10/20説教「人を解放して下さる主」

ゲラサ人の地方への上陸
先週の礼拝において私たちは、主イエスが「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃって弟子たちと舟に乗り込み、ガリラヤ湖を渡っていかれた話を読みました。その船旅の途中で突風が起り、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが風と波をお叱りになると湖は静まり、彼らは無事に向こう岸に着くことができたのです。今朝の26節以下には、そのようにして到着した向こう岸における出来事が語られています。主イエスと弟子たちが到着したのは「ゲラサ人の地方」でした。「ゲラサ人の地方」とは、ガリラヤ湖の南東に広がる地域です。この地域は通常デカポリス地方といって、ギリシャ・ローマ文明の影響を受けた十の町があって、ゲラサもその一つです。デカポリスの「デカ」は十という数字、ポリスは町、都市という意味のギリシャ語です。つまり「十の町の地方」という意味です。この地域には大変立派な遺跡があり、当時はギリシャ風の都市として栄えていたことが分かります。今朝の箇所を読んでいると、ガリラヤ湖の向こう岸の、豚しか住んでいない辺鄙な田舎に行ったように錯覚してしまいがちですが、当時のこの地方はむしろ文明の進んだ先進的な地域だったのです。そこはもう異邦人、異教の民の住む外国です。主イエスと弟子たちは荒波を乗り越え苦しい船旅を経て、知る人のいない全くの異教の地である外国に上陸したのです。聖書には「向こう岸にあるゲラサ人の地方」と書いてありますが、地図上の対岸という意味以上に、ユダヤ人から忌み嫌われていた地域という意味をも含んでいるのです。つまり、ユダヤ人にとっては「宗教的に汚れた土地」という意味です。だから豚が登場します。ユダヤ人にとって豚あるいはイノシシは反芻しないので宗教的に汚れている動物とされていました。モーセの律法は、豚を食べてもいけないし、豚の死体に触ってもいけないと命じています(レビ記11章7-8節)。だから放蕩息子の譬え話で、弟息子が豚の世話をする破目になったのは、誰も引き受けたがらない仕事をせざるを得ないほどに、非常に落ちぶれたということの喩えなのです(15章15節)。
さて、ある日突然外国から舟に乗ってやって来た見知らぬ人々を迎えたその土地の人々は、いったいこの人たちは誰で、何をしに来たのだろうかと、興味と恐れの入り交じった好奇の目で見つめていたに違いありません。

