9/8説教「道を準備する者」

群衆に向かって
今朝与えられているルカによる福音書7章24節以下の主イエスのお言葉、これは先週の18節以下の洗礼者ヨハネの弟子たちと主イエスとの間のやりとりに続き、その洗礼者ヨハネとはいったいいかなる存在であるかについて語っている箇所です。しかし、ヨハネについて語っておられるだけではなくて、同時に主イエスご自身がいったいどのような存在であるかをも語っているのです。24節冒頭には「ヨハネの使いが去ってから」とありますが、このヨハネの使いとは、牢獄の中にいた洗礼者ヨハネが主イエスのもとに送った二人の弟子のことです。今までヨハネの二人の弟子に向かって語っていた主イエスが、今度は群衆に向かって語り始められました。ここで主イエスは開口一番、群衆にこのように問われます。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」。洗礼者ヨハネは荒れ野で育ち、やがて神の言葉を与えられてイスラエルの人々に「悔い改めの洗礼」を授けたのです。群衆もヨハネの教えを聞くために、そして悔い改めの洗礼を受けるために荒れ野に行ったのです。
何を見に荒れ野へ行ったのか
ところで聖書にはしばしば「荒れ野」が出てきます。クリスマスの賛美歌にも、「あら野のはてに」という18世紀のフランスのキャロルが入っています。しかし私たちにとって「荒れ野」は身近な場所ではありませんからイメージするのが難しいと思います。日本では自然はさまざまな災害を起こしますが、木々は豊富で緑豊かです。都会の喧騒に疲れた人はしばしば郊外の自然に親しみます。ところがパレスティナでは、「荒れ野」は人を惹きつける魅力的なものは何もありません。何かがなければわざわざ行くような場所ではないのです。荒れ野は、一面岩や砂しかない、ところどころにへばり着くようにほんの少しの緑がようやく生えているような所です。まして人を癒したり慰めたりする所ではないのです。私は、イスラエルには行ったことがないのですが、20年ぐらい前にエジプトのピラミッドを見学した時、大小幾つかのピラミッドを見て、車で移動した時まさに荒れ野を見ました。そして町ではロバが荷物を積んで、たくさんいるのを見て主イエスの時代をイメージできたように思いました。主イエスは群衆に「風にそよぐ葦」を荒れ野に見に行ったのか、と問われます。荒れ野でも若干の草木はあるようで、ヨハネがいた荒れ野には「葦」も生えていたのだと思います。「風にそよぐ葦」と言われていますが、要するに風が吹いて葦が揺れているだけのありふれた風景に過ぎません。わざわざ荒れ野に行ってまで見るほど魅力的なものではないのです。ですから主イエスは群衆に「あなたたちは、風に揺られている葦のように魅力的でないものを見るために荒れ野に行ったのか、そうではないだろう」と問いかけているのです。さらに続けて主イエスは「では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる」と言われます。ルカによる福音書では触れられていませんが、マタイによる福音書3章4節には、洗礼者ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」と語られています。ヨハネはしなやかな服を着た人、華やかな衣を着て贅沢に暮らす人とは対極にいる存在です。まかり間違っても民衆は、華やかな衣を着て贅沢に暮らす人への憧れや魅力を抱いて、ヨハネを見に荒れ野に行ったのではないはずなのです。このように二つの問いかけをした上で主イエスは「では、何を見に行ったのか。預言者か」と問いかけます。預言者とは未来のことを言う人ではありません。「予め言う」と書くのではなく「預かる言葉」と書く「預言」です。神の言葉を与えられ、それを語るのが預言者であり、ヨハネも荒れ野で神の言葉を与えられたのです。預言者ヨハネを通して神の言葉を聞くために、群衆は連れ立って荒れ野に行ったのです。
そして、この主イエスの問いは私たちに対しても向けられています。私たちは今朝もこうして教会の礼拝に集っています。ここは荒れ野というわけではありません。しかしせっかくの休日である日曜日の朝からここへ来なければならない理由が私たちにあるわけではありません。いったい私たちはここへ何をしに来たのでしょうか。それは、神のみ言葉を聞くためです。群衆が神の言葉を聞くために洗礼者ヨハネのもとへ行ったように、私たちも、神の言葉を聞こうとしてこの礼拝にやって来たのです。だから、聖書の言葉、神の言葉を求めること以外のことを教会に求めても失望するのです。
道を整える者
主イエスのお言葉はさらに続きます。「そうだ、言っておく。預言者以上の者である」。あなたがたが荒れ野に見に行ったヨハネは、預言者以上の者だ、と主イエスは言われるのです。預言者以上の者とはどのような者でしょう。それが27節に語られています。
27『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」。
