8/11説教「岩の上に建てた家」

はじめに
毎年暑くなる耐え難いほどの気候の中で、また東南海地震が起きるのではないかという不安が加わりました。一昨日の神奈川東部で起きた地震は、この地域では震度4でしたが、いよいよ来るのかという思いにさせるに十分な地震でした。早速地震に備えて水を1ケース買いましたが、売り切れになる寸前でした。防災用品は売り切れが続出しているようです。そこで気が付いたのですが、教会に救急箱を早急に備えておかなければならないと思いました。ヘルメットも必要かもしれません。備えあれば憂いなしのことわざの通り出来るだけの備えはしておきたいと思います。さて、今朝もルカによる福音書からみ言葉の恵みに与りたいと思います。今朝のみ言葉は二つのたとえ話です。前半の6章43節から45節では、その人の行いからその人の心が知られるという譬え話です。そして後半の46節から49節のみ言葉は、主イエスの言葉を聞いて行う人は困難があっても動揺しないという譬え話です。主イエスという岩の上に家を建てれば安心だ、というたとえです。どちらも厳しい教えです。結果を私たちに問うているからです。結果によって人は良い人か悪い人か、主イエスの言葉を聞いて行う人か聞いても行わない人かが判断されるというのです。

実によって木を知る
43節から45節には、「実によって木を知る」という小見出しがつけられており、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実しか結ばない、だから木の善し悪しはその結ぶ実で分かる、というたとえが語られています。それは勿論木の見分け方を語っているのではなくて、善い人と悪い人との違いを語っているのです。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出すのです。つまり、心の倉から出てくるものを見れば、その人が善い人か悪い人かが分かるというのです。心の倉から出てくるものとは、45節の後半にある「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあることから分かるように、口から出る言葉です。その人がどんな人かは、その人の口から出る言葉という実によって分かる、ということが語られているのです。
私たちの口が語る言葉、それが、私たちの心の倉に何が入っているかを示すのであり、どんな言葉を語っているかによって、私たちが善い人なのか悪い人なのかが分かる、と言っているのです。いったい自分は普段どのような言葉を語っているのだろうか、私の口から出る言葉が、私の心の倉の中にあるものの現れであるとしたら、私の心の倉に収められているのはどのようなものなのだろうか、と自分に問わざるを得ないのです。そしてそこでさらに見つめなければならないことは、ここに語られているのは、だから自分の語る言葉に気をつけよう、ということではない、ということです。心の倉の中にあるものが口から出てくるのであって、心の中にあるものが変わらなければ口から出る言葉も変わりようがないのです。「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」とはそういうことです。神の栄光を汚し、人を傷つけるような悪い言葉が私たちの口から出ているのだとしたら、それは私たちが悪い人間だからであって、言葉にいくら気をつけてももうどうしようもないのだというのです。そう考えると、ここに語られていることは、まことに厳しい、恐しい言葉なのです。

主の言葉を聞いて行う者
私たちは46節で言われているように、主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼びながら主の語られることを行うことがなかなかできない者です。「敵を愛しなさい」という一つのことをとってもそうです。私たちの信仰と行いをどう考えるかは大きな問題です。救われるためには行いが伴わないといけないのか。主イエスと同じ行いをしないといけないのだろうか。使徒パウロが書いたエフェソの信徒への手紙(Ⅰ)では、人間の功績や行いによってではなく、ただ神の恵みと信仰によって救われると告げています。
8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることのないためなのです。(エフェソ(Ⅰ)2章8~9節)
主の十字架の愛が私たちに迫ってくるとき、私たちはその愛に応えて生きたいとの願いがおこされます。その主への愛が信仰による行いとなって現れてくるのです。そして、その行いはみ言葉と深くかかわっているのです。
主イエスは、「主の言葉を聞いて行う者」を次のようにたとえて語られます。「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。…」(48節)
ここで言われている家を建てることは、次の三つの行為からなされることが示されています。それは、土を掘ること、深くすること、土台を据えることの三つです。しっかりと家を建てる人は、この三つを行うと語っておられます。逆にすぐ倒れてしまう家は、これらの三つことをしないでいきなり建てられています。二つの家の違いは何でしょうか。それは、岩に触れているかどうかです。いきなり家を建てるのではなく、まずはそこを掘り下げてみる。そうするとそこに岩があった。その上に土台を据える。そして家を建てます。手間はかかるかもしれませんが、後に大きな違いが生じることになります。見た目はどちらも同じです。違うのは人の目には見えない家の下の部分です。こんなことは今の日本にはありえないことですが、しかし同じようなことはあり得ます。手抜き工事ということです。利益優先で手を省いてしまう。二つの家の違いが目に見える形で表れるのは、その家が災害に遭ったときです。「洪水が出て激流がその家に押し寄せて」来たときも、土台の上にしっかり建ててあった家は「揺り動かすことはできない」のです。しかし、土台なしで直接、地面に建てられた家は「たちまち倒れてしまい、その被害は大きい」のです。
古代バビロニアなどではユーフラテス川の氾濫など洪水の被害が多かったからたとえも洪水のたとえが多いのでしょう。日本では線状降水帯の大雨による川の氾濫も増えてきましたが、やはり災害と言えば地震。火災、津波でしょう。何百年、何千年の昔から地震・津波・噴火の脅威は伝承されているのです。いずれにしても、ここで言われている、家が倒れる、倒れないかの違いは、家自体の強さにかかっているのではありません。岩の上に土台をすえているかどうかです。私たち自身が岩になりなさい、どんなことがあっても揺るがない建物になりなさい、と主イエスは言われているのではありません。そうではなくて、地を深く掘り、岩の上に自分の家を建てなさい、と言っておられるのです。

