はじめに
今年も12月になりました。今日からアドベントに入ります。この期節、私たちはクリスマスに誕生された主イエスを、改めて私たちの中に信仰をもって迎え入れようと準備します。昨日の土曜日には今年も「クリスマスリース作り」が大嶋長老を中心に楽しく行われました。子供さんが4人と大人が教会員を含めて7~8人が参加できてよかったと思います。そして今朝の礼拝には一本目のローソクが灯されました。しかし、アドベントの期節は、同時に、すべての最後に再び到来される主イエスを待つ準備の時でもあります。そこで、アドベントの礼拝には、主の誕生を預言し約束する御言葉が読まれるとともに、終末の主の来臨を告げる御言葉に耳を傾けなければならないのです。今朝のローマの信徒への手紙13章11~14節もそうした御言葉の一つで、アドベントの最初の主日礼拝のテキストとされてきました。早速、御言葉の恵みに与りましょう。
終わりの時が近づいている
13章11節の冒頭に「更に」という言葉があります。これは直前の8節から11節で著者パウロが「隣人を自分のように愛しなさい」と語っていることを受けているのです。「更に」主イエスによる救いを受けているあなた方は、なお隣人愛に励まなければならないけれど、更に「今がどんな時であるかを知っている」あなたがたは、なお一層、隣人愛に励まなければならないと言っているのです。それでは「今がどんな時」なのか。この「時」という言葉は、ギリシャ語の「カイロス」という言葉です。何時何分という通常の時を刻む意味の「クロノス」という言葉とは違い、「特別な時」とか「決定的な時」を表わす言葉です。今朝のこの箇所の「時」とは、「再臨の時」「終わりの時」「救いの完成の時」を表わしているので、「カイロス」という言葉なのです。そして、パウロは「救いは近づいている」ので「眠りから覚めるべき時が既に来ている」と呼びかけています。この「再臨の時」「終わりの時」が近づいているからこそ「眠りから覚めて」「隣人を自分のように愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」という隣人愛を勧めているのです。パウロは、この再臨が近いことを切迫感をもって待ち望んでいました。再臨は、この世の救いの完成の時なのです。
救いとは何か
しかし、現代において、この再臨の時、終わりの時は遅いと感じられるばかりか、いや、来ないのではないかとも感じられます。現代人にとって「救い」とは何でしょうか。現代において「救い」はあるのでしょうか。皆さんにとって救いとは何なのでしょうか。どのようにして信仰生活が始まったのでしょうか。
そもそも私たちが「終わりの時」を意識するのはどんな時でしょうか。いつもは忙しくあるいはだらだらと漫然と過ごしているかもしれない私たちが「終わりの時」を意識するのはどんな時でしょうか。
死の受容
元滝野川教会牧師で聖学院大学の学長・理事長を長く務めておられた大木英夫氏はこの箇所の説教で、ここには「終末論と倫理」の問題があると『ローマ人への手紙―現代へのメッセージ』という中で語っています。大木氏は、死の告知の問題を取り上げ、アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー・ロスの言葉を引用しながら語っています。「わたしたちすべては遅かれ早かれ死ななければならないのですから、死の受容ということは人として到達あるいは成就しうるもっとも現実的な事柄です」と語っています。このキューブラー・ロスという人は、200人の末期がん患者にインタビューを行ない、死をまじかにした人の心がどのように変化していくかを調べています。彼女は、人は死を受け入れるまでに5段階のプロセスを通ると言っています。参考にご紹介します。
第1段階は、自分に死がまじかに迫っていると知ると、ほとんどの人が「違う!それは間違っている!」と事実を否認します。
第2段階は、怒りのステージです。「どうしてなんだ!」という怒りの反応に変わります。やりたいことがたくさんあるのにと、他人に対する羨望、恨み、そして怒るのです。
第3段階は、取り引きです。運命や神さまに対して「良い行いをするので寿命を伸ばしてください」と取引を行ないます。
第4段階では、抑うつのステージです。身体が次第に変化してくるので、迫りくる死をまじかに感じ、絶望感をおぼえ、抑うつ状態となります。これはいわば患者が愛した者すべてに対する喪失への心の準備だといいます。
