1/28説教「権威ある言葉」

主イエスの伝道開始
今朝の新約聖書の箇所は、ルカによる福音書4章31~37節で、先週の続きの箇所です。今年はルカによる福音書から聴いてゆきたいと思っています。先週読んだこの4章16節以下の所に既に、主イエスがお育ちになったナザレの会堂で教えを語られた時のことが語られていました。その23節後半に、ナザレの人々が、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」という思いを持っていたことが示されていました。主イエスは既に同じガリラヤ地方の町カファルナウムで伝道を始めておられたのです。その様子が今朝の31節以下に語られていると言えるでしょう。カファルナウムの町は、ガリラヤ湖畔の西北にある町で、今もそこにあった会堂の遺跡が残っているようです。主イエスはこの町をたいへん愛されたのです。ガリラヤで伝道を開始され、その拠点とも言える町でありました。伝道の旅でお疲れになると、折ある毎に帰ってこられた町です。先週読んだ30節までで学んだように、主イエスは、ご自分の故郷のナザレの町では、結局、故郷の人々に歓迎されなかったのです。会堂での説教の後、人々の突き落とそうとする殺意の中を通り抜けて主イエスは、カファルナウムの町へと戻ってこられました。この31節以下に記されていることは、カファルナウムでなされたことです。37節に「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」と書かれていますから、カファルナウムにおける礼拝はナザレにおける会堂でのこととは違って、豊かな実りを得ていたと思われます。もちろんカファルナウムにもシナゴーグと呼ばれる会堂がありました。この会堂は、もう少し後の第7章5節が伝える言葉によれば、カファルナウムにおりました信仰篤い百人隊長が自ら寄進して建てたと伝えられています。現在残っている会堂の遺跡は、この百人隊長の建てた会堂ではなく、後の時代に建てられたもののようですが、その遺跡が残っているということは、素晴らしいことで、もし、その場に立つならば、きっと主イエスの語りかける姿を彷彿とさせるのではないでしょうか。私は行ったことはありませんが、主イエスがカファルナウムの人たちを愛して礼拝した会堂の遺跡に立ってみたいと思います。ところで、この大磯教会もガリラヤ湖の湖畔ではありませんが、相模湾に面した海辺の教会です。あの湖畔のカファルナウムの教会に似た教会へと私たちの礼拝が変えられることを願わずにはおられません。礼拝の中心にイエス・キリストがおられる教会。あの時、あそこで起こったことが今ここで起きるようになればと思い、そうして頂きたいと願わずにはおられません。

主がおられる礼拝
信仰者の生活は礼拝を中心にした生活です。教会にも様々な集会があるのですが、教会のいかなる集会よりも盛んな集会は礼拝です。今朝も私たちは主なる神を拝む、礼拝するために集まっているのです。御言葉の解き明かしを聴き、賛美歌を歌い、祈り、献金を献げるわけですが、礼拝の中心におられる主なる神を礼拝するのです。聖日礼拝だけではありません。墓前礼拝でも、キャンプでの礼拝でも結婚式でも葬儀式でも礼拝です、聖書が読まれ聖書の説き証しがあり賛美歌を歌います。そこに主が臨在されることが必要なのです。しかし、主なる神に礼拝を献げる教会も様々な問題が発生します。初代教会に多くの問題が発生し、使徒たちも苦悩し、パウロも伝道した多くの教会に手紙を送って戒め、励まし、慰めたように、現在の教会にも多くの過ちがあるのです。教会の中で争いがあったり、御言葉が間違って解き明かされたり、権力が支配したり、人間関係で衝突したり、金銭問題が起きたりもします。いきいきした思いや喜びが与えられないもどかしさもあります。悲しみを味わうことがないわけではありません。その悲しみが深くなると他の教会を訪ねることもあります。そこで尋ね求めているのが、このカファルナウムの礼拝であるとも言えましょう。私たちも本当の礼拝がしたいのです。本当の礼拝とは何なのか。そこに生きておられる主イエスがおられる礼拝です。それがわかる礼拝をするということです。カファルナウムの人々はその幸いを体験することができたのです。それだけに私たちは、この箇所の単純な記事を読む時に、飢え渇く思いを抱かずにはおれません。どうぞ主よ、ここに来ていただきたい。その思いを持って、この最初の主イエスと共にある礼拝の姿に心を留めたいと思います。

