11/17説教「主による養い」

はじめに
今、政治の世界は時代の変わり目のように思います。アメリカの大統領選では次期大統領にトランプ氏が決り、世界はどのような変化が起きるか。日本に対する影響は。経済はどうなるか。またウクライナはどうなるか。ということに注目しています。そして日本は、衆議院選挙で与党が過半数を割り、石破政権はどうなるか。世界を取り巻く状況は混沌としています。しかし世界の歴史は太古の時代から同じように力が支配している状況は変わらないのです。力は政治力であり軍事力であり、経済力であり、文化の力でしょう。
今朝与えられている新約聖書のみ言葉は、ルカによる福音書9章7節から17節までです。前半はヘロデについて書かれており、ヘロデは、ガリラヤにおける主イエスの活動、神の国の宣べ伝え、そして弟子たちを福音伝道に派遣しているその動きに戸惑い、主イエスとは、「いったい、何者だろう。」とつぶやいています。そして後半は五千人に食べ物を与えた奇跡の話しです。二千年前の主イエスと弟子たちの生きた時代も今の世界と同じように力が支配する世界の中での出来事です。早速、み言葉の恵みに与りましょう。
戸惑うガリラヤ領主ヘロデ
主イエスの噂はガリラヤ中に広まっていきました。そしてそれが、ガリラヤを支配していた領主ヘロデの耳にも入ったのです。今朝の箇所の7節以下は、主イエスのことを聞いたヘロデが覚えた戸惑いを語っています。ヘロデは何を戸惑ったのでしょうか。それは、主イエスについて、いろいろな人がいろいろなことを言っていたからだ、ということが7、8節に語られています。「イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もいれば、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである」(7節、8節)とあります。このヨハネは洗礼者ヨハネのことです。9節でヘロデ自身が語っているように、ヨハネは獄中でヘロデの命令によって首をはねられ、殺されました。ヨハネはヘロデによって首をはねられたのです。しかし民衆は、その後評判になってきた主イエスに、この洗礼者ヨハネの再来を見ました。迫りくる神の怒りを説き、悔い改めて罪の赦しを得よと語った洗礼者ヨハネと、神の国、神のご支配の到来による救いの福音を説き、その現れとしての奇跡を行なっていた主イエスとに連続性を感じたからです。そのため人々は主イエスのことを、ヘロデが首をはねたヨハネが生き返って来たのだ、と噂していたのです。その他にも、「エリヤが現れたのだ」と言っている人がいました。旧約聖書列王記上に登場するエリヤは、イスラエルにおける最大の預言者の一人ですが、彼は生きたまま天に昇り、そして救い主が到来する前にその道を備える者としてもう一度地上に来る、と旧約聖書に語られています。主イエスはそのエリヤの再来だ、と言っていた人がいたのです。このように主イエスについていろいろな噂が飛び交っていました。しかし、現実主義者であるヘロデは、自分が首をはねたヨハネが生き返ってきた、などという噂に振り回されて恐れたりはしていません。彼は、イエスというこの噂の主(ぬし)はいったい何者だろう、という問いを抱いたのです。それが領主ヘロデの「戸惑い」です。「イエスとは何者か」それを知りたい、と彼は思ったのです。
ヘロデ大王と息子のヘロデ・アンティパス
ところで、新約聖書にはヘロデという名前の人物が何人か登場するため、どのヘロデなのか混乱することも少なくありません。一番有名なヘロデは、マタイによる福音書のクリスマス物語に出てくるヘロデ王だと思います。降誕劇の一つの場面としても、いわゆる三人の占星術の学者たちとヘロデ王の対面の場面はよく知られています。また、ヘロデ王は幼子イエスを殺そうとしますが、イエスが見つからなかったのでベツレヘム一帯で二歳以下の男の子を一人残らず殺した、と伝えられています。このように新約聖書ではヘロデ王は残虐な王として知られていますが、その一方で「ヘロデ大王」と呼ばれる偉大な人物でもありました。その時々で権力を握ったローマ皇帝と良好な関係を築き、「ユダヤの王」となった巧みな政治家であり、また優れた行政官でもあったのです。エルサレム神殿の再建は、このヘロデ王によるものです。当時のユダヤも強大なローマ帝国に支配され、その中でユダヤの王になったということは、ローマに対して相当気を使い権力を維持していたということです。今のアメリカ・中国・ロシアなど軍事・経済で支配する世界にあって独立を維持する苦労と変わらないのです。しかし、ヘロデ王は家庭内の不和に悩まされ続けました。彼は絶えず身内からの謀反を警戒し、疑いの目で家族を見なくてはなりませんでした。そのために二人の息子を処刑し、さらには自らの死の5日前にも長男を処刑したのです。権力を独占する者の姿です。さて、そのヘロデ大王の子どもの一人が、冒頭7節に出てくる「領主ヘロデ」であり、ヘロデ・アンティパスと呼ばれます。ヘロデ大王の最後の遺言状によって、アンティパスの兄ヘロデ・アルケラオスに王国が継承され、アンティパスにはガリラヤの領土が与えられました。7節で「ヘロデ王」ではなく「領主ヘロデ」とあるのは、アンティパスが王ではなく領主であったことを正確に記しているからです。王ほどではないとしても領主も十分な権力を持った権力者であり、ガリラヤの支配者です。しかし彼がその権力に満足できたとは到底思えません。いつかは自分が得るはずだったヘロデ大王の領土と遺産のすべてを手に入れ、絶大な権力を握りしめたいという野望を持っていたのです。彼は、より大きな権力を手に入れ、父ヘロデ大王の領土とその遺産のすべてを手に入れるためには、自分の領土の支配が安定していなくてはなりません。自分の野望を実現するために、ガリラヤにおける自分の支配を脅かすものに対して細心の注意を払っていたのです。彼にとって最大の脅威は、自分の支配の及ばないことが、彼の領土で起こることにあったのです。ヘロデ・アンティパスは主イエスのところに多くの人たちが集まり、主イエスに従う人たちが出てきたことに、心穏やかではいられなかったのです。自分の領土で、自分の支配が脅かされることへの不安や恐れがヘロデ・アンティパスの戸惑いを引き起こしたのです。