第5段階は、「受容」です。段階を経てきた患者は、自分の運命について、抑うつも怒りもないステージに至るといいます。やがて訪れる死という現実を次第に受け入れるようになると言っています。
もう一つ、オーストラリア人のフロニー・ウエアという長年緩和ケアをしてきた人の例を紹介します。彼女は、死をまじかに控えた人々が彼女に話した「死ぬ瞬間の後悔」について語っています。彼女によると、死ぬ瞬間の後悔は次の5つに分けられたそうです。
1 自分に正直な人生を生きればよかった
2 働きすぎなければよかった
3 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
4 友人と連絡を取り続ければよかった
5 幸せをあきらめなければよかった
以上ですが、興味深いのは、「もっとお金を稼げばよかった」という人はいなかったようです。
大木氏は、次のように言っています。死をまじかにした「告知」ということは、科学技術の発展によって、現代の人間、社会、文明、そして思想も政治も、人間の有限性を忘れ去り、無限性に酔いしれている時代の中で、まさに「夜はふけ、日は近づいた」という覚醒と自覚とを与えますと語っています。そして、また先ほどのキューブラー・ロスの言葉を引用しています。
「死の受容と生きようとする積極的態度とは互いに他を排除し合う矛盾ではありません。むしろ死の受容は生の享受を高め、生きる意志を強めるというべきです」と。ここに、終末論と倫理との結びつきの可能性が示されていると語っています。この言葉は、ここにパウロが教えている生き方を現代に再現する道を示しているように思われるのです。
キリストを身にまとう
パウロは、今、「救いは近づいている」、つまり、すべての人に天の国、神の支配が近づいている。「夜は更け、日は近づいて」います。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」と勧めています。「光の武具を身に着ける」とは「主イエス・キリストを身にまとう」ことです。主イエスに守られながら、主イエスと共に、主イエスに従って人生を歩むことです。私達キリスト者は、強固な光の武具、イエス・キリストを身に着けて戦っていかねばなりません。「主イエス・キリストを身にまとう」とはどういうことでしょう。第一に「それは具体的には、洗礼を受けることを意味しています」洗礼を受けること自体が、すでに眠りから覚めていることなのです。主イエスに結ばれているのです。第二に「すでに洗礼を受けた人でも、繰り返しキリストを着なさいということです」。闇の世に倣うのでなく、品位を持って歩み続けるためにです。第三に「光の武具を身に着ける」ことです。この世の誘惑の中で、また外からの攻撃や試練の中でキリストを身にまとっている」ことが、私たちを守ります。第四に「礼服を着ることでもあります」。主イエスは、終末の時を婚姻の席の招きにたとえています。肝心の時に礼服を着て来なかったために追い出されるという話のように、しっかりとキリストを身にまとうのです。第五に「犯した罪とその結果である心の内なる深い傷口に包帯を巻くように」キリストを身にまとうことによって内なる破れも、悩みの傷口も癒されるのです。
私たちは何を身にまとって神の前に出ることができるでしょうか。「主イエス・キリストを身にまとう」ほかありません。それ以外に神の御前に私たちは立つことができないのです。そしてその主イエスを着ることが赦されているのです。そして、「身にまとう」ということは、まず脱がなくてはなりません。自己中心という古い着物を脱ぐのです。信仰生活は、脱ぐことと着ることに尽きます。私たちは脱がないで、重ね着するわけにはいかないのです。
パウロが「キリストを着る」ということを説明している聖書箇所がもう1か所あります。それはガラテヤの信徒への手紙3章23節以下です。26節から28節までをお読みします。
26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27洗礼を 受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28そこではもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ている」とあります。
「キリストを着る」とは、自分の罪を自覚し、とても神さまの前には出られないと思っているような人にも、主イエスキリストという衣服を着せていただき、それで着飾って神の前に出られるようになるということです。