ここに引用されているのは、先ほど読まれた旧約聖書の箇所であるマラキ書第3章1節です。そこにはこう書かれています。1節だけを読みます。
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突 如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
主なる神が救い主をこの世にお遣わしになる前に、使者を送り、救い主のための道を整えさせることが語られています。預言者以上の者とは、このマラキ書が告げている、救い主のために道を準備する使者のことです。預言者たちは神のみ言葉を預けられそれを人々に語りました。その中には、救い主の到来を予告するみ言葉もありました。しかしヨハネは、それらの預言者の一人としてではなくて、救い主の直前を歩み、その道を整えるという特別な使命を与えられた人だったのです。このことを受けて主イエスは28節で次のように語っています。
28言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、
神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
と言われています。洗礼者ヨハネは、女から生まれた者の中で最も偉大な者だとすら主イエスは言われたのです。
神の国に連なる者
ここには、女から生まれた者、つまり人間の内で、ヨハネより偉大な者はいない、ということと、神の国で最も小さな者でもヨハネよりは偉大である、という二つのことが語られています。ここで「女から生まれた者のうち」という言い方によって意味されているのは「律法と預言者」の時代、つまり旧約聖書の時代ということであり、「神の国で」というのは「神の国の福音が告げ知らされ」ている今、つまり主イエスが来られてから後の新約聖書の時代を意味していることが分かります。ヨハネは律法と預言者の時代、つまり旧約聖書の時代における最も偉大な者なのです。しかし主イエスによって神の国の福音が告げ知らされている今、そこにおいて最も小さい者も彼よりは偉大なのです。それは、主イエスによってもたらされる神の国が、律法と預言者によって歩む旧い神の民イスラエルよりもはるかに素晴らしいものであることを語っている言葉です。つまりここには、今や主イエスによって新しい時代が、神の国の実現の時代が始まっていることを語っているのです。ヨハネは、旧い時代の最後に立って、新しい時代の到来を告げているのです。そのことのゆえに彼は旧い時代における最も偉大な者なのです。しかし主イエスによってもたらされている新しい時代、神の国、つまり神の御支配においては、最も小さな者も彼よりは偉大なのです。
主イエスはこのことを群衆に示したのです。つまり、あなたがたは荒れ野へ行ってヨハネを見たことよって、今や新しい時代が始まろうとしていることを告げる神のみ言葉を聞き、新しい時代を生きる者となることができるということなのです。神の国に連なる者、つまり私たち自身が、神の国で最も小さな、しかし洗礼者ヨハネより偉大な者となることができるというみ言葉です。
二通りの反応
このみ言葉を聞いた者は一つの問いの前に立たされます。そのみ言葉を信じて受け入れ、新しい時代を生きる者となるのか、それともそれを信じることなく拒み、旧い時代を生き続けるのか、という問いです。第一の人々は、ヨハネの教えを神の言葉として聞き、信じて、罪の悔い改めの印である洗礼を受けました。名もない民衆が、また当時罪人の代表とされ人々に忌み嫌われていた徴税人たちもそうしたのです。しかし第二の人々はヨハネを無視し、洗礼を受けることを拒みました。それはファリサイ派の人々や律法の専門家たち、つまりユダヤ人の宗教的指導者たち、律法を守り正しい生活をしていると自他共に認めていた人々でした。この違いはどこから来たのでしょうか。ヨハネの洗礼を受けた人々は、「神の正しさを認めた」と29節の終わりにあります。それに対して洗礼を拒んだ人々は、「自分に対する神の御心を拒んだ」と30節の終わりにあります。ここに、両者の違いの根本が示されています。洗礼を受けた人々は、「神の正しさを認めた」のです。彼らはヨハネの語るみ言葉によって、自分の罪を示され、それを認め、その罪を赦して下さる神の恵みに依り頼んで悔い改めたのです。
これに対してファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、神を義としませんでした。神こそが義であると認めるのではなく、自分の義を主張したのです。自分は律法に従って正しい生活をしている、ということに依り頼み、実は自分が神との関係を失っている罪人であることを認めようとしなかったのです。それゆえに彼らは、悔い改めの印である洗礼など自分には必要ないと思ったのです。しかしそれによって彼らは、「自分に対する神の御心を拒んだ」のだと聖書は語ります。それは神のこの救いのみ心を拒み、せっかくの恵みに満ちた御心を無にすることなのです。
