3/17説教「バラバとイエス」

はじめに

今朝は受難節の第5主日で、3月31日がイースタ礼拝ということになります。昨年のイースターは4月9日でしたから同じ年度内にイースターが2回あるという珍しい年度です。ちょうど今年度の最期の日でもありますが、主のご復活を祝い食事をしながら懇談する会になりますから、ぜひ出席していただけたらと思います。

さて今朝の聖書の箇所は、主イエスがヘロデの尋問を受けた後、ポンテオピラトの下に送られ、そこで訊問を受けたことが記されています。早速、御言葉の恵みに与りたいと思います。

 

エスではなくバラバを

ローマ総督ピラトは、祭司長たちと議員たち、つまりサンヘドリンという議会の議員たちと民衆とを呼び集めて、こう言ったと記されています。「あなたたちは、この男を、民衆をまどわす者としてわたしのところに連れてきたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。そして、あなたたちの王であるヘロデ王も調べたが同じで、私のところに送り返してきた。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

ところで、16節の終わりに十字架のような印があり、17節が抜けていることに気が付いた方もおられると思います。この印は、今読んでいる書物の終った後のところ、つまりルカによる福音書なら162ページを見なさい、という意味です。そこを開いてみますと、「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とあって、一番最後のところに、23の17とあります。これは23章17節ということですが、この言葉は以前には入っていたけれど、後から付け加えられたと判断されて今では外された言葉なのです。「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」という言葉が以前には入っていたのです。18節の「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ。」という理由を理解するには必要な言葉なのです。なぜ、民衆がそのように叫んだかを理解するには必要な言葉です。「祭り」というのは過越祭のことですが、その時に総督ピラトはユダヤ人の囚人一人に恩赦を与え、釈放するならわしとなっていたのです。このならわしをバラバに適用するように人々は要求したのです。ルカ福音書のこの語り方ですと、ピラトの思いとユダヤ人たちの思いとの間にはずれがあることになります。つまりピラトは、主イエスが無罪だから釈放しようとしたのに対して、ユダヤ人たちは、ピラトが過越祭における恩赦をイエスに適用しようとしていると考え、イエスではなくバラバを釈放するように要求したのです。祭司長や議員だけでなく、民衆が「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだのです。その「民衆」はしかし、つい数日前までは、19章48節にあったように、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」その人々です。だから祭司長、律法学者ら民の指導者たちも迂闊に主イエスに手を出せなかったのです。その民衆が今、イエスではなくバラバを釈放しろと叫んでいるのです。民衆は、暴動と殺人で捕えられていたバラバが生きることを求め、主イエスが十字架にかけられて殺されることを求めた、ということです。

人々の声によって
ピラトはそれでもなお、主イエスを釈放しようとして彼らに呼びかけます。しかし人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです。ところで、十字架による処刑というのは、ユダヤ人たちの間にはなかったことです。これはローマの、しかも奴隷などの身分の低い人を処刑するときのやり方です。主イエスがその十字架につけられることを要求したのがユダヤ人の民衆だったことは注目すべきことです。ピラトはなおも主イエスを釈放しようと努力します。三度目に、民衆に語りかけるのです。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。しかしピラトのこの呼びかけは民衆の叫びにかき消されてしまいます。23節にあるように、「人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた」のです。「その声はますます強くなった」とあります。ピラトの呼びかけは、「十字架につけろ、十字架につけろ」という人々の叫び声の前で無力でした。24節で、ついにピラトは「彼らの要求をいれる決定を下しました。25節「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」のです。バラバが「暴動と殺人のかどで投獄されていた」者であることをルカはもう一度語り、強調しています。そういう者が釈放され、主イエスは十字架につけられたのです。ピラトが主イエスを「彼らに引き渡して、好きなようにさせた」となっていますが、それはユダヤ人たちの要求の通りにした、ということであって、ローマの総督ポンティオ・ピラトの権威の下で十字架につけられ、処刑されたのです。ローマの総督ピラトが無罪放免にしようとしたのを、ユダヤ人の民衆が「十字架につけろ」と要求し、その声によって主イエスの十字架刑が決定したのです。そしてそれと共に暴動と殺人によって投獄されていたバラバが釈放されたのです。

