三位一体とは
今日の礼拝は、教会歴でいいますと三位一体主日です。ペンテコステの次の日曜日が三位一体主日(さんみいったい又はさんいいったい)と呼ばれています。三位一体というのは、キリスト教の神を表わす特色ある理解であり、呼び方ですが、その言葉自身は聖書の中にはありません。神を三位一体という理解で把握し、それを教会の正統的な教理として確定したのは、4世紀の二ケア公会議でありました。私たちキリスト者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇めます。唯一の神を父と子と聖霊という3つの位格で、しかもそれを一体、ひとりの神であると信じ告白することが、キリスト教の神理解の一つの基礎となります。そして、このような神の理解は、ユダヤ教との決別を決定的なものにしたのです。そうは言っても、わかりにくい教えです。3つあるけれども1つしかない、というのはどういうことか。理屈で理解しようとしても出来ません。よく一神教と多神教ということを言います。キリスト教は一神教というけれども、3つの神を信じているから多神教ではないか、と言う人がいますが、分かりにくいと言えばそうです。しかし三位一体の神を信じることが、キリスト教かそうでないかを見分ける基準なのです。カトリック教会もプロテスタント教会もギリシャ、ロシアの正教会も三位一体の神を信じているのです。
ペンテコステに聖霊が降られたので、人間は主イエスを救い主と信じることができるようになったのです。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。聖霊は、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。したがって、天におられる父と御子は遠くにいても、三位一体なる聖霊なる神のおかげで、神はまさに私たちの近くにおられるのです。
弁護者が来る
ところで、三位一体ということは、今朝の新約聖書の御言葉であるヨハネによる福音書16章でも語られています。16章7節のお言葉は、弟子たちに対してのみでなく、私たちに対しても語られている大いなる慰めの言葉です。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。主イエスがこの世を去って父なる神のもとに行かれるのは、私たちのためになること、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。つまり、十字架と復活によって救いを実現して下さった主イエスが、天に昇り、父なる神のもとに行かれたこと、それゆえに私たちはもはやこの地上において主イエスのお姿をこの目で見ることはできないこと、主イエスによる救いは見ないで信じるべき事柄であること、これらのことは、悲しむべきことではなくて、私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。しかしどうしてそれが私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのでしょうか。父なる神のもとに行った主イエスは、そこから「弁護者」を送って下さるのです。主イエスが父なる神のもとに行ったからこそそのことが起るのであって、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」とも言われています。主イエスが父なる神のもとに行くのは、この弁護者を私たちに遣わして下さるためなのです。この弁護者が送られるので、主イエスが父なる神のもとに行くことは私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのです。この弁護者は、「真理の霊」であり、「聖霊」です。父なる神のもとに行かれた主イエスに代って、聖霊が弟子たちに、信仰者に遣わされるのです。それによって教会がこの世に誕生し、今日まで歩んできたのです。私たちが主イエス・キリストを信じてその救いにあずかり、教会に連なって生きているのは、この聖霊の働きによることです。聖霊が来て下さったことによって、私たちは主イエスを信じ、主イエスの父である神を信じ、神が主イエスによって実現して下さった救いにあずかって生きることができるのです。この聖霊は主イエスが父なる神のもとに行ったことによって遣わされました。もしも復活した主イエスが父なる神のもとに行かずにこの地上にずっとおられたなら、聖霊が遣わされることはなかったのです。その聖霊が、天におられる主イエスと地上を生きている私たちとを繋いで下さっているのです。聖霊のお働きによって私たちは、目には見えない主イエスといつも繋がっていることができるのです。主イエスというぶどうの木の枝として生きることができるのです。このことこそ、本当に私たちのためになること、良いこと、喜ぶべきことです。主イエスが父なる神のもとに行かれ、そこから聖霊を遣わして下さったことによってこそ、この恵みが実現しているのです。
真理の霊が悟らせる
12節で主イエスは弟子たちにこう言います。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない(12節)」と。主イエスが弟子たちに言おうとすることで弟子たちには理解できないこととは何でしょうか。それは、人間を罪と死の支配から解放するために、主イエスがこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、つまり最後の晩餐の時点では、弟子たちには理解できないことだったのです。
しかし、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。つまり、神の力で復活させられた主イエスは本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死んだのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということ、さらに、主イエスの復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、もう罪と死の支配力が及ばなくなったということ、以上のことが真理だとわかって、それを受け取ることができるようになったのです。これができるようになったのは聖霊が働いたためです。主イエスが13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。
