12/24説教「神はわれらと共に」


はじめに
今日はクリスマスイブの日ですが、多くの教会でクリスマス礼拝が捧げられています。クリスマスは、約二千年前、今と同じように戦いと敵意の真っ只中に、一人の赤ん坊が宿られたことを聖書は伝えています。どのように宿られたのでしょうか。それは、その赤ん坊がこの貧しい肉の体をとって、執り成す者となりこの世界に現れてくださったということです。そのことによって、私のあらゆる罪や咎にもかかわらず、それとともに、困難や不安、試練の中にある者すべてが、その男の子によって担われ、贖われて、主なる神に受け入れられたのです。羊飼いたちのように、この恵みを自分の肌で感じ、この恵みに応えていく決意を新たにする機会が私たちに与えられました。それがクリスマスです。
人間的な栄光とは全く反対の極にある、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスさまと相まみえることで、人間的なつまずきを越えて、主の近き恵みに応えていくことが出来るのでしょうか。聖書は、それが私たちにも出来ることを、生まれてくる男の子の名前を私たちに知らせることを通して示しています。その名は「インマヌエル-神、我らと共にいます」です。

イエス・キリストの系図
マタイによる福音書の冒頭に、つまり新約聖書の冒頭にイエス・キリストの系図という人の名前ばかり並べられている系図が置かれています。そして、今朝の御言葉である1章18節以下には、主イエス・キリストの誕生によって神の救いの御業が始まったことが語られています。しかし、実を申しますと、今朝の新約聖書の御言葉は、この系図の続きなのです。
そしてマタイは、その救いのみ業は実はアブラハムから始まっていたのだと言っているのです。アブラハムに与えられた主なる神の祝福の約束が、その子孫たちへと継承されていって、そしてイエス・キリストの誕生によってついにその約束の成就、実現が始まったのです。つまりこの系図全体が、主イエス・キリストによる神の救いのみ業の始まりを語っているのです。そして、この系図は、主イエスの後にも続いていくことを想定してはいません。主イエスの誕生によって完結しているのです。その系図の最後を飾るイエス・キリストの誕生の次第を語っているのが18節以下なのです。

深刻な出来事
18節後半に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。使徒信条において私たちが毎週告白している「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」という、いわゆる聖霊による処女降誕の奇跡がここに語られているわけです。ルカによる福音書はこのことを母マリアの視点から語っていて、マリアに天使が現れていわゆる受胎告知をするわけですが、マタイ福音書は、マリアの夫ヨセフの視点で語られています。淡々と書かれていますが、ヨセフにとってこれはとても深刻な出来事でした。ヨセフは、婚約者マリアが、自分によってではなく妊娠したことを知らされたのです。それは婚約者マリアへの信頼を失わせる出来事です。二人でこれから家庭を築いていく前提となる信頼が決定的に損なわれ、まだ歩み出してもいない家庭がもう崩壊の危機に陥ったのです。マリア自身は、ヨセフを裏切るようなことはしていません。でもヨセフは、マリアに裏切られたという思いをぬぐい去ることができない。こうして二人の関係は崩れ去ろうとしていたのです。
それでヨセフは決心します。19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。「正しい人」であるヨセフは、マリアへの疑いを持ったままで夫婦となることはできずに、縁を切ろうとしたのです。彼が「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」というところに、ヨセフの精一杯の優しさが見て取れます。当時の掟においては、婚約をしている女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪であり、それを表沙汰にしたら、マリアは死刑になってしまうかもしれないのです。つまりヨセフが「正しい人であった」というのは、ただ間違ったことを嫌い、正義を貫こうとしていたというのではなく、優しさや思いやりを持っていた、ということなのです。しかしそのヨセフの正しさ、優しさ、心の広さをもってしても、表沙汰にせず密かに縁を切ることが精一杯だったのです。

主のみ言葉
20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。苦しんでいたヨセフのもとに、主の天使が夢に現れて語りかけたのです。天使は彼に、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言いました。そして、マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだと告げ、生まれてくる子をイエスと名付けなさいと命じたのです。つまり主なる神は、マリアはあなたを裏切ったのではなくて聖霊によって身ごもったのだ、だから安心して彼女を妻として迎え入れ、生まれてくる子どもにイエスと名づけなさい、とお命じになったのです。イエスという名前は「神は救い」という意味です。だから「この子は自分の民を罪から救うからである」と語られているのです。マリアが生む子は、神の民を救う救い主となる、救い主に相応しいイエスという名前をあなたがその子につけなさい、と主はヨセフに命じたのです。

