はじめに
今朝、私たちは就眠者記念礼拝を共に守っています。今朝の礼拝を、天に召されたご家族、教会員を想いつつ守ります。礼拝の後に、今年も大磯教会就眠者名簿を読み上げます。名簿はご出席の皆様にお渡しいたしますが、今年は118名の方々と就眠された6名の教職を覚えさせて頂きました。昨年の就眠者記念礼拝から3名の方々が、加えられました。O・E姉、F・T兄、S・S姉の3名です。O・E姉は今年の1月9日に天に召されました。O・E姉は、2006年のイースター礼拝に夫のM兄と共に大磯教会で洗礼を受けられ、M兄が天に召されてからも礼拝を守っておられましたが、その後、介護施設に入所されておりました。ちょっとおしゃれで、また俳句を詠まれることが好きな方でした。F・T兄は私の子供のころからの平塚富士見町教会の先輩で、共に日曜学校の教師として奉仕をした仲間でした。私が大磯教会に赴任した折、在籍していた湘南教会から大磯教会へと転入会され多くの奉仕をしてくださいました。病気で通えなくなり湘南教会に戻りましたが、今年の3月29日に天に召されました。そしてS・S姉はかつて夫と共に伝道者として教会で牧会された方で、伝道と信仰生活における労苦をされた方でしたが、そんなことをおくびにも出さない、明るさとやさしさのある方で、バイクに乗って礼拝に来られていたことを思い出します。そしてこの名簿に記載されない、皆様のご親族、友人、親しい方がこの一年で天に召された方がおられると思います。Y・S姉のご長女が突然天に召された知らせも悲しいものでした。私たちは皆、愛する人、親しい人との別れを経験しています。そして、愛する人を失った悲しみ、淋しさを味わっています。今朝、私たちは、その悲しみ、淋しさを、今一度、噛みしめています。しかし、また同時に、私たちは、この礼拝で、心の奥底に、大切にしまっている、幸いな記憶をも、想い起こしているのです。今は天にある、兄弟姉妹が、そして父が、母が、妻が、夫が、そして子供が、私たちにしてくれたこと。語りかけられた愛の言葉、その仕草。心の奥底に大切にしまっていた、それらの記憶が、浮かび上がってくる時、私たちは、悲しみ、淋しさを超えて、懐かしい温もりを感じるのです。そして、それは、愛する人たちが、この世に在った時、主イエスと出会い、神の愛に包まれ、守られ、主イエスの愛が、私たちをも包んでいくのです。
就眠者記念礼拝とは
ところで、就眠者記念礼拝は、大磯教会の信仰の先輩たちを、ただ偲ぶために行う礼拝ではありません。わたしたちが礼拝するのは主なる神です。就眠者記念礼拝は、先達の足跡を偲びつつ、今は地上にいるわたしたちも、やがて神の国の交わりの中に加えられる希望を新たにする時なのです。そのためにも、わたしたちは聖書の御言葉に聞くのです。先輩たちの信仰が養われたのは、何といっても聖書の御言葉です。今年の就眠者記念礼拝では、ルカによる福音書に記された最後の晩餐の記事を通して、御言葉に聞くことにしました。この後、これは洗礼を受けた信者に限りますが聖餐式を行いますけれども、聖餐式の原形となった聖書の御言葉です。
最後の晩餐
さて、この聖書に描かれた食事ですけれども、これは最後の晩餐と呼ばれています。最後の晩餐を描いた有名な絵画にレオナルドダヴィンチの絵画がありますが、実際には大きな食卓と椅子が用意されていたわけではありません。まして弟子たちが横一列に坐って食事をしたわけではありません。ダビンチならではの構成でしょう。当時のユダヤでは椅子に腰かけて食事する習慣はなかったのです。皆寝そべって片肘ついて食事をしたと言われますので、キリスト教が西洋文化に浸透していく中で生み出された作品です。
さて、この聖書に描かれた食事ですけれども、最後の晩餐と呼ばれるように、これは地上での主イエスの最後の食事となりました。なぜなら、この夕食が終わってから1日経たないうちに、イエス・キリストは十字架で死なれたからです。そのことが分かっていたのは、主イエスお一人です。16節の「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」。18節の「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」という主イエスの言葉は、これが最後の食事になるということの表われです。12人の弟子たちは、まさかこれが最後の食事になるとは思ってもみませんでした。