神の御心を拒むな
31節以下は、ヨハネの洗礼を拒み、自分に対する神の恵みのみ心を拒んだ人々のことが、広場に座って互いに文句を言っている子供たちの姿になぞらえられています。子供たちは「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と言い合っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」というのは結婚式ごっこです。「葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」というのは葬式ごっこです。結婚式ごっこをしようと言って笛を吹いたのに、「笛吹けど踊らず」で誰も踊ってくれない、葬式ごっこをしようと言って葬式の歌を歌ったけれども、誰も泣いてくれないのです。
大磯教会もかつては多くの子どもたちで満ち溢れていたと聞きます。私自身も子供の頃通った教会の日曜学校で育ち、子供が騒ぐ声で大人の礼拝に迷惑をかけていたほど多かったのです。ところが今は子供の声を聞くことが無く、私も子供の心を忘れてしまったことに気が付きます。子供だけでなく若い人の気持ちも分からなくなっているのです。子どもの頃、平塚の海岸近くに住んでいましたが、大磯の高麗神社のお祭りの露店で、親にブリキ製の飛行機を買ってもらってうれしかったことをよく覚えています。60年以上も前のことです。当時はブリキ製のおもちゃがよく販売されていました。露店で売っているものですからそれほど高価なものではないのです。しかしそれは子供にとっては宝なのです。子どもは独創的にどんなものでもおもちゃにして遊びます。しかし、それよりも近所の友だちと一緒に、高麗山(こまやま)を駆け回った遊びの方が、もと楽しく想い起されます。今、海外の難民キャンプで、そこに避難している幼い子どもたちが、何ひとつ遊具のないような場所でも、互いの身体を寄せ合いぶつけ合い、歌を歌い、工夫して遊びに打ち興じている姿を見ると、本質的には人間の営みは不変であり、人生にとって欠くべからざるものが何であるか、深く教えられる気がします。そういう子どもの日常の姿を損なうような大人の振る舞いは、どれほど正義の名を被せようとも、野蛮であり、悪だということです。大人の姿を、子どもはよく見ています。そして自分たちの遊びにそっくりそのまま写し取り、再現するのです。「子どもは大人の鏡である」と言われます。子どもの目の輝きやその姿。特に遊んでいる様子を見れば、この世界がどうなっているのか、まことの喜びがあるのかどうか、生きるに値する世界であるのかが、一目で知れるのです。主イエスが言われる「今の時代の人たちは」の「今」は、わたしたちの生きているこの時代のことでもあるのです。
十字架と復活の道へ
救い主である主イエスの前に、主イエスより先に、主イエスの道を準備するために神は使者を遣わしました。その使者こそが洗礼者ヨハネであると主イエスは言われました。その主イエスの道の先には十字架の苦しみと死があり、復活があります。ヨハネはそのことを知っていたわけではないかもしれません。前回見たように、ヨハネが期待していた通りに救いが実現したわけでもないでしょう。しかしヨハネが備えた道の先に、主イエスの十字架と復活による救いがあるのです。28節で主イエスは「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われました。「女から生まれた者」とは人間のことです。ですから人間の中で洗礼者ヨハネより偉大な者はいないけれど、神の国で最も小さな者でもヨハネより偉大な者である、と言われているのです。これはどういう意味か。神の救いの歴史におけるヨハネまでの律法と預言者の時代と、神の国の福音が告げ知らされている主イエス・キリストの時代との違いを言っているのです。神の国で最も小さな者でもヨハネより偉大であるとは、神の国の福音が告げ知らされている主イエス・キリストの時代に入れられている者は、最も小さい者であっても、それ以前のヨハネに比べれば偉大な者だと言っているのです。しかしその偉大さ、その大きさは、私たちが自分の力によって獲得したものではなく、神の一方的な恵みによって与えられたものです。神を愛せず、自分を愛せず、自分の隣人を愛せず、神の御前に罪人でしかない私たちを、神はただキリストのゆえに、その十字架と復活のゆえに、キリスト以後の時代に入れてくださり、「偉大な者」、「大きい者」としてくださっているのです。罪人でしかない弱さと欠けばかりのまったく取るに足らない私たちを主イエス・キリストによって「大きく」してくださった神に感謝して、私たちは神をこそほめたたえ、神をこそ大きくしていくのです。神にのみ栄光です。お祈りします。

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