権威ある言葉
このカファルナウムにおける礼拝はまことに力あるものでありました。いのちに溢れるものであったと思われます。この時人々の心を動かしたものは、ただ主イエスがそこにおられるというだけではありませんでした。主イエスがそこにおられるということにまさって、ここに集まった人々の心を動かしたのは、主イエスがお語りになった言葉なのです。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」(32節)とあります。
私たちはここから、伝道の本質を示され、そこで何が伝えられ、どのようなことが起るのかを知らされるのです。今朝の箇所においてそれをはっきりと語っているのは、この32節です。主イエスは、権威ある言葉を語られたのです。その言葉を聞いた人々は非常に驚いたのです。伝道とは、主イエスの権威ある言葉が語られることであり、それによって人々が非常に驚く、ということが起るのです。しかし、権威ある言葉とはどのような言葉なのでしょうか。私たちは通常、その分野における専門家、学者の言葉には権威がある、と思っています。その事柄についてよく知っており、深い知識がある人の言葉を、権威ある言葉と言うのです。しかし、主イエスの言葉に権威があったというのは、それとは全く違うことです。そのことをよりはっきりと語っているのは、マタイによる福音書の第7章28、29節です。7章の一番最後です。(新約聖書12ページです)そこを読んでみます。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。ここにも、主イエスの教えを聞いた人々が非常に驚いたことが語られています。それは主イエスが「権威ある者」としてお教えになったからです。そこに、「彼らの律法学者のようにではなく」とあります。主イエスの権威と学者の権威との違いがここに示されているのです。律法についての広く深い知識によっていろいろな疑問に答えてくれるのが律法学者です。そういう意味で律法学者たちの教えには専門家としての権威があったのです。しかし主イエスの言葉の権威は、それとは全く違うものでした。36節で人々は驚いてこう言ったのです。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。つまり、主イエスの言葉の権威とは、汚れた霊に命じると、汚れた霊もそれに従って出ていく、そういう力です。主イエスの言葉の権威は、律法の知識に基づくのではなくて、汚れた霊を追い出す力に基づいているのです。

深い淵の底から
今朝の旧約聖書の御言葉は、詩編130編1節から8節です。本詩は、繊細な感受性と単純で誠実な言葉、それに罪と恵みの本質についての最も深い理解とを合わせ持っている詩編です。讃美歌21の22番マルティン・ルター作「深き悩みより、われはみ名を呼ぶ」という悔い改めの歌のもとになった詩編です。
ルターは確かな宗教的感受性をもって、この詩の中に新約聖書の敬虔の精神に近いものを認め、この詩を最高の詩としてパウロ的な詩の一つに数えたと言われます。讃美歌21ではルターの歌詞に異なる旋律をつけて2曲収録しています。22番と160番です。
本詩の1~6節は個人の叫びのようであるのに対して、7節以下はイスラエル全体に対し神に信頼するようにと歌っています。キリスト教の伝統の中においては、懺悔の詩編として用いられていますが、この詩の全体の調子は罪に対する神の厳しい審判よりはむしろその寛大な赦しが強く出ており、そこからくる希望が強調されていると言われています。1節の「深い淵の底」というのは、海の深みであって、危険と苦悩の象徴をあらわし、あるいは底の知れないほど深い淵を意味しています。この詩人にとってその苦悩は罪の不安であるのか、病気であるのかは分かりませんが、底知れぬ淵の中から詩人を救い出す者はただ神(ヤハウェ)のみであることを詩人は知っているのです。それゆえ詩人は
「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(2節)と歌うのです。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。」(3節)
「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」(4節)
心の中の不義、これはまさに罪です。外部からの悩み困難も苦しいが、心の中の罪の悩みはもっと苦しく、深い淵の底から攻めるのです。あなたが罪をすべて心に留められるならば、とても耐えられませんと、わたしの罪を赦し給うのは主なる神しかいないのです。あなたを畏れ敬います。とこの詩人は訴えているのです。5節から後半は、希望です。詩人は神がそのみ言葉に従い、救いを与えてくださるように、希望と期待をもって待つと歌っています。
「わたしは主に望みをおき / わたしの魂は望みをおき / 御言葉を待ち望みます。」(5節)
「わたしの魂は主を待ち望みます / 見張りが朝を待つにもまして / 見張りが朝を待つにもまして。」(6節)