主イエスお一人だけが、これから何が起こるかを知っていたのです。主イエスと弟子たちとの最後の晩餐は、過越の食事という特別な食事でもありました。過越の食事とは、かつて、奴隷のように重労働を余儀なくされていたイスラエルの民が、エジプトから脱出したことを記念する食事でした。メインの料理は小羊を丸ごと焼いたものです。この小羊の血を玄関に塗ることで主の災いが過ぎ越す。だから過越の食事です。しかし、エジプトから脱出しなければなりませんので、のんびりは出来ません。種無しパンといって酵母を入れない、すなわちパンが膨らむのを待つ時間のないまま食べて急いで家から出たのです。主イエスが備えられた過越の食事は、イスラエルの解放を思い出す食事なのです。15節で主イエスは、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と語られています。ここで言う「苦しみ」とは、ただの苦しみでなく、十字架の苦難と死のことです。わたしたちを救うために主イエスご自身が、過越の小羊として十字架に死なれました。そういう覚悟を持っての食事ですけれども、注目したいのは、主イエスは弟子たちとこの食事を共にしたいと「切に願っていた」と言われていることです。この「切に願う」とは強い言葉で、直訳すれば「願いに願う」となります。主イエスはそれほどの切なる願いをもってこの過越の食事にのぞまれたのです。主イエスは弟子たちに教えを示すために、そしてこの食事が後の教会で記念されるために共に食事することを切に願われたのです。
主イエスは弟子たちと共に過越の食事をとりつつ、今記念している過越が成し遂げられ、完成する時が来ることを、しかもそれまでは過越の食事をすることはないとか、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまいと言うことによって、その完成が差し迫っていることを弟子たちに伝えようとしておられるのです。その過越の完成のために、主イエスは今、十字架の死への道を歩もうとしておられるのです。過越の小羊が犠牲となって死ぬことによってイスラエルの民の解放、救いが実現したように、罪に支配されその奴隷状態に陥っている生まれつきの人間がその支配から解放され、罪赦されて新しく生きられるために、神の独り子であられる主イエスが、まことの過越の小羊となって死んで下さるのです。過越のみ業は主イエスの十字架の死によって今やまさに成し遂げられ、完成しようとしています。そのことを教え示すために、主イエスはこの過越の食事を、十字架の死の前の晩に、弟子たちと共にすることを切に願い、その席を整えさせたのです。
聖餐の制定
今朝のこの箇所で、実は18節までの食事と19節以下の食事は違うということにお気づきでしょうか。16節で「この過越の食事」と言われるように、18節までが過越の食事であって、19節からがわたしたちの聖餐式の原形となる最後の晩餐なのです。その意味では、18節と19節の間に段落があるものとして読んでいただいた方がいいのです。ところで、聖餐式では主の聖餐制定の言葉が読まれます。その聖書の言葉は、コリントの信徒への手紙(1)11章23節以下ですけれども、歴史的には福音書が書かれるよりずっと以前に書かれたものです。パウロが「わたし自身、主から受けたものです」と言っているのは、実際には使徒たちから聞いていた教会の言葉です。その使徒たちから聞いた言葉を、パウロが聞いたのとほとんど同じ言葉でルカは記しています。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」と。そして「新しい契約」があるということは「旧い契約」があるということです。イスラエルのエジプトからの解放を記念する過越の食事は、まさに神がイスラエルの民と結んだ旧い契約の食事でした。聖餐式では牧師がそう言ってパンと杯を配りますが、これは信仰者でなければ何のことか分からないと思います。よく聞かなければ、血が配られてしまうように思ってしまいかねないのです。事実、明治時代の始めに宣教師たちがキリスト教を伝えた時に、悪意を持った人は、耶蘇は密かに血を飲んでいると言いふらしたようです。
