4/14説教「心の目を開く」

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はじめに
今朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書24章36節から53節までです。先週のエマオでの二人の弟子の話しの続きです。パンを裂いておられるお姿を見て主イエスだと分かり、主イエスの復活を信じた二人の弟子たちは、直ちにエルサレムへと戻って行きました。そしてエルサレムに戻って他の弟子たちの所に行ってみると、十一人の弟子たちとその仲間たちが集まっていました。そして、「本当に主は復活して、シモンに現われたと言っていた」と34節にあります。シモンとは主イエスの一番弟子のペトロのことです。エマオから戻った二人の弟子も、そこで起こったこと。つまり主イエスが共に歩みつつ聖書を説き明かしてくださったのに自分たちはそれが主イエスだと気付かなかったこと、そして、パンを裂いてくださったときに主イエスだと分かった次第を皆に話したのです。36節はその続きとして、「こういうことを話していると」とルカは記しているのです。先週の35節までと今朝の36節以下はそのように直接つながっているのです。そこに当の主イエスご自身が突然現れたのです。そして、「あなた方に平和があるように」とおっしゃったのです。

復活を信じる事の困難さ
その時弟子たちはどうしたのか。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)とあります。これは不思議なことです。そこに主イエスにお会いしたシモンも、エマオでの二人の弟子たちもいたはずです。それなのに彼ら、多くの弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったと記されています。ここには、主イエスの復活の出来事を信じることがいかに困難であるかが描かれていると言えるでしょう。主イエスの復活は、生きておられる主イエスと出会った人にとってすら、あるいはその人々の目撃証言を聞いた人にとってすら、本当に信じ、その喜びに生きることがなかなか出来ないような事柄なのです。そしてこの復活後の主イエスと弟子たちとの関りは、今生きている私たちと近いのです。私たちは主イエスのご復活後の時代を生きています。私たちは主イエスをこの目で見ることはないのです。目で見ることなしに、しかし、主イエスが復活して今も生きておられ、聖霊の働きによって共にいてくださることを信じているのです。神が共にいてくださるインマヌエルなる神を信じているのです。主イエスの復活の出来事を信じることが、どのように困難なのかをルカの記述から見てみましょう。