主イエスが私たちの人生の土台
キリスト以外のもの、お金、地位、名誉等を土台としても、それらを土台とした家は、世の嵐がくると倒れ流されてしまいます。キリストだけが揺るがない土台です。二つの家、両方とも洪水に襲われます。キリスト者になったからと言って、「洪水に襲われること」がなくなるわけではありません。しかし、そのようなときにも私たちの足元には岩があります。私たちの家つまり人生は、岩なるキリストの上に土台をすえています。試練に襲われるときも、神にお祈りする、自分だけでなく、教会の人たちにも祈ってもらう、それもキリストを土台としている者ができることです。ここでは、私たちの人生の営みも、家を建てることにたとえられていると受け止めることができます。人生の晩年に、自分の人生を振り返って、岩の上にしっかりと家を建てることができた、洪水や地震のような災害に、あるいは大きな病気や家族の困難に襲われたこともたびたびあったけれども、しっかり最後まで立つことができました、と主に感謝できる人生を歩むことが私たちの願いです。そして、それは与えられるのです。岩の上に土台をすえていれば、洪水にも嵐にも地震にも耐えることができます。なぜなら、それは、生ける神の御子、主イエスが私たちを支え、助けて下さるからです。キリストを土台としている人が、「わたしのもとに来てわたしの言葉を聞いて行う者」(47節)です。それができる人とは言われていません。主イエスのところに行って、主の言葉を聞き、それを完全にはできなくても御霊の助けを求め、祈りながら従って行こうとする人です。救われたことを神に感謝し、神の言葉を聞き続ける人です。

打ち砕かれた心に近くいます
今朝の旧約聖書のみ言葉は詩編34編を読みました。全部読んでもらったので長かったですが、この詩は、アルファベット詩の形式をとっています。アルファベット詩は教訓的な内容を持つ詩が多いと言われていますが、この詩は、教訓に先立ち祈りを聞き届けられた詩人の讃美と感謝が表明されています。6節、7節をもう一度読みます。
6主を仰ぎ見る人は光と輝き
辱めに顔を伏せることはない。
7この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
苦難から常に救ってくださった。
8主の使いはその周りに陣を敷き   
主を畏れる人を守り助けてくださった。
この詩人は、「主の使い」による出エジプトの救済の出来事に触れながら、主の恵み深さを味わってみよ、とイスラエルの民に勧めています。そして、詩人は、主を求める者は欠乏の中に放置されないということを、自らの体験をもって確認せよ、と言っているのです。この詩編34編の詩人の心と、このルカによる福音書6章が語っていることとは同じことなのです。この詩編34編は正しい者のことを繰り返し語ります。そしてこの正しい者とはいったい誰であるのかということを一言で語っています。
19主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
正しい人間とは、心が打ち砕かれた心の人なのです。自分の正しさについての自負のゆえに、自分の心をはっきり立てている人間ではなくて、主のみ言葉の前に打ち砕かれている。悔い改めにくずおれるのです。身を低くするのです。そして、ただ主の名を呼ぶことしかできないのです。この思い以外に、深く土を掘って土台を据えるところはないと思います。主の恵み以外のどこに私たちの生涯を確かに立てる土台があるでしょうか。20節、21節を読みます。
20主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
21骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
肉体の骨が折れたとしても、主のみ前にある私たちの魂の生活は、その骨ひとつ折られることのない確かさに活きることができるのです。

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