1/5説教「新しく創造された者」

はじめに
2025年を迎えました。新しい一年の歩みが、主イエス・キリストの恵みと聖霊なる神の導きと守りがありますようにお祈りします。
今年はどんな一年になるでしょうか。私たちにはこんなふうになったらよいなぁという希望があります。しかしそれと同時に不安もあります。私たちは例年、新年には平和に穏やかに過ごせる一年になることを願い求めるわけですが、そのように祈る背景には不安があるからだと思います。毎年必ずと言っていいほど、思っても見ない色々なことが起きます。私たちには過去の経験から先をある程度予測する力はありますが、見通す力はありません。だから不安になるのです。でもキリスト者である私たちがわかっていることは、どのような困難な状況にも主なる神が共におられるということです。
「新年」というのは、不思議な魅力を持った言葉であると思います。12月31日から1月1日、年末から年始へ。流れている時間が変わるわけではありません。それなのに、昨日までとは何かが違います。何でも「初めて」という字をくっつけます。例えば、「初日の出」と言うのです。毎朝、同じように日が昇るのに、元日の朝の太陽だけは特別扱いです。今年の1月元旦、私は自宅近くの吾妻山の日の出を見に山を登りました。おそらく何百人の人がいたと思います。頂上の展望広場は若い人でいっぱいでした。私と同じく若くない人もいましたが。晴れていて相模湾の水平線から昇る太陽がきれいでした。もちろんご来光を仰ぐわけではありませんが、水平線をから昇ってくる太陽は確かに人間に感動を与えます。清々しい気持ちになります。何か元気が出るような気もします。人は、「一年の計は元旦にあり」と言います。気持ちを入れ替えて、新しい決意と望みをもって、一年の歩みを始めようとするのです。「今年こそは」という思いを込めて、新しい年を祝う。そこには、新しさを求める願いと祈りが込められているように思います。私たちは、昨日までのことは忘れて、新しくやり直したいのです。けれども、考えてみれば、私たちは毎年同じことを繰り返しているのではないでしょうか。やっぱり、いつもと同じ、日常の生活が始まります。年が改まっても、結局、何も新しくなってはいない。全ては古びていく。日が改まっても、年が改まっても、自分自身が本当に新しくならない限り、肝心なところが変わらないのです。いや、本当のところは、変わらないどころか、私たちは、確実に古びて行くのです。今朝は、「新しく創造された者」という題で、コリントの信徒への手紙二5章16~21節の箇所から御言葉の恵みに与りたいと思います。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた
パウロは、私たちに告げています、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。今朝の御
言葉として与えられたコリントの信徒への手紙二の第5章17節後半の言葉です。「古いものは過
ぎ去り、新しいものが生じた」。それは、年が明けたからというのではありません。時間的な新
しさではないのです。時間的よりは、むしろ、質的な変化を表す言葉が用いられています。どん
なに時間がたっても、決して古びてしまわない質的な新しさが、そこにはあるのです。口語訳聖
書では、「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」と訳しています。「見よ」と
いう言葉を入れています。「見よ」という言葉の持っている力強さ、驚きと感動を表現していま
す。「新しいものが生じた」。ここには、不思議な新しさに出会った人の驚きが表われていま
す。それまでに経験したことのない新しさとの出会い。この手紙を書いている使徒パウロにとっ
て、それは、思いがけない突然の出会いとして生じました。キリストの教会を迫害するために、
ダマスコへと出かける途上で、パウロは復活された主イエスの声を聴き、キリストと出会いまし
た。その出会いが、パウロの人生を大きく変えてしまいます。だから、パウロは、この新しさに
ついて、驚きと感動をもって語るのです。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られ
た者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」。
パウロは17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」と語っています。英語では “in Christ”ですから、「キリストの中にある」ということです。「キリストにある」という表現を、新共同訳聖書では「キリストと結ばれる人」と独特な言葉で訳しています。明らかに意訳ですけれども、この新共同訳の大胆な意訳は、ここで言う「新しさ」が、キリストと結ばれることによって、キリストとの結びつきの中で造られる新しさだということを、はっきり言い表しているのです。
「キリストと結ばれる」という言葉は、何と言っても、「洗礼」の出来事を思い起こさせます。洗礼を受けてキリストと結び合された。それは、まさしく、新しい創造なのです。洗礼を受けてキリスト者になるということは、キリストに結ばれて新しく造られるということです。すべてが過ぎ去り、古びて行くこの世のさだめの中にあって、洗礼を受けるということは、私たちの人生の中に、確かな、決定的な、座標軸の原点が打ち込まれるようなことです。キリストに結ばれた。その事実が、決して動くことのない、私たちの人生の中心になるのです。