自分の身分証明
今朝の箇所で語られている主イエスの振る舞いは、信じない弟子たちに対するユーモラスな仕草として描かれています。主イエスは、自らの復活について、そして、ご自分が本物のイエスであることについて一生懸命に説明し証明しようとしているのです。ところで、私は、自分を証明するのに、以前は健康保険証や自動車運転免許証を見せて、名前や生年月日で確認されていました。今はマイナーカードを証明書として使用しています。ところで、コロナ禍で、日本はデジタル化が遅れていたんだということを知りました。また医療体制も決して進んでいるわけではないと感じました。今は急激にICデジタル化が進んで私のように高齢者には時代についてゆくことは大変になってきました。コロナ禍で対人接触を減らす意図と人手不足もあってICデジタルとロボット化がどんどん進んでいます。話しは外れますが、ファミリーレストランや回転寿司に入っても注文を聞きにきません。タッチパネルで自分で入力しなければならないし、注文した料理もロボットが運んできます。そういう時代だということでしょう。これも慣れてくると便利ではありますが、落とし穴もあります。大リーグのドジャースの大谷翔平選手が通訳と世話をしてもらっていた人に巨額の預金が詐取されたことは驚きです。不正送金が問題になっています。銀行も省力化、デジタル化のすきを突かれた犯罪なのかもしれません。自分であることの証明の問題点を示しています。
ところで、今朝の箇所に記されている主イエスの振る舞いは、信じない弟子たちに対するユーモラスな仕草として描かれています。主イエスは、自らの復活について、そして、自分が本物のイエスであることについて一生懸命に説明し証明しようとしています。
ある説教者が語っていることですが、この聖書箇所は、作家の椎名麟三という人がキリスト教入信のきっかけとなった聖句であると言われています。椎名麟三氏という人は、職を転々とし、カール・マルクスを読み始めるとともに日本共産党に入党。昭和6年に特高警察に検挙され、獄中で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向。その後、キリスト教に入信。キリスト教作家として活躍した方です。その入信のきっかけになったのが、この聖書箇所だというのです。椎名氏は、ある日旅をしていて、身分証明をしないといけない場面に出くわします。ところが免許証その他、その時まったく持ち合わせていなかったのだそうです。そこで、自分の鼻を指さして一生懸命に「私が椎名麟三です」と力説するのです。しかし相手は信じない。「とにかく椎名さんであることを証明するものを見せなさい」と。押し問答です。椎名は、ふと我にかえって自分の仕草に吹き出して笑い出したのだそうです。「この鼻が自分であるわけはないのにね。そんなことで証明できるはずがないのにね」、というわけです。そうして自分の、必死だけれどもユーモラスな仕草と、復活した主イエスの仕草を重ね合わせるのです。自分の顔を見ても、生活を共にした弟子でさえ信じない。数日前に復活した自分に出会って大喜びだった三人の弟子でさえも信じない。弟子たちとの押し問答です。「いや、あなたがイエス先生であることを証明するものを見せてください」と。そこで主イエスは十字架に釘付けされた手足の傷跡を見せるのです。「どうだ、これが証拠だ」と。しかし、それでもまだ弟子たちは信じません。「まさしくわたし、わたしだ」と、今のように免許証も保険証も無いので、必死に叫ぶ主イエス。これだけでも十分ユーモアに満ちています。さらに主イエスは驚きの解決策を発案します。これもまた実に面白いのです。「ここに何か食べ物があるか」(41節)と主イエスは言います。弟子たちは不意をつかれます。イエスと主張するこの男に魚をひと切れ、ついに渡してしまいます(42節)。集まっていた弟子たちは、ちょうど魚を焼いて食べていたのでしょうか。何をするんだろうと、みな思ったことでしょう。この聖書を読む読者は、ここで魚を主イエスが弟子たちに裂いて配って、みんなで満腹する場面を思い起こすでしょう。何か奇跡を行って、自分がイエスであることを証明しようとしているのかと、思わせる書き方です。主イエスは弟子たちの前で焼いた魚を食べて、まさしく体の復活であることを証明されようとされたのです。
肉体における復活
しかしこの話は、復活を信じることの困難さだけを語っているのではありません。彼らは、亡霊を見ているのだと思って恐れたとあります。「亡霊」と訳すと、主イエスの幽霊が現れたと思ったということになりますが、実は原文において用いられているのは、単に「霊」という言葉だと言われます。弟子たちは「霊を見ているのだと思った」のです。つまり彼らは、主イエスの霊が、肉体を伴わずに現れたと思ったのです。38節から39節にかけての主イエスのお言葉はそういう弟子たちの間違った思いを正すために語られているのです。主イエスはこうおっしゃいました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(39節)。「亡霊には肉も骨もないが」とありますが、ここも原文の言葉は「霊」です。「霊には肉も骨もないが、私にはこのように手や足がある。つまり肉体があるのだ」と言っておられるのです。ですからこの「わたしの手や足を見なさい」というお言葉を、幽霊には足がない、足があるのは幽霊ではない、という日本的な感覚で理解してはなりません。主イエスは、私は幽霊ではない、と言っているのではなくて、私は肉体をもって復活したのだ、霊のみで現れているのではない、と言っておられるのです。そのことを弟子たちにはっきりと分からせるために、40節で「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」のです。そして41、42節には、弟子たちがなお信じられず、不思議がっているので、主イエスがそこにあった焼き魚を一切れ食べてみせるというパフォーマンスをなさったことが語られているのです。主イエスが、「ほら見てごらん」と言ってみんなの前で焼き魚をむしゃむしゃ食べて見せた。ユーモラスな場面ですが、そこまでして主イエスは、そしてルカによる福音書は、私たちに大切なことを示そうとしているのです。それは、主イエスの復活は、霊のみにおける事柄ではなくて、肉体の復活なのだということです。

受け入れやすい霊の復活
先ほどから、主イエスの復活を信じることは困難なことだと言いましたが、それは復活を、肉体におけることとしてではなく、霊における事柄とするならば、そんな困難はなくなるのです。イエス・キリストは霊において復活して弟子たちの前に現れた、ということならば、誰でもすんなり受け入れられるのではないでしょうか。「霊において」というのは様々な仕方で理解できます。霊は目に見えない内面のことだと言えば、あるいは心の中のことだと言えば、理解しやすいのです。弟子たちが主イエスの思い出を大切にして生きていったとか、主イエスならこうなさっただろう、といつも御心を想像しつつそれに従って歩んだ、というのも「霊におけるイエスの復活」と言えるでしょう。復活をそのように人間の理性と調和させ、奇跡の持つ解りにくさ、つまずきを取り除こうとする試みは様々になされてきたのです。しかし聖書は、特にルカによる福音書のこの箇所は、そのような試みを拒んでいます。主イエスは、手と足を持った、肉や骨のある肉体として復活して、弟子たちの前に現れたのです。