悪霊に取りつかれている男
主イエスが陸に上がられると、ゲラサの住人で「悪霊に取りつかれている男」がやって来ました。27節には、「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」とあります。衣服を身に着けていなければ社会で生活することはできません。ほかの人と関わりを持って生きることができないのです。そのために彼は「家に住まないで墓場を住まいとして」いました。墓場は生きている人間の居場所ではなく、死んだ人間が葬られているところです。
私たちは、ほかの人との関わりの中でこそ、私たちは人間として本当に生きていくことができるのです。また29節には、「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。ゲラサの人たちは、放っておくと何をするか分からないから、彼を鎖でつなぎ足枷をはめて監視していました。そうしなければ社会の安全を保つことができないし、安心して過ごすことができないからです。それでも「悪霊に取りつかれている男」は、その鎖や足枷を引きちぎっては荒れ野へと駆り立てられたのです。まことにすさまじい姿です。
今、首都圏で闇バイトによる強盗事件が頻発しており、神奈川県でも起きているので心配しています。私は闇リストに載るような金持ちではないけれど、私たち高齢夫婦が山道を登った木に囲まれた古い住宅に住んでいるのでひょっとして狙われるのではないかとも思います。センサーライトが幾つか付いていますが、もっと増やそうとか、窓に格子を付けようとか真剣に考えています。そういえばこの前水道メーターの交換だとか不審な人が庭に入って来ていたな、強盗の下見ではないかとか、心配は広がります。今、訪問営業の人は、大変だろうなと思います。
話を元に戻します。「荒れ野」も人が住む場所ではありません。この悪霊に取りつかれている男は、都会から荒れ野へ、人が生活している場から人のいない場へと駆り立てられたのです。
ところで、私たちはこれを読むと、この人は大変重い心の病にかかっていたのだろうなどと考えます。しかし聖書がこの人の姿を通して語ろうとしているのはそんなことではありません。この人は、人々の間で、人間関係を保って生きることができなかったということです。世間において普通の、常識とされている人間関係が保てないのです。それで彼は墓場を住まいとしていた。墓場は、死んだ人の場所です。生きている人はそこにはめったに足を踏み入れない。つまりこれも、彼が生きている人間との関係、交わりを持つことができずにそれを避けていることを示しているのです。彼は社会の秩序や人間の決まりの中に身を置いて生きることができないのです。その束縛をふりほどき、そこから逃げ出し、しかし結局居ることができる場所は人のいない荒れ野だけなのです。このように考えてくる時、この人の姿はそんなに特別な珍しい話ではないように思えてきます。この地方は当時の文明の先進地域だったと言いました。文明が発展し、社会が複雑化し、ストレスの大きい社会になるにつれ、このような人は増えていくのではないでしょうか。それは他人事ではなくて、私たち一人一人の中にも多かれ少なかれ、このような要素があるのではないでしょうか。この男に取りついていた悪霊は、今も、私たちのこの社会において活動しているのです。
主イエスは30節で、この人に「名は何というのか」とお尋ねになりました。すると彼は「レギオン」と答えました。それは、「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」と語られています。「レギオン」というのは、ローマ帝国の軍隊における「軍団」を意味する言葉です。一軍団には六千人の兵隊がいたと言われます。「レギオン」という名前は、彼にたくさんの悪霊が取りついていることを意味しているのです。この男は主イエスに「かまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」(28節)と言います。孤立が良いという人にとっては、他人と関係を持つことそのものが苦痛です。何度も人間関係を築こうとしたけれども、その度に理解されず、かえって嫌われた経験を持つ人にとって、関係性を持つことは恐怖なのです。本心は社会の一員であろうとしていても、自分の努力では何ともできないところで苦しんでいるわけです。誰とも関係を持てない人も、誰からも理解されない人も、「わたしとあなた」という関係をキリストとならば持つことができます。礼拝の中で、祈りの中で、賛美の中で、聖書を読む中で、キリストとの交わりを経験できるのです。
主イエスとこの男との対話はいろいろなことを考えさせられます。そもそも主イエスとこの男とが話をしているように見えますが、実は主イエスと話をしているのは彼に取りついている悪霊です。28節で「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っているのもそうです。「頼むから苦しめないでほしい」というのは悪霊の言葉です。この男に取りついて苦しめている悪霊がそう言っているのです。

言葉を支配する悪霊
ここには、悪霊に取りつかれた人間がどうなるのかが印象的に示されています。この悪霊に取りつかれている男は、自分自身の言葉を語ることができなくなっています。この人の口から出る言葉は全て、彼に取りついている悪霊の言葉です。本当は主イエスに「自分を苦しめている悪霊を追い出してください」と言いたいはずなのに、口から出るのは「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」です。それは彼の本心からの言葉ではありません。悪霊が彼の心と言葉を支配しているのです。悪霊はこのように、私たちの心を支配し、私たちの本心からの言葉ではない、悪霊の言葉を語らせるのです。そういう目で自分自身の言葉を振り返って見たらどうでしょうか。私たちはいつも自分の本心からの言葉を語っているでしょうか。何かに支配され、捕われ、本当の思いとは違うことを語っていることはないでしょうか。いやむしろ私たちは、この人もそうだったと思うのですが、自分の本当の思い、本心が何なのかがそもそも分からなくなっていることが多いのではないでしょうか。自分の口から出る言葉が、自分の思いによる自分の言葉なのか、それとも悪霊に支配された悪霊の言葉なのかが分からなくなるのです。自分の本心が何なのか、自分が本当に思い、求めているのは何なのかが分からなくなってしまうのです。この人の中に「レギオン」と呼ばれるほどたくさんの悪霊が入っていたというのはそういうことを意味しているのだと思います。
映像で見る、ある権力者が支配する国での国民へのインタビュウーでは、判を押したように同じ答えしか返ってこない。背後に身体拘束をも辞さない強力な悪霊が支配しているのでしょう。強力なリーダーがいる組織ではリーダーに背かない配慮をする悪霊が支配しています。いわゆる忖度です。様々な違った悪霊に心が支配されていて、いろいろな思いが自分の中に混在しており、ある時にはこの思い、別の時には別の思いによって突き動かされてしまう。思いや言葉や行動が一つに統合されていない。それが嵩じればいわゆる「多重人格」ということになるのでしょうが、そこまで行かなくても、自分という人間の軸が定まらずにふらふら揺れ動いてしまうことを私たちは体験するのではないでしょうか。悪霊はそのように私たちにいろいろな思いを与えてあちらへこちらへと引き回すことによって私たちを支配するのです。その力は、情報化時代と呼ばれる今日ますます強くなっていると言えるでしょう。私たちは様々な情報に振り回され、欲望を刺激され、自分が本当に何を求めているのかも分からなくさせられています。卑近な例で、私たちはバーゲンに殺到するし、値引き、割引の誘惑にも弱く、買い過ぎて後で後悔させる悪霊もあるのです。自分がこうしたい、このように生きたいと思って歩むのではなくて、コマーシャルや情報番組によって自分の欲しいもの、したい事、さらには生き方までも示されて、それを自分の願いや思いと勘違いして右往左往している、それはまさに多くの悪霊に取りつかれたような有り様だと言うべきでしょう。悪霊に取りつかれたこの男の姿は、私たちにとって決して他人事ではないのです。

