「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御(み)心に適う人にあれ」(14節)。
クリスマスの夜、天の大群は神を賛美して歌いました。皆さん、ちょっとイメージしてみてください。天を埋め尽くすほどの天使の群れとまばゆい輝きだったのではないでしょうか。けれども、その光景がだれにでも見え、天使の声がだれにでも聞こえたわけではありません。羊飼いたちにしか見えず、聞こえなかったのです。それを見、お告げを聞いた羊飼いたちは、ベツレヘムへと向かいました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」イエス・キリストを探し当て、「主が知らせてくださったその出来事」(15節)を見るためです。
「地には平和」。これこそ神さまの御心です。この1年を振り返ってみると、平和とは何だろう?と考えさせられる出来事が、地上にいろいろありました。
「地には平和」。私たちもそのように祈らずにはおられません。「主の祈り」において、私たちが、御心が天で行われるように、地上でも行われますように、と唱えるのは、大切な、尊い祈りです。
今日の午後3時から大磯クリスマスキャロリングが大磯駅前、聖ステパノ学園のレリーフ広場で、大磯町の3教会が合同で協力してキャロリングを行ないます。祈りに始まり、祈りで終わります。私たちの教会はコロナ禍が始まる前の年に単独で同じレリーフ広場でキャロリングをしたわけですが、翌年からコロナ禍が始まりいったん中断しました。人が集まることは一切できなかったし、礼拝さえ出来なくて郵送でメッセージを送ったりしたわけです。あれだけ大変な事態も、人間はもう忘れかかっています。いやな思い出は忘れた方が良いのでしょうし、生きるために人間はそう出来ているのかもしれません。あれから4年以上過ぎていますが、その間に、世界は戦争の時代に突入したような状況にあります。そのような中で、再度大磯駅前でのクリスマスキャロリングを再開するにあたって、大磯教会は単独ではなく多くの教会と大磯町民だけでなくもっと広く呼び掛けて、平和を祈ることをテーマに、キリストの誕生を祝う賛美の唄声を響かせようとしているわけです。
けれども、「地には平和」との御言葉の後で、天使はこう続けます。「御心に適う人にあれ」と。この言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか?神は、御心に適う人には平和を与えるが、御心に適わない人には与えないという差別でしょうか?そうではありません。神は、地上のすべての人に平和を望んでおられます。そのためにご自分の独り子イエス・キリストを生まれさせたのです。すべての人に平和を実現させるために。
けれども、神の力で、すべてがオートマチックに平和になるわけではありません。平和の実現を、神に丸投げするわけにはいかないのです。神は、「地には平和」を実現するために協力する“人”を必要としています。神の平和の御心を知って、“平和を実現するために私を用いてください”と祈る人を必要としているのです。そのような人のあるところ、平和が実現していくと聖書は語っているのです。
そのような人とはだれでしょうか?“だれか”でしょうか?そうではありません。自分です。“この私”なのです。自分を棚に上げたところで、平和はないのです。
地には平和、このわたしから。始めさせてください、神さま。
どんな時も、どんな場でも永遠に。地には平和、このわたしから。
自分が、地には平和を実現する一人になる。私たちが、主の祈りを祈る時、御心が地上でも行われますように、と祈る時、地には平和、このわたしから、との思いを込めて祈ることが、真の祈りではないでしょうか。
平和を始める一人になる。そのために私たちは、クリスマスの出来事を見る必要があります。“私”という飼い葉桶の中に、イエス・キリストをお迎えすること。愛そのものであるお方をお迎えする必要があります。
イエス・キリストは「飼い葉桶」の中にお生まれになりました。飼い葉桶とは、貧しく、粗末な器です。私たちは時々、勘違いをしますが、主イエスのために善い行いをし、立派な信仰を持ち、すばらしい心の器を用意しなければ、と考えるのです。しかし、もしそうだとすれば、天使は街にいる律法学者やファリサイ派といった人々のところに行ったでしょう。けれども、天使たちは野原の羊飼いのもとに来ました。それは、羊飼いたちが、貧しい人、そして社会のはずれにあった人たちのシンボルだったからです。自分の罪と弱さを知る人の象徴だったからです。貧しく、粗末な器。自分の心の貧しさ、自分の罪を知り、愛の無さを知り、それをどうにもできない無力さを知る心。そこに真の祈りが生まれます。神の赦しを願い、愛が満たされるようにと求める祈りが生まれます。そこにイエス・キリストの愛が宿ります。この救いの恵みを喜び感謝する時、私たちは、人を愛する平和の道を歩み始めます。貧しく、粗末だけれど、素朴な、温かい器に変えられます。
「地には平和、御心に適う人にあれ」。神さまは、私たちを、平和を実現する器として用いることを望んでおられます。しかし、私たちは、大きなことができるわけではありません。今年のノーベル平和賞に日本被団協が受賞したことはうれしい知らせです。それだけ今、核兵器の使用が現実味を帯びているからかもしれません。しかし、大きな平和を実現することができる人は、ほんの一握りです。けれども、身近な人に対して愛を心がける。どうすることが愛になるのか、祈って考える。その“私”から始まる、小さな愛の光が、地に平和を実現しつつ、同時に、天を栄光で輝かすのです。神の栄光は、私たち一人ひとりの小さな愛の光が集まって表わされるのです。