シャローム
主イエスは彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。これはユダヤ人たちが毎日交わしている挨拶の言葉「シャーローム」という言葉です。しかし主イエスはここで単なる日常の挨拶を語られたのではありません。弟子たちの群れに、神の平和、祝福が豊かにあるようにという思いを込めてお語りになったのです。その神の平和、祝福は、主イエスが体をもって復活なさったことを信じる信仰によってこそ私たちに与えられるのです。主イエスがここで、ご自分の手や足を示し、魚を食べることまでして、体の復活をお示しになったのは、この神による平和、祝福を弟子たちに、そして私たちに与えるためでした。主イエスの復活を単なる霊における復活として捉えていたのでは、神による本当の平和、祝福に生きることはできないのです。なぜならそれは、自分が理解でき、納得できる範囲でのみ復活を捉えようとすることだからです。そのような復活理解は人間の常識や知識の範囲を一歩も超えることができません。人間を超えた神の力が働く余地はそこにはないのです。霊における復活を信じるというのは、神が主イエスによって実現して下さった救いを、自分の心の中だけの問題にしてしまうことなのです。しかし神が、主イエスが私たちに与えようとしておられる平和、祝福、つまり救いは、そのような生き方によって得られるものではありません。今朝、読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章はそのことを教えています。ここには、神が与えて下さる救いの姿が描かれています。その救いにおいては、荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れ(6節)、熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなるのです(7節)。荒れ野、荒れ地が喜び踊り、砂漠が喜んで花を咲かせ、野ばらの花が一面に咲くのです(1節)。そして見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き(5節)、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うのです(6節)。このイザヤの預言が語っているように、主イエスが告げておられる神の平和とはそういうものです。それは、人間の力や努力で実現できることではありません。主なる神が、人間をはるかに超えた、世界を支配し導く全能の力によって与えて下さる平和であり、私たちはそれを努力して実現するのではなくて、信じて待ち望むのです。この神による平和、祝福、救いを信じて生きるためには、主イエスが神の力によって肉体をもって復活させられたことを信じることが必要なのです。そしてそれは聖霊の働きなのです。聖霊によって私たちは、この目で見るよりも確かに、主イエスと共に生きることが出来るのです。
つまり人間の理性、考え、常識をはるかに超えた神の恵みの御心が、主イエス・キリストの十字架の死と復活において具体的に実現していることを信じることによってこそ、この平和、祝福、救いを信じ、待ち望みつつ生きることができるのです。

聖書を悟るとは
主イエスはここで弟子たちに、聖書を説き明かして下さいました。聖書に何が語られているのかを示し、それがご自身の十字架と復活によって実現したこと、そしてこれからも実現していくことをお語りになったのです。そのことによって主イエスが教えて下さったのは、私たちの信仰を支え、導き、励ますのは聖書のみ言葉だということです。聖書が説き明かされることによってこそ、主イエスをこの目で見ることのない私たちにも、信仰が与えられるのです。しかし、聖書に書いてあることの内容をただ知識として知っていても、それで信仰が得られるわけではないし、罪の赦しを得させる悔い改めに至ることはできません。必要なのは、聖書を本当に悟ることです。そのことを語っているのが45節です。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。復活した主イエスが弟子たちにして下さったのは、ただ聖書を説明し、ご自分について書かれていることを教えた、ということではなかったのです。復活した主イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて下さったのです。聖書に語られている神の救いのみ心が主イエスの十字架と復活において実現し、これからも実現していくことを私たちが本当に知るためには、心の目を開かれなければなりません。聖書を知識として知っているだけでは、主イエスがこの私の救い主であることが分からないのです。主イエスの十字架の死と復活によって、この私の救いが実現したということが分かること、それこそが、聖書が本当に分かるということです。そのためには私たちは、心の目を開かれなければならないのです。
祝福しながら
そして50節以下に、主イエスが天に上げられたこと、昇天が語られています。ルカによる福音書における昇天の場面の特色は、主イエスが手を上げて弟子たちを祝福なさり、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた、と語られていることです。主イエスは弟子たちを祝福しながら昇天なさったのです。「祝福する」という言葉は、「良い言葉を語る」という意味だと言われます。天に上げられ、目に見えなくなった主イエスは、弟子たちに、信仰者に、常に「良い言葉」つまり恵みの言葉、救いの言葉、罪の赦しの言葉を語っていて下さるのです。この恵みの中で私たちも今、礼拝において聖書のみ言葉の説き明かしを受け、聖霊のお働きによって心燃やされつつ、目に見えない主イエスを信じ、その祝福にあずかり、そして主イエスの父である主なる神に喜びと賛美と感謝の言葉を語りつつ生きることができるのです。

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