11/5説教「涙を拭って下さる主イエス」

はじめに
今朝、私たちは就眠者記念礼拝を共に守っています。今朝の礼拝を、なくなられたご家族、教会員を想いつつ守ります。礼拝の後に、今年も大磯教会就眠者名簿を読み上げます。名簿はご出席の皆様にお渡ししていますが、今年は115名の方々と就眠された6名の教職を覚えさせて頂きました。昨年の就眠者記念礼拝から3名の方々が、加えられました。熊澤喜久子姉、本田稻子姉、松本(楢村)明美姉の3名です。熊澤喜久子姉は昨年の12月22日に天に召されました。熊澤喜久子姉は、1950年12月に洗礼を受けられていますから70数年の信仰生活にはいろいろな事があったことでしょう。御主人の熊澤義宣牧師は神学者でもあり東京神学大学の学長にもなられ、人生後半では大病され、熊澤喜久子姉妹も気苦労が多かったと推察しますが、ご自身、心理カウンセラーとしてのお働きで、多くの方の相談にも乗っておられました。大磯教会の一員として過ごした最後の10数年を私たちは信仰の友として過ごすことができたことを懐かしく感謝を持って覚えます。本田稻子姉は今年の1月4日に天に召されました。突然の逝去に私たちは驚き悲しみました。目立たないようにされていた姉妹でしたが、その働きは大きく、長く長老として働かれ、婦人会の働きも大きく、礼拝案内を毛筆で書く奉仕も長年続けられ、聖日礼拝に居ることが当たり前と私たちは思っていました。新島襄碑前祭の休憩所として大磯教会が会場になるために働かれ、接待の奉仕をされている姿を今も思い出します。松本明美姉は、大磯教会の礼拝に出られていた頃は楢村という性であった方ですが、今年の3月に天に召されました。1971年のクリスマス礼拝で富田ハルイ姉と一緒に大磯教会で洗礼を受けられた方です。
私たちは、この名簿にある方々と直接繋がりはなくても、皆、愛する人、親しい人との別れを経験しています。そして、愛する人を失った悲しみ、淋しさを味わっています。今朝、私たちは、その悲しみ、淋しさを、今一度、噛みしめています。しかし、また同時に、私たちは、この礼拝で、心の奥底に、大切にしまっている、幸いな記憶をも、想い起こしているのではないでしょうか。
今は天にある、兄弟姉妹が、父が、母が、妻が、夫が、そして子供が、私たちにしてくれたこと。語りかけられた愛の言葉、その仕草。心の奥底に大切にしまっていた、それらの記憶が、浮かび上がってくる時、私たちは、悲しみ、淋しさを超えて、懐かしい温もりを感じるのです。そして、それは、愛する人たちが、この世に在った時、主イエスと出会い、神の愛に包まれ、守られ、主イエスの愛が、私たちをも包んでいくのです。
ところで、就眠者記念礼拝は、召された方のために行うのではありません。召された方は、既に、天において、神の懐に抱かれています。ですから、地上に遺された私たちが、その方たちのために、何かをして差し上げる必要はないのです。就眠者記念礼拝は、遺された者たちのために、行われるものなのです。遺された者が、召された方の歩まれた道筋を想い起こし、その方を生かしてくださった信仰に思いを馳せ、自分の生き方を顧みる時なのです。そして、受け継いだ信仰を、今度は、私たちが伝えていくことの大切さを、再認識する時なのです。そのような思いをもって、この礼拝を献げたいと思います。

涙を拭ってくださる主イエス
さて、今朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ヨハネの黙示録21章1節から4節です。ここに書かれていることは、救い主イエスを信じ、主イエスに希望を託して生きた人が、世の終わりに神から頂く最高の慰めについて語っています。3節、4節でこう語っています。
3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

