ところで、加藤常昭牧師の説教集にこういう話しが紹介されていました。スウェーデンのルター派教会の代表的な指導者にゼーデルブルームというすぐれた学者がいましたが、1931年に亡くなられました。この人は、生前既に自分の墓碑銘を決めておいたそうです。それが今朝私たちに与えられている新約聖書の御言葉、ルカによる福音書17章の最後の言葉「わたしどもは取るに足りない僕」(10節)だったそうです。この言葉を墓碑銘として選んでいたことに感銘を受けたと加藤牧師は語っています。今朝は、この17章10節の言葉、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉を中心に御言葉の恵みに与りたいと思います。
赦し、信仰、奉仕の教え
ルカによる福音書17章1節から10節の箇所は、主イエスが折々に語られた教えを集めた箇所と言われます。1、2節には、小さな者の一人をつまずかせるぐらいなら、首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれる方がましだ、という教えが語られています。3、4節は、兄弟が罪を犯したら戒め、そして悔い改めたら赦してやりなさい、という赦しの教えです。5、6節は、私たちの「信仰を増してください」という願いに対して、からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じてもその通りになる、と信仰について主イエスは教えておられます。そして7節以下には、主人と僕というたとえを用いて、信仰者の奉仕に対するあり方を教えておられます。つまりここには、主イエスがいろいろな場面で、いろいろな文脈の中でお語りになった教えが集められているのです。この福音書を書いたルカは、これらの教えにあるつながり、一貫性を見ていると思います。それはどういうつながりなのか、つまりルカはこれらの教えをどういう視点で集め、並べているのか、そのことをご一緒に考えていきたいと思います。
誰に対して語られているのか
まず、この主イエスの教えは誰に対して語られたのでしょうか。1節に「イエスは弟子たちに言われた」とありますから、これらの教えは弟子たち、主イエスに従っている人々、つまり信仰者に対する教えなのです。また5節には突然「使徒たちが」という言葉が出てきます。「使徒」とは「遣わされた者」という意味の言葉で、基本的には、主イエスの復活の後、弟子たちが主イエスによって遣わされて、主イエスによる救いを宣べ伝えていった、その弟子たちに対して用いられる言葉です。したがって、この時点での弟子たちは、厳密に言えばまだ「使徒」とは言えないのです。しかしルカによる福音書は時々、先取りする形で、弟子たちのことを「使徒」と呼んでいます。つまりルカは、この弟子たちの派遣に、後に復活された主イエスによって使徒たちが派遣されたことを重ね合わせて見ているのです。5節でルカが「使徒たち」と語っているのも同じ思いによってであると言えるでしょう。つまりルカは5節の「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに、後の教会の使徒たちの願いを、そしてその使徒たちの指導の下に今主イエスを信じ、主イエスによって世へと派遣されているルカ自身を含めて自分たちの願いを重ね合わせ、自分たちに対して語られた主イエスの言葉として聞いているのです。そういう意味で、この箇所は、もっぱら弟子たち、そして主イエスに従う信仰者たちに語られているのです。私たちはここから、主イエスを信じる信仰者として生きるとは、いったいどういうことかを教えられるのです。
つまずかせる者の不幸
1、2節には、「小さい者の一人をつまずかせる」者になるな、と主イエスは命じておられます。人の信仰の歩みの邪魔をし、その人が神を信じ信頼して喜んで神に仕えて生きることができなくしてしまうこと、それがつまずかせることです。私たちは、信仰者として生きていく中で、つまずきは避けられません。いつも順風満帆で、元気に喜んで神に仕えていくことができる、などという信仰者はいないのです。信仰の歩みには、様々なつまずき、障害が生じます。しかし主イエスは、その障害をもたらす者は不幸である、と言っておられます。仲間の信仰の歩みを、自分がつまずかせ、その人が神を信じ、喜んで神に仕えて生きることができなくしてしまう、信仰の元気や勇気を失わせてしまうようなことをしてはならないと、主イエスは命じておられるのです。
つまずきに陥るのは多くの場合信仰が小さく弱い人です。そして、それらの人々をつまずかせるのは、信仰が大きく強い人です。強い信仰を持っている人が、その信仰を言わばふりかざして、信仰者たる者はこうでなければならない、と言って、そのような強い信仰に生きることのできないでいる小さく弱い人を批判し、傷つけ、それによって勇気や元気を奪い、つまずかせるのです。主イエスは、私たちに、そのように小さく弱い人をつまずかせることのない者となることを求めておられます。主の僕として生き、主に仕えることにおいて第一に考えなければならないのはこのことなのです。
戒めと赦し
3、4節には、「もし兄弟が罪を犯したら」ということが語られています。その時には、「戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」とあります。信仰の兄弟姉妹の間で起る罪にどう対処するか、ということです。これは身近な、現実的な、そして大変難しい問題です。主イエスはそこで先ず、「戒めなさい」と言っておられます。見て見ぬふりをしてしまってはいけない、ということです。きちんとそれを指摘し、戒め、悔い改めを求めることを主はお命じになっています。しかし兄弟の罪を戒めることにおいて忘れてならないのは、「悔い改めれば、赦してやりなさい」ということです。戒めるのは、赦すためです。赦すことによって良い交わりを回復することこそが目的なのです。主イエスはここでさらに、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言っておられます。これは、兄弟が自分に対して犯した罪をどうするか、ということです。主イエスは、その兄弟が、「悔い改めます。ごめんなさい」と言ってくるなら赦してやれ、そしてそれを一日に七回繰り返しても赦してやれ、とおっしゃいます。これは実は、マタイによる福音書18章22節において主イエスが「七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃったのと同じことで、兄弟の罪を無条件に赦しなさい、ということです。兄弟姉妹に対して、そのような無条件の赦しの心を持つことを主イエスは私たちに求めておられるのです。そのような赦しの思いの中でこそ、本当に相手の罪を戒めることができる、ということでしょう。戒めることと赦すことの両方がしっかりとなされるような関係、交わりを、信仰に生きる兄弟姉妹の間で築くことを主イエスは求めておられるのです。