 

私たちも問われている

民衆の声によって主イエスの十字架が決定した、ということをどう受け止めるかが私たちに問われています。主イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ、だからユダヤ人はけしからん、という思いを抱き、ユダヤ人への憎しみを募らせるというのは、この聖書の記述の受け止め方を全く間違ってしまっているということです。そういう間違いを、過去のキリスト教は犯して来ました。それがナチスによるあの大量虐殺の温床となった、ということを私たちはわきまえなければなりません。それではこの箇所をどのように受け止めるべきなのでしょうか。聖書においてユダヤ人とは、主なる神様によって選ばれ、神の民とされた人々です。神様の救いの歴史を担ってきた民、主なる神様と共に生きてきた人々です。信仰者の群れと言い換えることもできます。そして救い主イエス・キリストが来られたことによって、その神の民は今や、主イエスを信じる信仰に生きる者たちの群れである教会に受け継がれています。私たちも、洗礼を受けて教会に加えられることによって神の民の一員とされるのです。ユダヤ人が神の民とされたのもそれと同じ恵みによってでした。ですから聖書が「ユダヤ人」と語るところに、私たちは自分自身を置いて読まなければならないのです。ユダヤ人の民衆とは私たちのことなのです。つまり私たちはここで、あなたがた自身がこの民衆と同じことをしているのではないか、という神様からの問いかけを受けているのです。しかもそれは、私たちが主イエスやその父なる神を知らなかった過去の話ではありません。主イエスを信じる信仰を言い表し、洗礼を受けて教会に加えられ、神の民とされたはずの今、まさにそのような罪に陥っている自分の姿に気付かされるのです。信仰を与えられ、神の民とされることによってこそ、私たちは自分の罪に気付き、自分が主イエスを十字架につけろと叫んでいる者だということを示されるのです。自分こそこのユダヤ人の民衆である、ということを見つめることこそが、この箇所の正しい読み方なのです。

「主の僕」の姿が主の十字架の救い

今朝の旧約聖書の御言葉は、イザヤ書第53章1節から10節までです。主の僕の苦難と死を歌っていますが、ここには、見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、打ち砕かれ、死んだ「主の僕」の姿が語られています。そのように苦しみの内に死んでいったこの人を、私たちは軽蔑し、無視していた、また、彼は神の手にかかって打たれ、苦しんでいるのだ、つまり神に呪われているのだと思っていた、とも語られています。つまり私たち自身が、この人を排斥し、軽蔑し、苦しめていたのです。しかし実はこの人は、私たちの病を担い、私たちの痛みを背負い、私たちの背きの罪のために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれたのです。この人の苦しみと、神に呪われたように思える死は、実は私たちの罪のゆえであり、私たちが受けるべき苦しみと神に呪われた死を、代って引き受けて下さったのです。この人が私たちの罪を背負い、自らをなげうち、罪人の一人に数えられて死んで下さることによって、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをして下さったおかげで、私たちに平和と癒しが、そして罪の赦しが与えられたのです。私たちはこのイザヤ書の「主の僕の歌」に、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死による救いの恵みの預言、予告を見ます。父なる神は、この主の僕として、独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。主イエス・キリストの十字架の死に、この預言の成就、実現を見、そこに救いがあることを信じるのがキリスト教会の信仰です。今朝の場面で、主イエスを殺せ、十字架につけろ、と叫んだ民衆と自分とが全く別であるように捉えているならば、

主イエスの十字架による救いは分からないし、それにあずかることはできないのです。主イエス・キリストは、まさにこの私のために、私の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことを見つめていく時に、この主イエスの十字架の処刑の決定と共に、強盗殺人犯だったバラバが赦され、釈放されたことの深い意味も見えてきます。本来十字架につけられて処刑されるはずだったのに、主イエスが十字架にかかって死んで下さったために赦され釈放されたバラバは、まさに私たち自身の姿です。「十字架につけろ」と叫ぶ民衆こそ自分であることを示された者は、自分が主イエスの十字架の死によって赦され、救われたバラバであることをも知ることができるのです。

