律法への賛美と祈り
今朝はアドベントの第3主日の礼拝です。今朝私たちに与えられています旧約聖書の御言葉は、詩編19編8節から15節までです。この19編の前半では、自然界における創造主なる神への讃歌を詠っており、2節にある言葉が良く知られています。
2天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
1節の天とか大空という言葉は、神の創造された自然の代名詞と考えてよい表現です。口語訳聖書では、『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。』と訳しています。
この大空によって代表される自然とか宇宙の中に神の栄光があらわれ、神のみ手のわざがあらわれていると詩人は詠っています。自然界の発する言葉は耳には聞こえないけれども、それらは創造の初めから創造主なる神の栄光を述べ伝えてきたのです。ベートーヴェンの曲に「自然における神の栄光」と題する曲があるようですが、まさに、この詩の前半で詠っていることは、自然と宇宙に臨在する神の栄光を詠っているのです。大自然に圧倒された経験、自然の美しさ、見事さに神の栄光があらわれているのを感じる思いは、誰にもあるでしょう。詩編は自然の美というものに対しては大変素直な態度をとっているということがわかります。しかし、ヘーゲルという思想家は、自然というのは非常に強力なものがあるように見えるけれども、その強力さというものには限界があって、あるところからとたんに無力になると言い切っています。人生の岐路に立つとか、生きるか死ぬかという状況になるという場合に、はたして自然の美というものはどれだけの力をもつのでしょう。詩編19編12節以下はそれを示しています、ここに罪の問題が出てくるのです。ここには非常に細やかな罪の告白が出てきます。
そして、中間の7節から11節では、律法において神の御旨が示されたことへの賛歌を詠っています。律法を尊ぶことは、単に規則を外面的に満たすことを意味しません。そのように限られたものでありません。この詩篇は、律法をたたえることによって、実はこの律法に啓示されている神をたたえているのです。そして12節以下には、罪の告白と個人的な祈りが詠われています。この詩人にとって、律法こそ人に新たな生命力を与え、その魂を生き返らせる神の力なのです。無知で迷う者に確かな知恵を授け、心を喜ばせ、未来永劫にわたって義とする言葉が律法には含まれているのです。律法は彼にとって、「純金にもまさる」価値のある宝なのです。詩人はその深い確信から個人的な祈りに移行していきます。詩人にとって、真に大切なのは、自らの心の平安です。そのことは、知らずに犯している罪の赦しを求める祈りと、隠れた罪から守られるようにという祈りのうちに示されています(13節)。この詩人は、不注意な過ちを犯す人間的な不完全さと、簡単に誘惑に陥る人間的な弱さとを知り尽くしています。しかし、彼は、罪を赦し、罪から守ることのできる神の恵みについても知っています。彼はそのことを良く知っているから祈るのです。彼は祈りが聞かれることを、信仰によって確信し、罪から解放されるその時を、待ち望んでいるのです。
この詩人は、「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように」(15節)という言葉を付け加えて、この祈りを結ぼうとします。彼は単に言葉と行いにおいて神の意思を満たすだけでなく、神に対して心の扉を完全に開け放ち、神に心の思いをつぶさに見てもらうことこそ、神に対する人間の正しい関わり方であることを知っているのです。神の前における幼子のように素朴で、信頼に満ちた開放的な態度によって、彼は神の御前に自分の弱さについての懸念を、少しも隠そうとしません。この開かれた心こそこの詩の基調音として鳴りひびき、私たちの心に触れてくるのです。
証し人ヨハネ
さて、今朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書1章19節から28節までです。ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネをどのように描いているのでしょうか。既に6、7節に洗礼者ヨハネのことが語られていて、そこにはこうありました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。ヨハネは証しをするために来た、これがヨハネによる福音書における洗礼者ヨハネの位置づけです。「光について証しをするため」ともあります。その「光」とは、9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われている光、つまり主イエス・キリストのことです。すべての人を照らすまことの光である主イエスを証しするために、洗礼者ヨハネは神によって遣わされたのです。