主イエスとは何者か
「主イエスとは何者か」というヘロデの問い、「主イエスを見たい、知りたい」というヘロデの願い、それは私たち一人一人の問いであり願いでもあります。そしてこの問いは必然的に「主イエスを見たい」という願いとなるし、主イエスを見る、主イエスと出会うことによってこそ主イエスとは何者かが分かるのです。このヘロデの問いと願いはこのように私たちの問いであり願いです。そしてこの福音書を書いたルカは、17節までの箇所においても、またその後の所においても、この問いを意識しつつ語っているのです。ルカがここに「主イエスとは何者か」という問いと、「主イエスを見たい、知りたい」という願いを記しているのは、ヘロデの口を通してむしろ私たちの問いと願いを明らかにし、そしてその問いと願いに主イエスがどのように答えておられるかを示すためです。そういう意味で7節から9節の「ヘロデの戸惑い」の記事は、この福音書の流れにおいて単なる周辺的なエピソードではありません。むしろこの後の所を読んでいく上での重大な鍵がここに示されているのです。
神に祈る時を
さて10節以下には、弟子たちのことがここでは「使徒たち」と呼ばれています。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味です。まさに彼らは主イエスの使徒としての働きの報告をしたのです。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」とあります。主イエスはその彼らを連れて、「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」のです。「自分たちだけで、退いた」という言葉がここでは大切です。自分たちだけとは、群衆から離れてということです。主イエスはここで、ご自分と十二人の弟子たちだけの時を持とうとされたのです。信仰の歩みの中で、神がすばらしいみ業を行なって下さった時、神の恵みのみ業のために自分が用いられたという喜びを感じる時、そのような時こそ、私たちは静かに神の前で祈ることが大切です。それを怠ると、私たちは知らず知らずの内に、自分の力で事が成されたように錯覚し、自分を誇り、神ではなく自分に頼るようになるという間違いに陥ってしまうのです。ところが11節には、「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」とあります。弟子たちと静かな時を持とうとした目論見は妨げられてしまったのです。11節後半には「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」とあります。主イエスは、み言葉を求め、苦しみからの救いを求めてやって来た人々を追い返すようなことはなさらず、彼らにみ言葉を語り、癒しをなさったのです。
弟子たちを用いて行なわれた奇跡
そうしているうちに日が傾いてきました。十二人の弟子たちは主イエスに「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と言ったのです。この12節から、大きな奇跡の物語が始まります。主イエスが、男だけで五千人という、ですから全部ではもっとずっと沢山の人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹になさった、という奇跡です。この奇跡の最大の特徴は、これが弟子たちの手を通して、また弟子たちが持っていたものを用いて行われた、ということです。弟子たちに対して主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。五つのパンと二匹の魚、五千人以上の人々の前では、それが何になると言うのでしょう。ほんのわずかの腹の足しにもならない。何の役にも立たない、それが、弟子たちの持っているもの、その力の現実なのです。しかし主イエスはこのことを確認した上で弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして 座らせなさい」とおっしゃいました。そして、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。この奇跡は、弟子たちの手を通して、また弟子たちが持っていたものを用いて行われました。人々を組にして座らせたのも、パンと魚を配ったのも弟子たちです。そして配られたのは弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚です。これは主イエスがなさった奇跡であり、主イエスにしか出来ない業ですが、しかし主イエスは群衆に対して直接は何もしておられません。全てが、弟子たちを通して行われたのです。そういう意味でこの奇跡には、十二人の弟子たちが主イエスによって力と権能を授けられて派遣され、福音を告げ知らせ、病気を癒したというあの6節までの話と通じるものがあります。主イエスが弟子たちを用い、派遣して、五千人を超える人々の飢えを満たし、満腹にするという恵みのみ業を行なって下さったのです。