主イエスの足もとに座る
主イエスによって悪霊どもから解放され、救われたこの男は「服を着、正気になってイエスの足もとに座って」いました。「服を着た」というのは社会生活を取り戻したことの象徴です。墓場や荒れ野で人と関わりを持たずに生きることから、人と関わりを持って生きるようになったのです。彼は主イエスによって救われ、主イエスの「足もとに座る」者とされたのです。それは主イエスに従う者とされたということであり、主イエスのもとで、主イエスの言葉を聞き続ける者となったということです。彼が人生を取り戻したのは、主イエスによって、バラバラに引き裂かれていた彼の心が一つとされたからです。主イエスの足もとに座り、主イエスの言葉を聞き続けることによって、情報が溢れ、価値が多元化した社会にあって、私たちの心は一つに束ねられていきます。なにが自分の本当の思いなのか、なにが自分にとって本当に大切なのかが示されていくのです。今朝の旧訳聖書のみ言葉、詩編86編11節にこのようにあります。
11主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏
れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。
私たちは主イエスの足もとに座り、その言葉を聞き続けることによって「一筋の心」が与えられ、主イエスの御前で心が一つに束ねられていきます。そのことによってこそ、私たちは逃げ込んでいた墓場や荒れ野から戻って、人生を取り戻し、ほかの人と関わって生きていくことができるのです。

人生の回復
そのようにゲラサの人たちが願ったので、主イエスは舟に乗って帰ろうとされました。すると「悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願った」のです。しかし主イエスはこのように言われました。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。主イエスが彼に与えた使命は、主イエスと一緒に舟に乗ることではなく、ゲラサに留まり、自分の家に帰り、神が自分にしてくださったことを語ることでした。39節の終りには、「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」とあります。彼は主イエスが自分にしてくださったことを宣べ伝える者、証しする者となったのです。彼にとって、主イエスと一緒に舟に乗るよりも、ゲラサに留まるほうが困難であったに違いありません。ゲラサの人たちは彼の過去を知っているからです。彼が服を身に着けず墓場で暮らしていたのも、鎖でつなぎ足枷をはめて監視しなくては共同体の安全が守れなかったのもつい最近のことです。きっと彼はゲラサの人たちにたくさんの迷惑をかけてきたし、不安や恐れを与えてきたに違いないのです。その彼が服を着るようになり、正気になったように見えたとしても、それだけでゲラサの人たちは彼に対する不安や恐れを払拭できるわけではありません。彼が新しく生き始めているということが、ゲラサの人たちには分からないかもしれないのです。だからこそ彼は、ゲラサの人たちとの関わりの中で、かつての自分とは違うことを伝えていく必要があります。自分のどこがどう変わったかを説明することによって伝えるのではありません。主イエスが自分にしてくださったことをことごとく証しすることによって伝えていくのです。主イエスによって救われた者として、その救いを証しし、周りの人たちと関わっていく中で、本当の意味で「人生の回復」が与えられていきます。主イエスのもとで主イエスの言葉を聞き続けることによって「一筋の心」が与えられ、隣人と本当の交わりを持って生きていくことができるのです。情報が溢れ、価値が多元化した社会にあって、悪霊が力を振るっているように思える世界にあって、バラバラに引き裂かれそうになる私たちの心が、み言葉によって一つに束ねられ「一筋の心」が与えられます。そのことによってこそ私たちは自分の人生が確かなものとされ、隣人との交わりに生きていくことができるのです。お祈りします。

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