大切なことは、主イエスと共に生きた人は、人類の罪を背負って十字架で命を献げられた御子イエスのお陰で罪をすべて赦され、しかも復活された主イエスから永遠の命を受け、神と共に永遠に生きるという点です。そして、天に召されたキリスト者は、この世にいた時と違い、イエス・キリストにより完全に清くされた真実な思いと愛とで、地上に遺されている愛する者といつか天で再会し、時間を超えた永遠の世界で共に生きることを切に願い、楽しみに待っています。そのように天の国で生きているのです。ヨハネの黙示録は、この希望を私たちに伝えています。それが心に留めたい二つ目の点です。聖書から教えられる3つ目のことは、信仰者はこの地上の旅路を終えた後、父なる神、また御子なる主イエス・キリストから計り知れない慰めを必ず与えられるということです。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」とあります。また、先ほど読んだ旧約聖書の御言葉、ヨハネ黙示録より数百年前に書かれたイザヤ書25章8節でも、預言者イザヤはこう語っています。
8死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を/ 地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
聖書全体がこれを強調し、私たちを励まし慰めています。先ほど、信仰者は神の前で永遠に生きることを許されていると言いましたが、それだけでなく、涙をことごとく神に拭われ、限りない慰めを御子イエスから頂くのです。
実際この世では、どんなに涙することが多いでしょうか。重い病気ゆえの苦しさ、痛み、不自由さ、不安、焦り、絶望感。また周囲の人の無理解や鈍感さに対する悲しみの涙もあります。自分ではどうにも出来ない生まれながらの環境から来る理不尽な苦しみ、孤独、差別、社会の不条理ゆえの涙もあるでしょう。

理不尽で納得いかない思い
一昨日、高齢者施設に入所しておられる教会員から私に電話がありました。腰を打って入院され、治療の結果、リハビリも終わり回復したのですが、引き続き高齢者施設に入所され自宅には帰れない状態です。もう2年以上になります。本人は、体のどこも悪くないのに施設から出られないことでストレスが溜まっています。家族が冷たくて出してくれないと訴えるのです。何度か電話があるのですが、「どこにも話すことができないので、ご迷惑でしょうが先生に電話するしかないのです」と訴えます。「迷惑なんてありませんから、何時でも電話してください。お祈りしていますよ。またお会いしましょう。」と答えるしかありません。ご家族と介護施設からの話しでは、本人は、その後の検査で、認知症で介護度2とのこと。「本人は話すこともすぐ忘れますが、電話があったらそれなりに受けて下さい。」と言われており、ご家族は姉妹のことに心を配られています。介護施設の方も親切で、外目からは恵まれた中で過ごされていると思うのですが、本人にしたら理不尽で納得いかないのです。また、私がこの教会に赴任した当時、ある教会員の姉妹が、自分の境遇に納得がいかない不満を高齢者介護施設訪問の際に語られておりました。十数年を経て、穏やかな日々を感謝に満ちたお姿を見て、嬉しかったのですが、その姉妹も今は天に召されました。超高齢化社会の現在、誰もが困難を抱えています。願うことは、弱い私たち一人一人の涙を主イエスが拭って下さることです。そして、一切の労苦が報われ、豊かな慰めの待つ天の国を静かに仰ぎ望みつつ、この世の旅路を一歩一歩丁寧に踏みしめて行きたいと願うのです。