14節にある天使たちによる大合唱、[いと高きところには、栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」は、「地には平和、御心にかなう人に平和あれ」ということであれば「御心にかなわない人には平和はないのか」と思ってしまいます。
その前の10節の同じ天使のお告げにはこうあります。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。すなわち、主イエスによってもたらされる大きな喜びは「民全体」、つまり、この世界のすべての人に与えられると書いてありますから、やはり、「地には平和、御心にかなう人にあれ」だけではおかしいのではないかと思うのです。ですから、天使たちは、主イエスの誕生によって、天の神には栄光が、地のすべての人々には平和と喜びが、もたらされると宣言している、そう理解することが許されるのではないかと思うのです。そう、このクリスマスが伝えるメッセージとは、主イエスの到来と誕生によってこの地上、この世界に、そして地に住むすべての人に平和が実現したことを宣言し、それを伝える、驚くべきメッセージであると言っていいでしょう。
本当の支配者
そしてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、このことによって主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そして旅先のベツレヘムで主イエスが生まれたのです。ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった、要するにダビデの子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていた、いいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。そのことによって、今朝共に読まれた旧約聖書の箇所、ミカ書第5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。
主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、この預言が実現したのです。ということは、主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神が前もって計画し、告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、この神のご計画の実現のために用いられたのです。皇帝が、この世の支配者として下した命令、それによってヨセフとマリアも苦しい旅を強いられた、その皇帝の支配を象徴する勅令が、実は主なる神の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。ですから、主なる神こそ、皇帝をもみ手の下に置き、用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。
主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになった晩、その地方で野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、救い主の誕生を告げました。それに合わせて天使たちの大軍が現れて賛美を歌いました。羊飼いたちはベツレヘムへ行き、飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに会い、神様を賛美しながら帰って行きました。
羊飼いたちへのお告げ
主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになった晩、その地方で野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、救い主の誕生を告げました。それに合わせて天使たちの大軍が現れて賛美を歌いました。羊飼いたちはベツレヘムへ行き、飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに会い、神を賛美しながら帰って行きました。
神の独り子であられる救い主イエス・キリストが、私たちと同じ一人の人間として、母マリアの出産によってこの世にお生まれになったことをルカによる福音書第2章は語っています。それはユダヤのベツレヘムにおいてであり、生まれた主イエスは布にくるまれ、飼い葉桶の中に寝かされた、ということが7節までに語られています。8節以下は、この出来事が、神によって最初に羊飼いたちに伝えられたことを語っています。主イエスの誕生は、この世の片隅において起った出来事でした。人々はその誕生を喜び祝うどころか、そのようなことが起ったことを誰も知らなかったのです。
「御心に敵う人に平和」とあります。人間の取り柄や資格は問題ではありません。「御心に敵う人」とは、特別な資格や長所を持っている人ではありません。それはただ御言葉を信じて受け入れるだけの人ではないでしょうか。「御心に敵う人」とは、神を信頼する信仰の人ということです。信じて受けるだけがすべての人です。ほかに何ができるわけでもない、何の資格があるのでもない。ただ信じて受ける人であるしかない人、神の民とされたことが喜びの人です。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言われています。そう語られたのは、今日の私たちのためでもあります。そう信じなければなりません。今日、主の民とされたことを喜びたいと思います。祈りま