主イエスはまことの羊飼い
この五千人の養いの奇跡は、先ほどの「主イエスとは何者か」という問いに対する答えを語っています。「主イエスとは何者か」という問いを誰よりも深く抱いているのは、実は弟子たちなのです。「主イエスとは何者か」という問いは、主イエスとの関わりが密接になればなるほど、より深まっていきます。弟子たちは、主イエスと出会い、従う者となり、今主イエスと共に歩んでいます。主イエスによって遣わされてそのみ業のために用いられるというすばらしい体験もしました。そのような中で彼らは、「主イエスとは何者か」ということを次第に深く問われていったのです。弟子たちはこのことを通して、主イエスが、自分たちをも含めた多くの人々の空腹を満たし、その命を養い育んで下さる方であることを体験したのです。今朝、与えられた旧約聖書の箇所は詩編の23編です。有名な箇所です。主なる神が私の羊飼いであられ、私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに導き、魂を生き返らせて下さる、と詩編の作者は歌っています。そのまことの羊飼いである主は、私を苦しめる者を前にしても、私のために食卓を整えて下さり、私を豊かに養って下さる、と歌っています。五千人の養いの奇跡によって弟子たちは、主イエスがこのまことの羊飼いであられることを体験したのです。主イエスはこの奇跡を通して、「主イエスとは何者か」という問いの中にある弟子たちに、「わたしこそあなたがたのまことの羊飼いである。あなたがたを豊かに養い、育む救い主なのだ」と示して下さったのです。しかも主イエスはその奇跡を、弟子たちの持っているものを用いて、また弟子たちの手を通して行なって下さいました。弟子たち自身は何の力もない者たちなのに、主イエスは彼らを、多くの人々を養う恵みの食事の給仕として用いて下さったのです。弟子たちはこのことによって、まことの羊飼いであられる主イエスを目の前に見たのです。それと共に、主イエスがその羊飼いとしてのみ業を自分たちを用いて行なって下さることを体験したのです。
主イエスの羊として生きる
私たちも、この弟子たちと同じようにして与えられていくのです。つまり私たちが主イエスに従い、主イエスと共に歩み、主イエスに仕えていく中でこそ、つまり主イエスの弟子として歩むことの中でこそ、恵みに満ちたお姿を見ることができるし、その恵みの中で用いられることを体験することができるのです。主イエスは、私たちの小さな宝を何倍にもして下さるのです。そのことを私たちは何度も体験しているのです。私たちの至らない知恵と努力を何倍、何十倍に変えて下さり、主の御用に用いて下さいます。それを知っています。しかし、ガリラヤの領主ヘロデはそれを知ることができませんでした。彼は「イエスとは何者だろう」という問いを最後まで戸惑いの中に持ち続けたのです。「イエスに会いたい、見たい」という願いは、主イエスが逮捕され、尋問を受ける中で、23章6節以下で適えられました。しかし彼がそこで出会ったのは、何を問うても一言もお答えにならない主イエスでした。おそらくヘロデは、「お前はいったい何者だ」という以前からの疑問を主イエスにぶつけたのでしょう。しかし、主イエスの弟子となって従っていくことのない中では、その問いへの答えは最後まで与えられないのです。ヘロデはずっと主イエスに会って、主イエスが行う「しるし」を確認したいと思い続けていたのです。その「しるし」によって、主イエスが自分の支配を本当に脅かす存在なのかを確かめようとしたのです。しかし主イエスは「しるし」を行いませんでしたし、何も話しませんでした。ヘロデは、そのように何もせず、何も話さない主イエスを見ると、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱した」のです。これなら自分の野望が妨げられることはない、という傲慢が引き起こす嘲り、侮辱なのです。なんとしても自分の領土を支配し続けようとするヘロデの思いが、主イエスに対する嘲りや侮辱となって現れたのです。
主イエスが何者であるかが本当に分かる時、私たちは、自分自身が何者であるかが分かるのです。自分が、何の力もない、どうしようもない罪人だけれども、神の独り子イエス・キリストが自分のために死んで下さったほどに神に愛されており、神がその愛の中でこの自分を養い、育み、そして用いて下さることが分かり、そのような者として新しく生き始めることができるのです。主イエスを信じ、従っていく信仰の歩みの中で、私たちも同じことを体験していきます。その体験の中で、主イエスとは何者かを示され、まことの羊飼いである主イエスによって養われ、育まれ、憩いの水のほとりに伴われ、魂を生き返らせていただきながら生きる本当の自分を見出していくのです。お祈りします。

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