人生の中の区切り
私たちは、人生の中に、いろんな区切りを持っています。人生の節目と言ってもよいでしょ
う。生まれた時、入学や進学の時、20 歳になる時、就職、あるいは、結婚、出産、それに、転
職、退職。さらには、大切な人の死、そして最後は、自分自身の死です。さまざまな節目を刻み
ながら、最後は、自分自身の人生の終わりを迎えるのです。途中、いろんな節目を重ねながら
も、私たちの命は続いています。ところが、この人生の旅路の中に、ひとつの決定的な区切りが
打ち込まれたのです。洗礼を受けた。キリストと結び合わせられた。この区切りは、私たちの生
涯をはっきりと、二つの時に分けてしまいます。パウロは、しばしば「かつて」と「今」という
言い方で、この断絶を言い表しています。ここもそうです。 16節はこのように始まりました。
「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを
知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」。かつては、キリストを「肉に
従って」知っていた。しかし、今は、もうそのような知り方はしない、と言っているのです。

 キリストをどのように知るのか、ということが大事なのです。キリストをどのように知るかと
いうことが、私たちの人生を「かつて」と「今」というふうに、くっきりと二つに区切ってしま
う程に重大なのです。パウロは、ダマスコ途上において、よみがえられたキリストと出会う前に
も、イエスという人のことは良く知っていたはずです。

神との和解の道
「今後だれも肉に従って知ろうとはしません」とパウロは言います。パウロはこのイエスに出会うまでは、キリストを傷つける者でした。 そのパウロに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」とよみがえられたイエスの言葉が臨みます。キリスト者を傷つけ、排除しているのは、私を迫害していることだと言われたのです。その呼びかけを聞いた後のパウロは、キリストを迫害する者からキリストの福音を告げ知らせる者の姿に変えられたのです。人々はこの変身したパウロのことを、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」とまで言っています。パウロは、この復活されて生きて働いておられる主イエスに出会ったその日から、その生涯は一変しました。生まれ変わり、新しい人が創造されたと言ってもいい大転換です。聖書は、これを「救い」と言います。「だれでも、自分たちのために死んでくださったイエス・キリストによって再び新しく創造される」「だれでも、新しく創造された者なのです。古い者は過ぎ去った、新しいものが生じたのです。」とパウロは言います。このことこそ、神がキリストによってこの世をご自分と和解させてくださって、私たち人間の罪の責任を問わないようにしてくださった神の福音だと言っているのです。聖書は「罪」と言います。命の根源である神のもとから離れて、的外れに生きることになってしまった私たちのことを、聖書は「罪人」と言います。ですから、私たちの方から神と和解することはできないのです。神が差し出してくださる「和解」を受け取る以外には、神との交わりを回復することができないのです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させた」とパウロは言っています。ですから、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と言うのです。神のもとを離れたことのないキリストを、神は私たちのために罪に定められました。それによって、神はご自身の方から、人との交わりを求めて、キリストによって和解の道を開いてくださいました。私たちは、このキリストによって神との新しい関係が創られたのです。ですから、「神と和解させていただきなさい」とパウロは言うのです。神との交わりの回復が無いところに、まことの「和解」はありません。パウロは続いて言います。「神は、その和解の言葉をわたしたちにゆだねられた。」この十字架につけられ、よみがえらされたイエス・キリスト、これが「和解の言葉」そのものの姿です。 この「和解の言葉」が、パウロにも、コリントの教会の人たちにも、また私たちにもゆだねられ、告げ知らせるようにと託されているのです。この神との「和解」の福音に生きること、これが「和解」の福音を語ること、仕えることであると、パウロは勧めているのです。

