言い争う弟子たち
受難節第二主日の今朝の聖書箇所は、ルカによる福音書22章24節から38節までです。ここには、最後の晩餐の席で、弟子たちの間に、ある議論が起こったことが語られています。それは、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論であったと著者ルカは記しています。何とも子供じみた議論かと思うのですが、それは笑ってはおれない私たちの問題でもあるのです。実は、この議論は、もう一つの議論、あるいは言い争いとつながっているのです。そのもう一つの議論とは、21、22節で主イエスがお語りになった次の言葉、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。この主イエスがお語りになった言葉を聞いた弟子たちの間に、「裏切る者とは誰のことだろうか」という議論が生じたのではないか。その議論がいつしか「自分たちのうちで誰がいちばん偉いか」となっていったと推測することができるのです。
人を批判し、あの人は駄目だ、失格だ、などと言っているのは、結局は、自分の方が偉いのだ、とお互いが主張して言い争っているのと同じことなのだということを教えているのです。つまり、このような言い争いの根底には、自分が相応しくないと思う人を受け入れようとしない思いがあるのです。ですからこのような争いを乗り越えて、よい関係を築くために必要なのは、子供に代表される弱く小さい者、相応しくない、と思われる者を受け入れることなのだと主イエスは言っているのです。主イエスはまさにそのように、弱い者、貧しい者、罪人を受け入れて友となって下さいました。
使徒たちのための教え
主イエスは弟子たちの言い争いを見て、26節で「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と弟子たちに教えています。ここで主イエスは、偉い人、上に立つ人になることを否定しているのではなく、いずれ弟子たちがそのような立場になることを前提として語っておられるのです。ルカが24節で、弟子たちのことを「使徒たち」と呼んでいることに注目しなければなりません。使徒というのは、先週の説教でも語ったのですが、「遣わされた者」という意味です。彼らがその名で呼ばれているのは、主イエスの十字架と復活を経た後、使徒たちが伝道へと遣わされ、初代の教会の指導者となって行ったことを意識しているからです。つまりここでは、後の教会の指導者となった人々としての弟子たちが見つめられているのです。主イエスは彼らを戒め、使徒たる者はどのように歩むべきかを教えて下さったのです。
主イエスがここで彼らにお教えになったのは、異邦人の王や権力者、つまりローマ人のあり方と教会の指導者である使徒のあり方の違いということです。王や権力者は、民を支配し、権力を振るい、そのことで「守護者」と呼ばれています。しかし教会の指導者である使徒はそうであってはならないと言っているのです。むしろ「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われているとおりです。支配し、権力を振るうのではなくて、仕える者となること、それこそが教会における、上に立つ人のあり方なのです。
ところで、主イエスが言われた、この「仕える者になる」ということの内容をさらに明確にするために、27節では「食事の席に着く人と給仕する者」というたとえが用いられています。食事をする者の方が、給仕をする召し使いよりも立場は上なわけです。そして大事なことは、主イエスが、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言っておられることです。主イエスご自身が、弟子たちの中で、支配し、権力を振るう者のようにではなく、仕える者、給仕する者として歩んで下さっているのです。それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。そこで大事な意味を持ってくるのが、この場面は、ユダヤ最大の解放を記念する祭り、最後の晩餐における話だ、ということです。その食事は、「過越の食事」でした。それは「過越」の出来事によって解放され、自由を得ることができたことを記念してこの食事はなされているのです。主イエスは、十字架の死の前の晩に、弟子たちとこの過越の食事の席に着かれたのです。しかも22章7節以下には、主イエスご自身の命令によってこの食事の席が用意されたことが語られています。つまりこの「最後の晩餐」は、主イエスが整えて弟子たちを招き、席に着かせて下さった過越の食事だったのです。つまり主イエスが弟子たちに給仕をして下さり、特別な意味を持つ発酵してないパンと杯を振舞って下さったのです。
十字架の死の意味
主イエスはこのように、最後の晩餐において、具体的に、弟子たちのために食卓を整え、給仕をして下さいました。弟子たちに仕える者となって下さったのです。また、ヨハネによる福音書が伝える最後の晩餐の場面で語っているのは、主イエスが弟子たちの足を洗って下さったということです。つまり、四つの福音書はどれも、最後の晩餐において弟子たちに仕えて下さった主イエスのお姿を語っているのです。それは、まさにそこにこそ、主イエスの十字架の死の意味があるからです。主イエスが十字架にかかって死なれたのは、弟子たちに、そして私たちに仕えて下さるためでした。主イエスは、私たちの罪を全て背負って、その赦しのために十字架の上で死んで下さったのです。私たちに仕えて下さったことによって、私たちは罪を赦され、罪の奴隷状態から解放されるという救いにあずかったのです。主イエスはこのように、弟子たちに給仕し、その足を洗うことによって、ご自身の十字架の死の意味を示して下さったのです。
食卓を整えて下さる