弁護者である聖霊
やや理屈っぽい話になりましたが、要するに、聖霊は主イエスによって実現した神の救いの恵みを明らかにして下さるのです。そして聖霊のことが「弁護者」と呼ばれていることの意味がそこに見えてきます。聖霊が来て下さることによって世の罪が明らかになる、それは私たちの罪が、私たちが神と正しい良い関係を持っていないことが明らかになるということです。しかし聖霊はそこで、私たちの弁護者となって下さるのです。つまり聖霊は私たちの罪を明らかにすると同時に、私たちに与えられている主イエスによる救いをも明らかにして下さるのです。「弁護者」と訳されている言葉は元々は「傍らに呼ぶ」という言葉から来ており、「慰める、励ます」などの意味です。以前の口語訳聖書は「助け主」と訳していました。「弁護者」という言葉は、聖霊のお働きの一つの大事な側面を言い表しているのです。
傷ついた葦を折ることなく
今朝私たちに与えられた旧訳聖書の御言葉は、イザヤ書42章1節から4節です。ここには弱い人々を励ます神の慰めが語られています。主なる神は、世の中にあって人々から迫害されている人、差別や偏見で苦しめられている人、また、病や試練のため、傷つき倒れている人に目を注ぎ、その人たちにふさわしい助け手を送られるお方です。ここにはそのような神の慰めが語られています。3節に「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯芯を消すことなく/裁きを導きだして、確かなものとする」とありますが、水辺にある傷ついた葦を折れば本当に枯れてしまいます。そのように傷つき倒れている人を扱えば死んでしまいます。弱り果てている人を死ぬことのないように助け、彼の命を確かにする救いを与える慰めがここに語られているのです。また、信仰の火が消えてしまうと、私たちには神から与えられる命の管を失うことになりかねません。「暗くなってゆく灯芯を消すことなく」というのは、まさしく主なる神への、私たちの信仰の火のことです。神が消え入りそうな信仰の火を保ち、消さずに保っていてくださるから、私たちの信仰は失われず保たれているのです。そして、「彼の上にわたしの霊を置かれ」るとあり、主は「わたしの僕」の上にご自分の霊を注ぎ、その任務を遂行するに必要かつ十分な啓示の言葉を与えておられます。主なる神の支える者としての支えとは、霊の力による啓示を通して与えられます。この受難の僕は一人の無名の預言者でありました。しかし、新約聖書は、この受難の僕を「メシア」を指し示すものとして理解し、イエス・キリストにおいてこの預言が成就したことを告げています。この受難の僕は、自分の受難を通してメシアを指し示し、メシアの素晴らしい約束を語りました。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯芯を消すことなく、成し遂げる素晴らしい主の救いは、受難の僕となられた神の御子イエス・キリストにおいて完全に実現します。この僕は自らの受難の姿において、来るべき救い主を指し示しました。キリストの十字架は私たちの救いのために背負われたのです。キリストは私たちの救いのために、その苦しみを喜んで受けてくださったのです。この僕の歌はその救いを語っているのです。
来たれ全能の主
この後歌う讃美歌352番「来たれ全能の主」という讃美歌は三位一体の神を賛美する力強い礼拝の歌として全世界で愛唱されている讃美歌です。作者は不明となっていますが、1757年以前にイギリスで、メソジスト運動の中から生まれた讃美歌詞であることは間違いないと言われています。実は、この讃美歌は、歌詞も曲もイギリス国歌つまり国民歌「ゴッド・セーヴ・ザ・キング」の替え歌らしいのです。イギリス国歌は、政府や議会が制定したものではありません。自然に生まれた国民愛唱歌です。この国歌は、名誉革命で王位を失ってフランスに亡命したスチュアート王家のチャールズ・エドワードが1745年に王位奪還をねらってスコットランドに上陸し、ロンドンめがけて南下してきました。政府軍敗北の報が伝えられる中で、王に神の加護を祈ってこの歌が歌われたと言われ、イギリス国歌の位置を占めるようになったのです。大流行している国歌を讃美歌にすり替えたのは、多分、王に加護を祈るよりは、自分の魂の救いのために祈るべきであり、神こそ私たちの王なのだという批判が込められていたのです。結果として、1節で「父なる神」を2節で「主イエス」を、3節で「聖霊」を歌い4節で「三位一体の神に賛美を献げる」という非常に美しい構成になりました。この歌詞に作曲を求められた作曲者ジャルディーニも国歌の替え歌として作曲しようと考えたのでしょう。一部にそのままなぞったような作りになっています。パロディーと言うべきですが、しかし、成立のいきさつがどうであれ、この歌詞と旋律は、三位一体の神への賛歌として、世界中の教会の礼拝で、今も昔も変わることなく高らかに歌い続けられています。
三位一体のはたらき
神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間のために罪と死の支配力を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。
今朝のヨハネによる福音書16章の箇所で、聖霊が告げることは主イエスが告げなさいと言ったこと、主イエスが告げなさいと言ったことは父なるみ神が告げなさいと言ったこととあったように、三つはバラバラなものではありません。加えて、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになる、ということです。以上のように、三位一体は理屈で考えると、どのようにして三つの人格が一人の神になるのかということばかりに目が行ってしまいがちですが、逆に、神が三位一体であるおかげで、私たちの神がどんな方なのかがよくわかるということの方が大事です。神は本当に私たち人間を助けたく思っておられる方であり、また助けるためならどんな犠牲もいとわない、それくらい私たちのことを愛してくださる方なのです。そして聖霊は、十字架のイエス・キリストについて明らかにするのです。そして、すべてを教えてくれます。聖霊は神ご自身であり、私たちの最も奥にまで入って来て、ご自身を告げてくださるのです。そして神による救いの真理を明らかにし、悟らせてくださるのです。 祈ります。