悪霊の仕業
彼は主イエスに対して、「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」と言っています。この「かまわないでくれ」は前の口語訳聖書では「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」と訳されていました。悪霊は主イエスに、お前と我々は関係ない、だから我々のところに首を突っ込むな、と言っているのです。イエス・キリストと自分とは関係ない、イエスなどに自分の生活や問題に首をつっこまれたくない、自分は自分だけでやっていきたいのだ、そのようにこの人に思わせ、語らせているのが悪霊です。そのようにして悪霊は、主イエスの救いが、解放と自由とを与える福音が、この人に及ぶことを妨げようとしているのです。悪霊とはどのようなものか、サタン、悪魔と呼ばれているものとどう違うのか、という疑問が聖書を読んでいると起りますが、サタンも悪霊もすることは一つです。私たち人間を、神の救いから、主イエスの権威ある言葉による解放、自由から遠ざけ、いつまでも支配下に置こうとしているのです。しかも、悪霊に捕らえられているなどとは思わせないで、自分は自由に自分の思いによって歩み、自分の言葉を語っているのだと思わせておいて、実は悪霊の言葉しか語ることができなくしている、それがサタンや悪霊の手口です。そういう悪霊が、昔も今も変わらずに私たちを付け狙っているのではないでしょうか。この悪霊に捕らえられることによって私たちは、主イエスによる救いから遠ざかり、福音を福音として、つまり喜ばしい解放の知らせとして受け止めることができなくなってしまうのです。
主イエスの言葉には、神の支配の権威が宿っているのです。この力にいちばん敏感だったのは悪霊でありました。だから悪霊につかれた人々が叫び出さずにはおられなかったのです。「汚れた霊」とは、神の支配に逆らう力ということです。神の御心に添わない力です。神の支配が始まろうとすると抵抗する力です。荒野で主イエスを誘惑したあの悪魔の力です。そういう、神の御心に逆らう力があって、それが人間を支配しようとする。暗いところに引きずり込もうとするのです。そのように考えるのは、過ぎ去った過去の話ということでしょうか。現代の人間はもっと科学的に考えている。わけの分からない力なのは信じない。悪魔の力から自由である。しかし、私たちの誰がそう言えるでしょうか。それはウクライナやガザの侵略を正当化する勢力かもしれません。あるいは日本国内において、パーティーの名で政治資金を集め、悪用して私的に使ってしまう悪魔のささやきかもしれません。汚れた悪霊は「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのかと敏感に反応するのです。どこで人間があらゆる悪の力から自由になっているといえるのでしょうか。自分ひとりの生活を考えてみても、家庭内の小さなトラブルが起きるたびに、私たちは自分がどんなに非力であるかを認めざるを得ないのです。明日一日何が起こるか分からないような不安が私たちを捉えるのです。神に対抗している汚れた霊の力が、最も敏感に主イエスが自分の強敵であることを感じ取ったのです。「ナザレのイエス、かまわなでくれ」と。
カファルナウムの礼拝がほんとうの礼拝になったのは、神そのものがそこにおられて、汚れた霊につかれた人々を戦慄させる力を持っておられたことによります。「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」(35節)とあります。礼拝の会衆の中で、この人は打ち倒され、しかもかすり傷ひとつ負うことはなかったのです。主イエスが守ってくださったからです。
礼拝において
私たちは今、主イエスの権威ある言葉を聞くために礼拝に集っています。その言葉は、礼拝がどんなに整然と厳粛に行われてもそれで聞けるわけではありません。あるいは牧師がどんなによく準備された分かりやすい説教をしてもそれで聞けるわけではありません。この場に、主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって臨んで下さり、主イエスご自身が語りかけて下さることによってこそ、権威ある言葉を聞くことができるのです。悪霊を追い出すことができるのは、聖霊の力のみです。主イエスは聖霊の力に満たされて伝道を開始されたということをこの福音書は繰り返し語っています。主イエスはその聖霊の力によって悪霊に打ち勝ち、捕らわれている人々を解放して下さったのです。その主イエスが今、同じ聖霊の力によって、この礼拝に共にいて下さいます。そして聖霊の力によって、私たちを解放し、自由を与える権威ある言葉を語りかけて下さるのです。本年も私たちは、この礼拝において、聖霊のお働きの中で、主イエスの権威ある言葉を聞き続けたいと思います。そのことの中でこそ、伝道がなされていくのです。お祈りします。

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