ヨセフの信仰の決断
この主なる神の言葉を聞いたヨセフはどうしたでしょうか。彼は、私にはそんなことをする義務も責任もありません、と言って断ることもできました。しかし24、25節で「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」とあります。つまりヨセフは主なる神の御言葉の通りにしたのです。このヨセフの、主の御言葉を信じて、それに従う決断と行動のおかげで、主イエス・キリストは、無事にこの世に生まれてくることができたし、イエスという名をもって成長していくことができたのです。
このことには大きな意味があります。このヨセフの信仰の決断と行動によって、あのアブラハムから始まりダビデを経てイエス・キリストに至る系図が繋がったのです。つまりこの系図は、アブラハムからダビデを経て、マリアの夫ヨセフに至る系図なのです。しかし主イエス・キリストは、今朝の箇所にも語られており、使徒信条にもあるように、「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と定められているように、マリアが、ヨセフによらずに、聖霊によって身ごもって生んだ子です。主イエスはヨセフによってではなく、聖霊によって生まれたのです。だったら、ヨセフに至るこの系図を「イエス・キリストの系図」と呼ぶのはおかしい、ということになります。しかしマタイによる福音書は、これが「イエス・キリストの系図」であると言っています。そう言うことができるのは、ヨセフが、主の御言葉に従ってマリアを妻として迎え入れ、マリアの生んだ子を自分の子として受け入れ、その父となったからです。彼のこの信仰の決断によってこそ、この系図は主イエス・キリストに繋がったのです。今朝の箇所はその事情を語っています。アブラハムから始まり、ダビデ王を経て受け継がれてきた神の祝福の約束を実現する救い主としてお生まれになったことは、このヨセフの信仰の決断によってこそ実現したのです。またそれによって、救い主メシアはダビデ王の子孫として生まれる、という旧約聖書の預言も成就したのです。

インマヌエル
またこのヨセフの決断によって、旧約聖書に語られていた救いの預言が実現したのだとマタイは語っているのです。その預言とは23節の、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉です。それは今朝、共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第7章14節にある言葉です。インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味です。主なる神が共にいて下さる、そのことが、おとめマリアが主イエスを生むことによって、つまりヨセフの信仰の決断によって実現したのです。
天使のお告げによってヨセフは、共におられる神の語りかけを聞いたのです。「私の独り子をあなたに委ねる、あなたがマリアを受け入れてくれなければ、聖霊によって宿ったこの子は生きていくことができないし、救い主としての業を行うことはできない、だからこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父になって欲しい。そのための苦しみを引き受けて欲しい」、そのように神が語りかけておられる御声を聞いたのです。神の独り子の運命を、この自分に委ねておられる、神がそのようにして自分と共におられることをヨセフは知ったのです。インマヌエルとはそういうことです。「神は我々と共におられる」ということを、「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けて下さる」とだけ思っているうちは、インマヌエルは分からないのだと思います。神は、御言葉を信じてそれに従って生きるという私たちの信仰の決断を求め、期待し、待っておられるのです。その期待に応えて御言葉を信じて生きていく時にこそ、神が共におられることが分かっていくのです。

「あしあと」という詩
「あしあと」という詩をご存じの方もおられると思います。マーガレット・F・パワーズとい
うアメリカ人女性が書いたFootprints(フットプリンツ)という詩です。 こういう詩です。
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

自分の人生の歩みを、海辺の砂の上の足跡として振り返る、そういう夢を見た、という詩で
す。最初のうちは、自分の足跡と、主イエスの足跡と、二組の足跡が並んでいる。ところがある所から足跡は一組になっている。しかもそれは自分の人生の危機の時だった。「主よ、あの危機の時にあなたはどうして共にいて下さらなかったのですか」と問いかけると、主は、「いや、あそこから先は、私があなたを背負って歩いていたのだ」とお答えになる、という詩です。この詩は確かに、「神は我々と共におられる」というインマヌエルの恵みの一面をよく表しています。私たちは、自分の足で歩いているつもりでいても、実は共にいて下さる主イエスに背負われてい
る、神の力に支えられているということがあるのです。しかし、このことだけでは、インマヌエ
ルの恵みの一面しか捉えることができていないと言わなければならないでしょう。神は時として
私たちに、自分を背負ってくれとおっしゃるのです。あなたが背負ってくれなければ、この先一
歩も進むことができない、重いだろうけれども、つらいだろうけれども、私を背負って歩いて欲
しい、とおっしゃるのです。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、それに応えて、幼子イエス・キリストとその母マリアを背負ったのです。そのことによってヨセフは、共にいて下さる
神を知ることができたのです。インマヌエルの恵みを本当に味わうことができたのです。
主イエス・キリストがこの世に一人の人間として生まれて下さったことによって、インマヌ
エル、神は我々と共におられる、という恵みが実現しました。私たちがその恵みを本当に味わい
知ることができるのは、それぞれが負っている様々な悩み苦しみの現実の中で、神のみ言葉を聞
くことによってです。しかも神は私たちに、私の業の一端を担ってくれとおっしゃるのです。私
のために重荷を負ってくれとおっしゃるのです。私たちの信仰の決断と行動に、ご自身を委ねて
下さるのです。その御言葉に応えて、主を信じ主に従って歩み出していく時に、インマヌエル、
神が共にいて下さるという恵みが本当に私たちの現実となっていくのです。我々と共にいて下さる御子が世に来た、そのクリスマスを私たちは心から喜びましょう。祈ります。

TOP