先ほども言いましたが、「キリストを着る」に相応しい主イエスの譬え話がマタイによる福音書22章9~14節にあります。ある王が王子のための婚宴を催したが、欠席者ばかりであったので、王は、僕に誰でもよいから連れて来なさいと命じました。そこで多くの人が招かれましたが、一人だけ礼服を着ないで来ていた人を王は怒って、その無礼者は外に放り出せと言ったというお話です。ある熱心な信徒が、礼服を持っていない人はどうするんですか、と質問されたことがありましたが、それは礼服は誰にも用意されているんですと答えましたが、着て行けるような式服が無かったので心配されたのでしょうね。もっともな質問ですが、しかし、そういう問題ではないのです。これは皆が同じように祝宴に招かれているのに、一人だけはその祝宴に相応しくない姿であったということです。私たちも、自らは神の前には相応しくない者であるのに、キリストという礼服を着せられた者として、神の前に出てゆくことが許されているのです。キリストを着るということは、主イエス・キリストによる福音を受け入れたことであり、それまでは律法が私たちをキリストに導く養育係になってくれたのです。養育係は幼い子供を危険等から守るための付き添いの役割です。イエス・キリストが来てくださった時までは立派に養育係としての役割を果たしてくれた律法は、今や新しく現れたキリストの福音に取って代わられたことになるのです。キリストを着ていないと、いつもきまって自分の着物が問題になります。キリストと言う着物は、また光の武具だとパウロは言っています。この世の闇と戦う力です。
アウグスティヌスの回心
今朝のローマの信徒への手紙13章11~14節について説教する多くの人が触れることは、この箇所がアウグスティヌスの回心にきっかけを与えた箇所だということです。32歳のアウグスティヌスが霊肉の葛藤でのたうち回る日々の中で、とある庭園において「取って読め、取って読め」という歌声のような声を聞き、聖書を手に取り、最初に目にとまった箇所を読んだのがこの箇所だったというのです。彼はこの箇所を読み、それによって回心したと『告白』という本に記されています。アウグスティヌスの悩みは肉欲、特に女性の問題であったと言われています。それで、この13,14節に打たれたと言われます。私も読んだとき、中世の最大のキリスト教神学を体系化した偉い人と思っていたので、少なからずショックを受けました。しかし、実際には、アウグスティヌスは一般に思われているほど女性関係が乱れていたわけではなかったようなのです。『告白』に記されているところでは、母モニカが承認しなかったが、最初の女性との結婚は、十数年続き、その女性は一人の子供をアウグスティヌスのもとに残して、別れていったのです。彼女はその後、生涯他の男と交わらず、修道院で残りの日々を過ごしたとあります。その後アウグスティヌスは母が許した別の婚約者と結婚しようとしますが、相手の女性がまだ若かったので二年待つことにしました。「ところが、わたしは不幸にも、この女をまねることさえできなかった」。別れていったその女性の誠実さを自分はまねることができなかったと言うのです。「そして求婚の女性を迎えるのは二年後であったから、それまで待つことにたえられず、別の女性を引き入れた」。これがアウグスティヌスを悩ませた問題でした。ここに示された欲望に対する自分の弱さにアウグスティヌスは苦しんだのです。それから「取って読め」の声を聞くのです。ローマの信徒への手紙13章13,14節の御言葉との出会いがあったのです。「この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである」。「主イエス・キリストを身にまといなさい」という御言葉は、彼にはそのまま福音だったのです。「キリストを身にまとえ」ということは、それによって外からの試練から身を守るようにというだけではないのです。」すでに犯した罪とその結果である心の内なる深い傷口をそれによって赦され、癒されよ、ということでもあったのです。それは、平安の内に生き返らせてくださる神の慰めだったのです。主イエスを身にまとうことは、傷口に包帯を巻くように、それによって内なる破れも、悩みの傷口も癒されるのです。私たちも主を着ることで赦され、癒されて、この歩みを歩みたいと思います。この歩みを、終末の主の到来を待ち望みつつ今日を生きる私たちのアドベントの歩みにしたいと思います。 祈ります。