今朝の箇所の冒頭の19節は、「さて、ヨハネの証しはこうである」と始まっています。洗礼者ヨハネがどういう証しをしたのかがこの19節以下に語られています。つまりヨハネは主イエスについて証しをするため遣わされたのですから、ここには、ヨハネが主イエスについて語ったことが記されているのだろう、と私たちは思います。ところがこの19節以下に語られているのは、「あなたはどなたですか」と問われたヨハネが、「わたしはこれこれではない、これこれだ」と答えたということです。つまりヨハネはここで自分のことを語っている、自分のことを証ししているのです。
ヨハネは祭司やレビ人の問いに対して、「公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」と20節にあります。メシアというのは、神が約束して下さった救い主を意味しています。エルサレムから遣わされた祭司やレビ人は、お前は自分が救い主だとでも思っているのか、と厳しく問うたのです。それに対してヨハネは、「いや、私は救い主ではない」と言いました。さてヨハネが「私はメシアではない」と言ったことを受けて人々は「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねました。エリヤは旧約聖書に出てくる預言者ですが、救い主メシアの先駆けとしてもう一度現れる、と旧約聖書にあります。お前は自分が救い主メシアだと言うつもりなのか、と彼らは問うたのです。それに対してもヨハネは「違う」と答えました。すると彼らは更に「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねます。「あの預言者」というのは「モーセのような預言者」のことで、やはり神による救いが実現する時に遣わされると考えられていた人です。しかしヨハネはそれに対しても「そうではない」と答えました。「お前は何者だ」という問いに対するヨハネの答えは、「わたしはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもない」だったのです。つまりヨハネは、「わたしは救い主ではないし、神による救いをもたらす者でもない」と繰り返し答えたのです。
わたしは荒れ野で叫ぶ声である
しかしエルサレムから来た人々は、ヨハネの答えが「○○ではない」ということばかりなので満足しません。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と問うたのです。それに対してヨハネは、イザヤが言ったように「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。これはイザヤ書第40章3節の引用です。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」でした。ヨハネは自分が「荒れ野で叫ぶ声」であることを自覚して、その「声」であることに徹して生きたのだ、とヨハネ福音書は語っているのです。
ヨハネは「声」であることに徹して生きたわけですが、それは即ち主イエスがメシアである証しのために生きた、ということです。ヨハネは主イエスを証しする声として生きたのです。彼は、メシアでもエリヤでもあの預言者でもない、救い主ではないし神による救いをもたらす者でもない、私は「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と語ったことによって、主イエス・キリストを証ししたのです。それは主イエスこそがその救いをもたらす方だということです。彼は、到来しようとしている救い主イエス・キリストに人々の心を向けさせようとしたのです。
あなたがたの知らない方がおられる
26節でヨハネはこう言っています。
26わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。
この答えも、なぜ洗礼を授けているのかという問いへの直接の答えではなくて、あなたがたの知らないまことの救い主が既に世に来ておられる、私はその方のための備えをしているのであって、その方の履物のひもを解く値打ちもない者だ、と言うことによって主イエスを指し示しています。ヨハネは「わたしは」と自分のことを語っていながら、実は自分のことではなくて主イエスのことを、主イエスこそが救い主であられることを証ししているのです。そして、その方は私たちの中にも立っているのです。
蓮見和男という日本基督教会仙台黒松教会の牧師で、後にドイツに留学され多くの著作をされている方の説教集がありますが、この箇所でこう語っています。
わたしは、かつてこういうことを、ある書物で読んだことがあります。ある人が、(その人はドイツ人だと思うのですが、)自分の洗礼の時の、名付け親から、ひとつの電報を自分の洗礼記念日にもらったそうです。それは外国からでした。そこには、ただ「ヨハネ1・26」とだけ欧文(英語か?)で書いてありました。時は、戦争の真っ只中でありましたから、この電報は、警察で目を光らせ、何か秘密の暗号ではないか、と問いただされたそうです。実は、この人の洗礼の時、「あなたがたの中に、あなたがたの知らないお方が立っています」この言葉をいつまでも忘れないようにと、この聖書の言葉を贈られ、今、その記念の日にあたって、その聖句を思い出すよう、「ヨハネ1・26」と電報で、言ってよこしたのです。この言葉を、わたしたちも一生忘れないようにしましょう。もう一度考えてください。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」、このヨハネの証しを、たといあなたがそのお方を忘れてしまっても、すっかりこの世のことにかまけている時でも、そのお方は、あなたがたのただ中に、今日も立っておられるのです。