空しさを打ち破る道
今朝のもう一つの御言葉はコへレトの言葉3章1~11節までです。コヘレトは、次のように語っています。
「何事にも時があり/天(てん)の下の出来事にはすべて定められた時がある」
と言うのです。時を定められたのは神であり、それは神によって定められた時なのです。それが、すべてが空しく過ぎ去っていくようなこの世の出来事の中に、あると言うのです。そして、それは、2節以降で、具体的に、「生まれる時、死ぬ時/ 植える時、植えたものを抜く時」と語り出されています。そのように、すべてのものには時があると言うのです。しかも、それは神によって定められた時であると言うのです。空しく 過ぎ去っていくようなこの現実の背後に、神のみ手が添えられていると言うのです。これは、何と慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。そこには、わたしたちの空しさを打ち破る決定的な視点があります。もし、永遠なる神が、わたしたちの一つひとつの、一見空しいとも思える営みの背後におられるとするならば、わたしたちは、もはや現実の空しさを嘆く必要はないのではないでしょうか。11 節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を 人に与えられる」と記されています。この永遠なる神から見れば、 すべてのものはその時に適って美しく創られているのです。そして、私たちの心に、そうした心を生み出す永遠を思う思いが、すでに与えられていると言うのです。そして、この永遠を見詰める視点こそ、この世の一切の空しさを打ち破る視点なのです。ところで、この聖書箇所は、アメリカの第35代大統領J. F. ケネディが1963年11月22日に テキサス州のダラスで暗殺され、その 3日後に、ホワイトハウスの近くにあるセント・マシューズ教会で 葬儀が行われましたが、その葬儀で読まれた聖書箇所でもあります。葬儀のために、この聖書箇所を選んだのは、母親のローズ・ケネディでした。ローズ・ケネディは、この聖書箇所をとても愛していたと言われていますが、ローズ・ケネディは、子供たちが栄光の座に就いた時も、そしてまた悲劇の死を迎えた時も、それを神によって定められた時として受け止め、その悲劇にもかかわら ず、神への信頼において生きた人でした。 ローズ・ケネディには9人の子供がいましたが、4人の息子の内3人を悲劇的な死において失いました。1人(長男)は戦争で、そして2人(次男と三男)は暗殺という仕方で失いました。また、次女も事故で亡くなっています。そして、その長女は、精神的障害を負った人でもありました。しかし、決してこの世の空しさに飲み込まれることはありませんでした。それどころか、それに飲み込まれそうになる度ごとに、その空しさを打ち破る神のみ手を見上げたのです。そして、すべての事に時を定められる神のみ手に、一切を委ねたのです。そしてまた、そのようにして、すべての悲劇を乗り越えて行ったのです。この世の生活は、一見すると空しさに満ちているかもしれません。「空の空、空の空、いっさいは空である」としか言えない現実があるかもしれません。しかし、聖書は、その背後に神のみ手があると語るのです。空しさの中に、その空しさを超えて導く神のみ手があると言うのです。それどころか、すべてのものは、神によって定められた時の中にあるのだと言うのです。そして、その神のみ手に信頼して生きなさいと言うのです。なぜなら、そこにこそ、唯一、この世の空しさを打ち破り、それを乗り越えて行く道があるからです。

キリストの使者の務め
コリントの信徒への手紙二5章20節、21節をお読みします。
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
パウロは、和解の言葉であるイエス・キリストの福音を宣べ伝えましたが、それは、神の思い、御心によることでした。パウロは、神の御心によって、イエス・キリストの使徒とされ、キリストの使者としての務めを果たしているのです。このことは、私たちにも言えることです。私たちの福音宣教は神の御意志によるものであり、私たちはキリストの使者の務めとして、和解の言葉を宣べ伝えているのです。キリストに代わって、「神と和解させていただきなさい」と願っているのです。罪を知らないイエス・キリストを、神は私たちのために罪とされました。それは、私たちがキリストによって神の義となるためであったのです。ですから私たちは、神の懲らしめを恐れる必要はありません。私たちの罪の懲らしめは、イエス・キリストが十字架の死によって受けてくださいました。そのことを信じるだけでよいのです。そのとき、私たちは神の御前に正しい者とされるのです。神は、敵であった私たちと和解するために、愛する御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡されました。その神の愛を、どうか無駄にしないでほしい。無駄にしないで、イエス・キリストを信じて、神と和解してほしい。そのことを、神は願っておられます。私たちが願っている以上に、神がそのことを願っておられるのです。その神の願いがあるからこそ、私たちは和解の言葉を宣べ伝えているのです。キリストを通して、神と和解させていただいた者たちとして、和解の言葉を宣べ伝えているのです。新しい年がスタートしています。
キリストの愛から私たちを引き離すことはできないのです。私たちは、一人一人、与えられているものが違います。健康であろうが、病気であろうが、順境であろうが、逆境であろうが、私たちは誰でもこの世での使命を持っています。その使命を自覚し、その使命のために生きる人生に私たちは招かれているのです。祈ります。

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