はじめに
今朝は受難週の礼拝です。棕櫚の主日とも言います。英語ではパームサンデーと言います。今週の29日の金曜日がキリストが十字架にお架かりになられた受難日ということになります。そして三日目の31日が復活日、イースターです。したがって今朝私たちに与えられた新約聖書の箇所は、イエス・キリストの十字架の死の場面が記された箇所です。今朝はルカによる福音書から御言葉のメッセージを聞き取りたいと思います。
ところで、十字架と言ったときに皆さんは何を思い浮べるのでしょうか。キリスト教神学から言えば、十字架と復活がキリスト教のカギの言葉と言えるでしょう。重い意味を持った言葉です。カトリックの神父は十字架を首にかけているし、聖公会とか、他のプロテスタントでもしているかもしれません。ギリシャ正教もロシア正教も、ウクライナの神父も独特な衣装で十字架を身に着けていたように記憶しています。戦争を仕掛けている政治家のトップと一緒に十字架を身に着けた神父が仲良くしているのはいかにも違和感を感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。キリストの十字架はそんな華々しいものではないだろう、と思うのですが。いずれにしても十字架がキリスト教のシンボルであることは間違いないでしょう。
話は変わりますが、10年前に大磯教会の会堂の大規模な増改築を行いましたが、その時に、教会として要望を出したことの一つに屋根の上に目立つ尖塔を着けて十字架を着けたいということがあり、それが実現しました。国の有形登録文化財に指定されるについて少し躊躇もありましたが、どうしても実現したいことの一つでした。実現した今見ても、しっくりして教会らしい建物になったと思っています。その時、分かったのですが、教会の十字架の高い尖塔には建築基準法上も制限がないらしいのです。ヨーロッパの長いキリスト教の歴史の中で、空にそびえるような十字架の尖塔の歴史が、教会の十字架の尖塔には建築基準法上も特別の扱いになっているのです。何か誇らしい気持ちになった記憶があります。教会建築の中で、その他にも十字架論争がありました。教会堂には十字架は1本であるべきだとか、幾つあってもいいとか、それも十字架ということにキリスト者は特別な思いを持っているからに違いないのです。では早速、ルカによる福音書からイエス・キリストの十字架上での死の意味とメッセージを聴きましょう。
絶望の中での死
主イエスの死の場面は、当然のことながら四つの福音書全てが語っています。四つの福音書の内、
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、お互いの間にかなり共通する部分があるのですが、主イ
エスの十字架の場面においては、ルカはマタイ、マルコとはかなり違う語り方をしています。マタ イ、 マルコにおいて、主イエスが十字架の上で最後にお語りになったのは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉です。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。マタイとマルコにおいては、主イエスはそう叫んで死んでいかれたのです。しかしルカにおいては、主イエスの最後のお言葉は46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。これはマタイやマルコにはない、ルカが独自に伝えている言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というお言葉は、主イエスが、父である神に見捨てられてしまったという苦しみ、絶望の中で死なれたことを示しています。この言葉は、詩編第22編の最初の言葉です。ちなみに詩編22編2節はこうなっています。
2わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
主イエスはそれを死に臨んで語られたのです。詩編第22編はこのように神に見捨てられた絶望をもって語り始められていますが、最後のところは神への信頼の言葉となっているのですが。
このような絶望の言葉を語っているマタイ、マルコは、主イエスが、罪のゆえに神に見捨てられて死ぬ、その罪人の苦しみと絶望をご自分のものとして体験して下さり、そういう苦しみの中で死なれたことを語っているのだと言うべきだと思います。そしてそれはまさに私たちのためでした。私たちこそ、本来自分の罪のゆえに神に見捨てられ、絶望の内に死ぬしかない者なのです。その私たちの絶望を、主イエスが背負い、引き受けて下さった。そこに私たち罪人のための救いのみ業がある。それゆえに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という最後のお言葉に私たちは、主イエスによる救いの恵みを聞き取ることができるのです。
信頼の中での死
しかし本日ご一緒に読むルカによる福音書にはそのお言葉がありません。その代わりに、「父よ、
わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉が語られているのです。これはどのように捉えたらよいのでしょうか。ルカが伝えている主イエスの最後のお言葉にはとまどいを覚えます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉は、父なる神様を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねている、という感じです。つまり主イエスは、十字架につけられて殺されるという苦しい、悲劇的な死を遂げたけれども、その中でも平安のうちに、安らかに、父なる神に全てを委ねつつ亡くなった、ルカはそう語っているように感じられるのです。そうすると、この主イエスの死は私たちにとってどういう意味を持つのでしょうか。何の罪もない神の子である主イエスが、捕えられ、死刑の判決を受け、十字架という最も残酷な仕方で殺されてしまう、その苦しみや絶望の中でも、父なる神に信頼して平安の内に、自分の魂を父のみ手に委ねて死んでいった、それは私たちにとって模範とすべき姿であるかもしれません。私たちも、自分が死を迎える時に、この主イエスのように、父なる神に心から信頼して自分の霊をお委ねして死んでいければ、それが理想的な死に方だ、そういう死に方ができるようになりたい、という願いを持つことはあるでしょう。けれどもそこで私たちが感じるのは、自分はなかなかそうはなれそうもない、それは神の子である主イエスだからこそできることで、自分はとてもそのような平安や神様への信頼の内に死を迎える自信はない、ということなのではないでしょうか。つまりルカが描いている主イエスの死の姿は、理想的ではあるかもしれないが、罪と弱さの中を生きている私たちにとかけ離れた、そういう意味であまり慰めにならない姿だ、ということにもなるのではないでしょうか。
ところで、ルカによる福音書がこの主エスの最期、死を語りながら、マタイ、マルコ福音書と違った書き方をしているところがあります。たとえば、45節に、「そして聖所の幕がまん中から裂けた」と書いてあります。ちなみにマタイとマルコでは、主イエスが死なれた後で聖所の幕が裂けたと書いてあります。しかし、ルカは主イエスの死に先立って既に聖所の幕が裂けたと書いています。その意味は、さまざまに解釈され、ある人は神を拝む道が絶たれたのだと考える人がいます。あるいは、このようにして神と人を隔てている道がなくなってしまって、誰もが神の前に望みを持って出ることが出来るようになったのだと読む人もあります。いずれにしても、この主イエスが死なれるとき、全地が暗くなったということは確かなようです。
大声で叫んだ主イエス
今朝の旧約聖書の御言葉は、詩編88編2節から19節を読みました。この詩編の作者は、死の国の闇を思う不安は、そこには神の奇跡も届かないのではないかという不安があり、恐れがあります。神に捨てられてしまうのではないかという不安と絶望を歌っています。死の暗闇に信仰は耐えられるのかと歌っています。しかも、詩人はそこで信仰を失ってはいないのです。
4わたしの魂は苦悩を味わい尽くし
命は陰府にのぞんでいます。
5穴に下る者のうちに数えられ
力を失った者とされ・・・・・
・・・・
この詩編を思い起すような暗闇が十字架の主イエスを支配しています。その時主イエスの言葉が聞こえるのです。ルカ福音書23章46節にこう記されています。
46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
死の暗闇の現実の中に、主イエスの声が響きます。それが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。ここで私たちが注目すべきことは、「イエスは大声で叫ばれた」(46節)と記されていることです。「叫ぶ」というのはそもそも大声ですることです。ですからこの「大声で叫ばれた」という言い方は非常に強調されており、まさに大音声で叫んだ、という様子を描いているのです。これは注目すべきことです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉は、もっと静かに、穏やかに、ささやくように語られた言葉であるような印象をうけますが、しかしその印象は間違っていたことに気付かされます。主イエスは大声で、大音声で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫ばれたのです。そうするとそれは、最初言ったような、父なる神を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねている、というのとは違うのではないでしょうか。主イエスは、十字架につけられて殺されるという苦しい、悲劇的な死を遂げたけれども、その中でも平安のうちに、安らかに、父なる神に全てを委ねつつ亡くなったのではない。ルカがこの主イエスの最後のお言葉によって語っているのはそういうことではないのではないか、と思えるのです。それでは、主イエスのこの最後の大声での叫びとは何だったのか。それは、主イエスが、今全地を覆っている闇、罪のゆえに私たちがその中に閉ざされてしまっている暗さのただ中から、父である神に呼びかけて下さった声ではないか。この闇は、私たちが罪のゆえに神の恵みを失い、その怒りの下に置かれてしまっていることを示しています。つまり神は罪人である私たちから遠く離れ去ってしまっておられる、もう私たちは神によって見捨てられてしまっているということの印なのです。