新しい天と地
最近、ニュースを見たくないような悲惨な事件が毎日起こります。ウクライナの悲劇の解決の見通しも付かない間に、パレスチナの悲劇が起きています。平和を願う人々の祈りや、人々の懸命な努力を踏みにじるようにして、憎しみと暴力の悪循環が際限なく繰り返されています。この悪循環を止めることができない。何故なのか。私たちは深い所で絶望しているからだろうか。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章24、25節の中で、絶望的な状況の中でもなお希望を持つことについて語っています。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と。「目に見えないものを望む」とは、いかなることでしょうか。それは、十字架上で死んだ主イエスを甦らせた神の大能への信仰から来る希望のことです。 
希望を棄てた人は、より良き将来を期待することも、他者に善意を持ち続けることも、忍耐することもできなくなります。短絡的になり、自暴自棄になり、直ぐに暴力に訴えようとするのです。それはいつまで続くのでしょうか。ヨハネの黙示録は、この重苦しい問いに答えているのです。
神が創られた世界は、いつまでもこの堕落した状態でいるわけではない。古い世界は去って行くと語っています。
黙示録の著者ヨハネが、ここで「玉座から語りかける大きな声」を聞いたと語っています。「神が人と共に住み、人は神の民となる」と言っています。この中に「神に従わない人々」もまた神のものとなると考えたいと思うのです。なぜなら人間は変わり得るのです。裁きの対象である人々も神の者となると信じたいのです。人種や宗教の違いによって生み出される争いは過去のものとなり、すべての人が、神の民となるのです。神は自ら人々と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや早すぎる非業の死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。このような新しい天と地が来る。その時が必ず来る。それが私たちの信仰なのです。

主の真理は岩のごとし
この後歌う讃美歌227番は、日本人による創作讃美歌で、主なる神への力強い信頼を歌っています。こういう詩です。
1 主の真理(まこと)は 岩のごとし。
逆巻(さかま)く波にも 揺るぎもなし。
(くりかえし)
とうときかな 天の神は、
力にあふるる とこしえの主
2 主のめぐみは 浜の真砂(まさご)、
その数いかでか 数え得べき。
3 弱きわれも こころつくし、
わが主にすがらば 力をぞ得ん。
4 主の真理と そのめぐみを、
のぞみてわれらは 安らぎを得ん。

この歌詞は、『讃美歌21略解』によると、日本組合キリスト教会の『さんびのうた』(1879年)に「かみのまこといは(岩)のごとし」として初めて収録されました。後に『讃美歌』(1903年)で「主の真理は荒磯(ありそ)の岩」と改変され、1954年版『讃美歌』まで継承されてきました。そして、『讃美歌21』では、より素朴で力強い歌詞になりました。この讃美歌の作者は不明となっていますが、実は原作者は松山高吉(たかよし)であろうと推定されています。松山高吉氏は変わった逸話をもっています。彼は1846年新潟県の最も西にある糸魚川の近くで生まれ、幼いときから漢学を学び、その後、京都や東京で国学や和漢の学問を修めました。彼は、キリスト教を有害なものと考え、偽名を使って神戸の宣教師グリーンの家に住み込みキリスト教を探っていましたが、やがて信仰を持ち、摂津第一公会(現在の神戸教会)の設立に関わりました。その後、横浜でブラウン、ヘボン、奥野昌綱(まさつな)らと共に文語訳聖書の翻訳に参加し、讃美歌の翻訳、創作、出版に大きな功績を残しました。まことに、「主の真理(まこと)は 岩のごとし」であって、キリストに敵対する者をも、味方にし、大きな働きを与えられるのです。この歌詞のように、「主のめぐみは 浜の真砂(まさご)のようで数え切れないのです。」そして「弱い私たちも、こころをつくし、わが主にすがれば、力を与えられるのです」。

新しいイスラエル
天と地の一切が新しくされたとき、ヨハネはまた次の幻を見たのです。
2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
エルサレムはもともと、神が人との間に結んだ契約を体現する美しい都でありました。その美しい都が、歴史の経過の中で、しばしば争いの場所、流血の町となりました。だがそういうこともなくなると、ヨハネ黙示録は語ります。人種や宗教の違いによって生み出される争いは過去のものとなり、すべての人が、神の民となる。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや早すぎる非業の死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(3,4節)。
来たるべき都とは、天にある神の都です。キリスト者とは、天にある神の都を目指して、この地上を旅している者です。今朝、私たちは、天に帰られた方々のことを覚えながら、私たち自身も、旅する者であることを、今一度、しっかりと覚えて生きて生きたいと思います。 お祈りします。

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