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の箇所として、詩編第23編を読みました。この詩編は、主なる神がまことの羊飼いとして私たちを養い、育み、守って下さることを歌っている詩です。その5節には、羊飼いである主が、わたしを苦しめる者を前にしても、「わたしに食卓を整えてくださる」とあります。また「わたしの杯を溢れさせてくださる」ともあります。2節の「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」も同じことを語っていると言えるでしょう。羊飼いである主は、私のために食卓を整え、杯を満たし、食物と飲み水を豊かに備えて下さるのです。それが良い羊飼いである主なる神のお姿だ、とこの詩は歌っているのです。主イエス・キリストは、まさにこの詩に歌われている良い羊飼いとしてのみ業を、十字架にかかって死んで下さることによって私たちのために成し遂げて下さったのです。この詩編23編が好きな方は多いと思います。それは救いの、いつくしみ深い恵みを語っているからです。教会において上に立つ人は、主イエスに倣って、仕える者、給仕する者となることを教えているのです。そのための備えを、主イエスはこの最後の晩餐において弟子たちにして下さったのです。教会に連なる信仰者たちは、それぞれに与えられた賜物を用いて主なる神と教会とに仕え、奉仕していくために、そして教会が奉仕に生きる群れとして整えられていくために、全ての信仰者は仕える者として生きるのです。神と隣人とに仕えて生きることは私たちの信仰の基本なのです。
最晩年まで人は成長する
今日、皆さんの週報棚にお入れしてありますが、『西湘南地区報23号』という機関紙に、昨年11月19日に地区信徒研修会で講師の石丸昌彦というクリスチャンの精神科医が講演した、数名の方の感想がそこに載っています。是非お読み下さい。幾つか共感する文章が載っていたので紹介します。茅ヶ崎南湖教会の秋間牧師さんの文章です。
人は、高齢化に伴って次第に体も気力も衰えてくるのは致し方ありません。「記憶力、計算力などは、相当早くから衰えます。しかし、総合的な判断、人の心への理解と共感、創造性を司る働きは、最晩年まで成長するといいます。『老年的超越』と呼ばれる宇宙的、超越的、非合理的な世界観への変化が高まるといい、死生観にも変化を与え、死と生を区別する認識が弱くなり、死の恐怖が薄れていくといいます、これは、信仰の成熟とも言えるものです。」
これは、ある意味、体の劣化によって痛みや恐怖が減るということかもせれませんが、矢張り神の恵でしょう。秋間牧師は「信仰の成熟」という言い方をしています。また、こうも言っています。
「高齢になると、一人でいる時間が長くなりますが、親しい人々と内的に結ばれていることで「孤独」に陥らないといいます。その点からも教会の存在は大切で、会えない時も同心の友が居て、霊の交わりは続いていることを忘れないでいただきたいと願います。」
先ほど言いましたように、信仰者たちは、それぞれに与えられた賜物を用いて主なる神と教会とに仕え、奉仕していくために、それぞれができる範囲で、喜んでできる範囲で主に仕えていけばいいと思います。全ての信仰者は仕える者として生きるのです。
サタンのふるい
さて、31節からのところは、ペトロが主イエスを三度否認する場面です。主イエスは、シモン・ペトロ一人に向けて、語りかけておられます。「シモン、シモン」と二度繰り返し彼の名を呼んでおられます。ここでシモンに対して主イエスがお示しになったのは、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」ということでした。「サタン」はこの福音書の第4章に出てくる、主イエスを荒れ野で誘惑した「悪魔」と同じ存在であると考えてよいでしょう。その悪魔、サタンが再び登場して来るのが、この22章の3節です。そこには、十二人の弟子の一人であるイスカリオテのユダの中にサタンが入った、とあります。一時、主イエスを離れていたサタンが、いよいよ時が来たとばかりに活動を開始したのです。それによってユダの裏切りが起り、主イエスの逮捕と十字架の死が目前に迫っているのです。そのサタンが、あなたがたを小麦のようにふるいにかけようとしている、と主イエスは言っておられます。ふるいにかけるとは、必要なものとそうでないものとをはっきりさせることです。サタンがそのようにシモンをふるいにかけようとしているというわけですが、「あなたがたを」と言っておられるわけですから、シモンだけでなく全ての弟子たちもふるいにかけられようとしているのです。そのふるい分け、選別は試練によってなされます。主イエスが捕えられ、十字架につけられ、自分の身にも危険が及ぶという試練に直面する時に、弟子たちの信仰は試され、本物か偽物かが明らかになるのです。サタンはそういう試練を弟子たちに与えようとしているのです。
信仰の試練と挫折
サタンはこのように、試練を与えることによって、信仰深いように見える人間の心の奥底にある罪や弱さ、自己中心的な思いなどを明るみに出して、ほらみろ、人間はこんなに罪深いではないか、神を信じているなどと言っても、そんなの見せかけの偽りに過ぎないのだ、ということを示すことによって、私たちを神の救いの恵みから引き離そうとしているのです。その結果は目に見えています。この試練に打ち勝って、弟子としての歩みを全うできた者は、まさにペトロを筆頭に、一人もいなかったのです。彼らは皆、主イエスに従う信仰において、挫折し、自分が不合格な者であることを思い知らされていったのです。私たちのこの世の歩みには様々な苦しみや悲しみがあり、どうしても説明のつかない、いわゆる不条理があります。私たちはそれらによってふるいにかけられ、信仰を試されます。それらはサタンによる試みです。しかしこのみ言葉が示そうとしているのは、そのサタンの試みも、主なる神のみ手の外で起っているのではない、試練においても、私たちを最終的に支配し導いて下さる恵みの神がおられるのだ、ということです。そのことを信じることによって私たちは、試練の中で、そこにもなお働いている神のみ心を求めていくことができるのです。それは苦しいことだし、簡単に答えが得られるようなものでもないでしょう。けれどもそのように苦しみの中にも神のみ心を求めていくことによってこそ、苦しみは意味を持つものとなっていくのです。このサタンによる試練も神のみ手の下にあるという教えは大いなる恵みなのです。「サタンがあなたがたをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」という御言葉は、「そんなことするなんて神はひどい」ということにつながるのではなくて、むしろ苦しみ、試練の中にある私たちに希望を与える御言葉なのです。祈ります