そのように分からないものをいただいても意味がないのです。どんなご馳走かと思って眺めても、配られるものは小さく切り分けた食パンであり、小さな杯に入れられたノンアルコールのぶどう液です。おそらくすべて合わせても1000円かかっていないものが、分けられるのですから、お金の面からすれば、高価なものではありません。ただ、コロナ禍以降、パンはセロハンの子袋に入ったウエハスのように変わり、ブドウ液はコンニャクゼリーの容器のようになって、これが相当な価格ですから、そろそろ元にもどそうかどうかと役員会でも話しています。しかし、いずれにしても、信仰者にとっては、どんなご馳走よりもはるかに価値あるものとして聖餐のパンと杯を受け取ります。罪深いわたしのために主イエスが十字架で死んでくださった。過越しの小羊の血によるイスラエルのための旧い契約ではなく、主イエスの流された血によって、信じる者すべてと結んでくださる新しい契約の証なのです。ですから聖餐のパンと杯をいただくのは、洗礼を受けておられる方だけです。そうでない方はおいてきぼりにされていると思われるかもしれません。でも、それは差別ではなく、それほど聖餐を大切にしているのだと理解していただきたいと思います。加えて、わたしたちの信仰の先輩たちは、説教で聞く御言葉と共に、聖餐において見て味わえる御言葉によって、信仰の生涯を支えられてきたということに思いをいたしたいのです。地上において神の国は完成していませんが、聖餐式は神の国の食卓を表したものです。それにしては質素だといえますが、しかしこれは、神の国に備えられた食卓が地上で味わうことのできるささやかな前菜として捉えていただければよいと思います。神の国の晩餐会にどんなご馳走が出てくるのかは、聖書に書かれていないので分かりません。ヨハネの黙示録を読んでも、どんなメニューなのかは、書かれていないのです。しかし、わたしたちが愛する信仰の先輩は知っているはずです。主イエスと顔と顔とを合わせて、神の国の食卓を味わうことができる。ですから、わたしが思う以上に、主イエスを信じて、聖餐の食卓を囲む仲間に加わってもらいたいと願っている筈です。信仰をもって聖餐に与る、神の国の前菜を食べた後に、メインディッシュを食べるべきなのです。そのためには、イエスは主であると心で信じ、口で公に言い表して、洗礼を受けなくてはならないのです。
主イエスが備えてくださった過越から聖餐に至る食卓は、神の国への招きの食卓です。そのために主イエスは十字架で死に復活してくださいました。そして、主イエスによって救われたといっても、聖餐の食卓がそうであるように、地上において私たちがいただく救いはほんのわずかなものです。しかし、そのわずかなものから大きな望みと喜びへの通路となります。信仰の先達が歩んだ道を歩んで、神の国の食卓の交わりに生かされたいと願うのです。
無条件の贖罪
今朝の箇所の後半、22節でこう記されています。「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。呪いの言葉を投げつけているような強い表現です。主イエスは罪を見過ごしにはなさいません。罪を指摘し、ユダに審判を下しています。しかし、その裁きよりも先に救いのパンと杯を与えて、ユダの主イエスを引き渡した罪を赦しています。これが十字架の救いの業です。十字架は、罪を見過ごして黙認するという救いではありません。悪いことを水に流すこと、悪事を忘れることは、十字架と似ているけれども異なります。十字架は私たちの罪を教え指摘します。ユダのような仕方で人間の命を売り飛ばすことは罪なのだと教えます。同時に十字架は、ユダの代わりに神の子が裁かれることで、ユダの罪を肩代りして赦す、救いの御業です。主イエス・キリストの贖罪とは、このような無条件の赦しです。
へりくだって神と共に歩む
今朝与えられた旧訳聖書のみ言葉は、ミカ書6章8節です。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行ない、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」
「へりくだって神と共に歩む」ことだと預言者ミカは言うのです。それを求める私の神は、ご自身へりくだって、まず私たちと共に歩む歩みを始めてくださいました。へりくだらないと神のおられるところに行かれないのです。主イエスは、そのこころを尽くして私たちの神になりたがってくださったのです。ここにこそ私たちの依るべきただ一つの拠点、救いがあるのです。
祈ります。