 

十字架刑の始まり

後半の26節からは、判決が下された総督の官邸から、十字架の処刑が行われた場所、他の福音書によればゴルゴタと呼ばれる所ですが、そこまで主イエスが引かれていったという場面です。十字架の死刑の判決を受けた囚人は、自分が架けられる十字架を担いで処刑場まで歩かなければなりませんでした。また他の福音書には、その前に鞭で打たれたと語られています。鞭打ちによって心身共にへとへとになった身で、なお十字架を担いで歩かされる、十字架の死刑はそこから既に始まっているのです。主イエスが処刑場へと引かれていくこの場面に、何人かの人々が登場しています。一人は「シモンというキレネ人」です。この人は「田舎から出て来た」とありますから、もともとエルサレムに住んでいた人ではありません。何のためにエルサレムに出て来ていたのか分かりませんが、一つの可能性としては、今行われているユダヤ人の最大の祭り、過越祭を祝うために巡礼に来ていたのかもしれません。そしてせっかく来たエルサレムの町をあちこち見て回っているうちに、主イエスが引かれていくところに出くわしたのかもしれません。とにかくたまたまそこにいた彼は、主イエスを引いていく人々、つまりローマの兵士たちによって人々の中から選び出されて、主イエスが担いでいた十字架を背負わされたのです。

福音書記者ルカは、このシモンの姿の中に、主イエスに従う信仰者の姿を見ています。彼は自分から進んで主イエスの十字架を背負ったわけではありません。自分の意志によってではなく、無理矢理背負わされてしまったのです。しかしまさにそこにこそ、ルカが彼の姿に信仰者のあり方を見た理由があると言えると思います。十字架を背負って従おうと自分で決意するのではなくて、主イエスの救いにあずかって生きていく中で、救いの喜びと共に背負うべき十字架が与えられていることを示されていくのです。ですから私たちは誰もがある意味で、自分の意志によってではなく、十字架を背負わされるのです。なぜ自分がこんな十字架を背負わなければならないのか、と思うことがあります。こんなはずではなかった、とさえ思うのです。しかしそこで、その十字架を放り出すのではなくて、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という主イエスのお言葉を聞き、自分でも改めて与えられた十字架を自覚的に背負う者となる、私たちは誰もがそのようにして信仰者となっていくのではないでしょうか。それは、シモンが後にキリスト信者となり、教会の一員となったことを示しています。シモンは、主イエスの十字架を無理矢理に背負わされ、主イエスの後を歩んだ、その体験がきっかけとなり、主イエスの復活の後、信仰者となったのです。本当の意味で、十字架を背負って主イエスに従う者となったのです。そのように彼の人生を変える出会いがここで与えられたのです。

 

自分のためにこそ泣け
さて、シモンと同じように、引かれていく主イエスに従ったと語られている人々、それが民衆と嘆き悲しむ婦人たちです。民衆の方は先ほど申しましたように、自分たちが十字架につけろと要求したイエスの最後を見届けようとしてついて来たのです。しかしその中に、嘆き悲しむ婦人たちがいました。この婦人たちに、主イエスが語りかけたお言葉が本日の箇所の後半、28節から31節です。28節の冒頭に、「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた」とあるように、このお言葉は嘆き悲しみつつ泣いている婦人たちに対して語られたものです。ここで語られていることは単純です。28節の、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」、このことを主イエスは語っておられるのです。ここには、主イエスを信じて従っていく信仰において、主イエスの十字架の苦しみと死とをどのように受け止めるべきかが教えられているということになります。つまり、自分自身の罪をこそそこに見つめるべきものなのです。つまり主イエスの十字架の苦しみと死は、私たち自身の罪を主イエスが全て背負い、引き受けて死んで下さったという出来事なのであって、その悲惨さは私たち自身の罪の結果なのです。主イエスの苦しみに自らの罪をこそ見つめ、その赦しのために主イエスが十字架への道を歩み通して下さったことを見つめ、その主イエスの後ろに従っていくことこそが、主イエスを信じ従っていく信仰者のあり方なのです。祈ります。

 

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