あなたがたの知らないまことの救い主が既に世に来ておられるのです。そして私たちの中に立っておられるのです。
ただ、神にのみ栄光を
今朝の週報の【説教の参考に】の欄にこう書きました。
「ただ、神にのみ栄光を」(Soli Deo gloria!)という言葉を、私が受洗したとき贈られた記念の聖書に母教会の牧師が書いてくれました。私もそれを引き継いでいます。と。
この「ただ、神にのみ栄光を」(Soli Deo gloria!)という言葉は、確か宗教改革者カルバン(英語読みではカルビン)の言葉だと思いますが、私に洗礼を授けた義理の父でもある芳賀眞俊牧師が座右の銘としていた言葉です。個人的な話しになりますが、少しお話させていただきます。この言葉は、芳賀真俊牧師ご自身が使っていた聖書の扉裏にも書いてありましたし、受洗者に贈る聖書にも書いていました。私が『ただ、神にのみ栄光を!』という芳賀眞俊牧師の著作物を集めて編集した本を1995年に出版しましたが、その本の題名を考えた時に、まずこの言葉が出て来ました。その表紙の字は本人の聖書裏に万年筆で書いていた文字を拡大し表題にしました。裏表紙にはギリシャ語で、これも芳賀真俊牧師が万年筆で書いた(Soli Deo gloria!)という字を出版社の朝日新聞名古屋本社の編集の方に御願いして作成してもらいました。芳賀真俊牧師は1993年10月に天に召されていますから、無くなってちょうど30年になりますが、私がこの「ただ、神にのみ栄光を」の思いは私も引き継いでいます。洗礼者ヨハネは、救い主である神の独り子イエスを証しするために来ました。それに撤しました。先駆者という日本語が適当かどうか分かりませんが、彼は、イエス・キリストの道備えをしたのです。神にのみ栄光を帰するということです。これはキリスト者すべての生き方ではないでしょうか。
主イエスを証しして生きる喜び
ヨハネは、「あなたは何者か」という問いに答えて、「私はこういう者だ、このように生きているのだ」と語ったのです。彼は、私は救い主ではない、救いをもたらす者でもない、ただ、まことの救い主を指し示し、その方に仕える者に過ぎないと言いました。自分はその方の履物のひもを解く資格もない、とも言っています。履物のひもを解くことは当時奴隷の仕事とされていました。つまりヨハネは、自分は主イエスに奴隷として仕える資格もない者だ、と言ったのです。このように自分自身のことを語ることによって彼は主イエスを証しし、主イエスへの信仰を告白し、主イエスを指し示す声として生きたのです。
彼がこのように自分自身には何の力も資格もない、奴隷となる価値すらない、と語ったことは、彼が、自分には何の力もない、自分は何もできない、何の価値もない、と卑屈になり、自分などどうせ何もできないんだ、と自嘲的に、暗く、寂しい、悲観的な、後ろ向きで消極的な、喜びのない生き方をしていた、ということでしょうか。あるいは、自分が決して前面に出ないように、いつも謙遜に、控え目に、目立たないようにしていなければ、という不自由で窮屈な思いによって無理をして生きていた、ということでしょうか。そのどちらでもありません。彼は窮屈な思いも無理もしてはおらず、むしろ全く自由に生きています。洗礼を授けるなど何様のつもりだ、と厳しく批判されても、堂々と、私はイザヤが預言していた「荒れ野で叫ぶ声」として、救い主の到来に備えて洗礼を授けているのだ、と答えることができました。私自身は救い主でも、救いをもたらす者でもない、後から来られる救い主の履物のひもを解く資格もない者だ、と語っているヨハネは、卑屈になっているのでも、自嘲的になっているのでもなくて、喜びに満たされているのです。主イエス・キリストこそ救い主であられるという信仰を告白し、主イエスを証しして生きる者は、このように自分自身を確立することができます。自分とは何者か、自分は何のために生きているのか、をはっきりと自覚して、人生を喜んで積極的に生き、敵対する者たちの前でも自由に堂々と歩むことができるのです。それらは全て、主イエス・キリストを信じる信仰を告白し、主イエスを証しする者に与えられる恵みです。主イエス・キリストは、ご自身がまことの神であり、神の「言」であられるのに、肉となってこの世に来て下さった方です。その主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さり、復活によって、私たちが死を超えた永遠の命に生きる者とされるための道を拓いて下さいました。この主イエスを信じてその救いにあずかり、主イエスの下で、主イエスと共に生きるなら、私たちは、洗礼者ヨハネと共に、自分自身のことを喜びをもって語ることによって主イエスを証しし、主イエスを指し示す喜ばしい声として生きることができるのです。祈ります