しかしその暗闇、神に見捨てられた絶望の極みである十字架の上から、主イエスが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫び、神を呼び戻して下さっているのです。主イエスがご自分の霊を父である神の御手に委ねることによって、闇に覆われた地上と天におられる父なる神との間をつないで下さり、結び付けて下さっているのです。私たちは、神に背いた罪のゆえに、神との関係を自ら断ち切り、その結果神との交わりを失い、神のみ前に立つすべを失っています。神を礼拝し、そのみ前に出て、神との関係を確立することよりも、人間どうしの関係を整備し築いていくことの方が大事だ、緊急だと思い、そのためにあくせくし、人間どうしの横のつながりの中だけで何とかうまくやっていこうとするけれども、結局自分の力の及ばない壁にぶちあたり破綻してしまう、そういう闇に私たちは覆われています。私たちが陥っているその闇の中へと来て下さり、その闇を引き受けて十字架の苦しみと死を味わって下さった主イエスが、ご自分の霊を父なる神に委ねて下さったのです。ご自分の霊を神に委ね、主イエスによって私たちの父となって下さった神との関係を整えて下さったのではないか。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という主イエスの最後の大声での叫びは、そのように罪人である私たちと天の父である神とをつないで下さり、私たちにも、人生を、そしてそこにおける苦しみや悲しみ、困難、思い通りにならないあれこれのことの全てを、父なる神の御手に委ねる道を開いて下さったのです。
すべての人の夕べの祈りの言葉
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という主イエスの十字架上での最後の言葉は、ユダヤ人が愛した,夕べの祈りの言葉だと言われています。一日のすべてを終わるときに、この詩編31編6節の言葉を祈ったのです。エルサレムでは、町の中から夕べの祈りの時を告げる鐘の音が聞こえたとも言われます。多くのユダヤの人々は、この鐘を聞くと、主よ、わたしの魂をあなたにゆだねるという祈りを祈ったのです。主イエスもまた十字架の上でその祈りをしていられたのです。夕べの祈りとは、一日の終わりを意味します。それはまた、新しい時への備えを意味するのです。夕べの祈りとは、夜を迎えることです。眠りに就くということです。そしてその夜を迎えるときに、わたしの魂をあなたに委ねる。そう祈る。この「魂」とは、肉体も魂も全部含めた私たちの存在のいわば核を意味します。わたしたちの存在の大切なところ、そして全体を生かすところ、その宝のようなところを、神よ、あなたにお委ねします。そう祈るのです。
新しい世界が
主イエスはこのように大声で叫んで、そして息を引き取られました。この主イエスの死によって、全地を覆っていたあの闇は消え去ったのです。主イエスの最後のあの大声が、闇を蹴散らし、雲散霧消させたかのようです。そしてそこには、新しい世界が開かれていったのです。47節がそれを語っています。「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」。百人隊長とはローマの兵隊の隊長です。死刑の判決を受けた主イエスと二人の犯罪人を引いて来て、その処刑を実行するのが彼らの仕事です。まさに主イエスを直接十字架につけ、殺したのは彼らなのです。その隊長であり責任者だった彼が、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのです。彼のこの言葉は、自分たちが死刑囚だと思って処刑したこの人は実は正しい人、罪のない人だった、というだけのことではありません。彼は、無実の人間を十字架につけて殺してしまうというとんでもないことをしてしまった、ということに気付いて恐れたのではないのです。「神を賛美した」と語られています。これも、ルカだけが語っていることです。ルカは、異邦人であるこの百人隊長が、主イエスの十字架の死の様を見て、神を賛美した、つまり礼拝したと語っているのです。
そして、主イエスがその十字架の上で、神にご自分の霊を委ねて死んで下さったことによって、まさに主イエスを十字架につける罪の中にいる私たちが、神を賛美し、礼拝する道が開かれたのです。48節には、「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」とあります。この群衆は、ピラトのもとでの裁判において、イエスを十字架につけろ、と叫んだ人々です。その群衆が処刑を見届けようと見物に来ていたのです。しかし敵意と悪意をもって眺めていた彼らも、主イエスがあのように叫んで息を引き取られたのを見て、胸を打ちながら帰って行った、つまり、自分たちのしたことを悔いる思いが生じているのです。主イエスの死によって、そのような転換が起っています。勿論本当の意味での新しい世界は、主イエスの復活によってこそ開かれていきます。しかし神の子である主イエスが十字架の上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取られたことによって、罪の闇の支配が終わり、新しい世界が開かれ始めているのです。祈ります。