からし種一粒の信仰
次に5節には、後の使徒たちである弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と主イエスに願ったことが語られています。小さく弱い者をつまずかせるなという教えも、無条件に赦すという思いをもって兄弟を戒めよという教えも、どちらも、とても難しいことだと私たちは感じます。信仰がよほど増し加えられなければ、とてもそのような生き方はできないと思うのです。ですから、4節までのみ言葉を聞いた弟子たちがこのように願った気持ちはよく分かります。しかし主イエスはそれに対して、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とおっしゃいました。主イエスが言おうとしておられるのは、信仰はその量がどれだけ増し加えられるかではない、ということです。信仰は量でも質でもなくて、「ある」か「ない」かのどちらかだ、と主イエスは言っておられるのです。私たちが自らに問い、吟味すべきことは、自分には信仰が「ある」のか「ない」のか、なのです。そして信仰が「ある」とは、主の僕として生きているということです。
取るに足りない僕
信仰者とは、主イエスの僕として生きる者です。僕とは当時の奴隷を意味します。人権を無視した奴隷制度は認められないことは現代では当然です。しかし、ここではそのことを問題にしているのではありません。主イエスを信じる信仰者として生きるとはどういうことかが問題なのです。
7節に「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」とあります。この「僕」というのは、雇い人ではなくて奴隷のことです。奴隷を使って畑仕事や家畜の世話をさせることは当時珍しいことではありませんでした。キリスト者の中にも僕、つまり奴隷の所有者がいたのです。僕を使っている人は、「その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではないか」と主イエスは言っておられます。僕は、日中は畑仕事や家畜の世話をして、帰って来たら今度は主人の食事の用意をし、給仕をする、そういうことを全て終えてからようやく自分の食事をすることができるのです。そういう僕と主人の関係が9節で「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」と言い表されています。僕はその労働に対して主人に感謝されることを期待すべきものではないし、主人は僕の労働に対して給料を払う必要もない、それが主人と僕の関係なのです。これは奴隷制度が良いとか悪いとかいう話ではありません。当時の人々にとっては、こういうことが当たり前だったのです。
ここで主イエスは、あなたがたは自由人だと言われています。僕、つまり奴隷を持つことができる者たちとしてお語りになっています。だから、そのあなたがたに僕(奴隷)をもっていた人があるとする、と話しを始められました。そしてその僕に対して当時の人々が当然だと思っているやり方を語られたのです。僕つまり奴隷は自分の所有です。自分のものである奴隷、わたしの全く自由になる存在です。気をつかう必要はない。主イエスはそういう話しをなさったのです。あなたがたはそういう僕に対する態度を取るだろうと言われたのです。そこで突然、主イエスの話はひっくり返るのです。実はあなたはその僕を自由に使っている主人ではない。その主人に使われている僕があなたなのだ、と言われたのです。そこで話しは逆転いたします。あなたがたは僕をあごで使うことができる主人ではなくて、その僕のようにひとりの主に仕え抜くということを覚えればよい。それが分かった時に、あなたがたは本物のたしかな信仰に生き始めるのだ。自分が主人でなくなって、僕になった時に何が起こるか。そこに新たな主人が登場いたします。言うまでもなく主イエス・キリストです。
僕は、雇い人とは違います。雇い人は、雇い主に労働を提供し、その対価、見返りを受けるのです。しかし僕は、給料や見返りを求めて働くのではありません。主人に買い取られたのです。主人の感謝すら期待すべきではないのです。僕は命じられたことは何でもしなければなりません。そしてそれを全て果たしたとしても、それは何ら立派なこと、褒められるべきことではなくて、「しなければならないことをしただけ」なのです。主イエスは、「あなたがたも同じことだ」とおっしゃいました。何が同じことなのでしょう。信仰者として生きるとは、主イエスの、そして主イエスの父である神の、僕として、主人に仕えて生きることなのです。私たちは、主人である主イエスに命じられたことをするのです。そしてそれに対する見返りを求めたり、褒められることを願うのではなくて、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うのです。それが信仰者として生きるということなのです。
主の僕として生きる
キリスト者になるということは、主の僕になるということであって、当然それは牧師だけということでもありません。キリスト者になるということは、キリストのものになるということです。ある人は、キリスト者である僕をこう表現しました。「わたしは値を求めないで仕えることができるようになった、あなたの僕です」と。これは、主人に見返りを求めるのではなくて、自分が主人に感謝するという言葉です。主イエスに対する感謝の思いがその人の一生を決めるのです。その時に、私たちは何でもできます。からし種一粒ほどの信仰が、桑の木を海へと移し根を下ろさせるのです。その時に教会は強くなります。先日の懇談会でいろいろな意見が出され感謝でしたが、からし種一粒ほどの信仰があれば主の僕が住む牧師館は一瞬にして出来るのではないか。と思わされます。からし種一粒の信仰であっても、真の信仰があるなら、その大きな力は計り知れません。主イエスを信じる者には、神が力を与えて下さるからです。お祈り致します。