6/8説教「たまものとしての聖霊」<動画>

はじめに
今日は、ペンテコステ、つまり聖霊降臨日です。主イエスが死者の中から復活されて、50日目という日です。ペンテコステというのは、主イエスの復活から50日目ということです。この日、主イエスが約束されていた通り、天から聖霊が与えられた、ということが使徒言行録2章に書かれています。祈りながら待っていた弟子たちに、聖霊が降ったのです。ペンテコステは聖霊が降り教会の誕生日と言われるのですが、大磯教会も創立以来125回目の誕生日を6月3日(火)に迎えました。明治、大正、昭和、平成、令和の時代を大磯教会は礼拝を続け、伝道がなされ続いているのです。激動の125年であり、大磯教会の歩みにも試練の時があり、喜びの時があったでしょう。ここ10年の歩みを振り返っても2度の会堂増改築があり、礼拝の環境が整えられ、1週間前に新しい牧師館と事務室が完成し、喜びの時を味わっています。しかし、3年前にはコロナ禍で対面での礼拝が出来なかった時期があり、讃美歌も歌えず、礼拝生活の意味を問われることもありました。そして何人もの信仰者を天に送りました。しかしどのような時も教会は聖霊が導いてくださったのです。聖霊降臨によって生まれたキリストの教会は、そしてペトロの言葉を受け入れ洗礼を受けた人々の信仰生活はどうであったのか、早速、御言葉の恵みに与りましょう。
成長する教会
弟子たちに聖霊が降って力強い伝道が始まったペンテコステの日に、ペトロが使徒たちを代表
して語った説教を聞いた多くの人々が、大いに心を打たれ、ペトロの勧めを受け入れて洗礼を受け、教会の仲間に加わったことが、使徒言行録第2章41節に語られています。その数は三千人ほどだったとあります。三千人という数には誇張があるようにも思います。しかし、ここで大事なのは、実際に何人の人が洗礼を受けたのか、ということではなく、このペンテコステの日に誕生した教会が、その誕生と同時に、使徒たちの宣べ伝える福音を信じ受け入れて新しく仲間に加わる者たちを迎え入れていく、そのように成長、拡大していく共同体として歩み出した、ということです。ペンテコステの出来事を語る使徒言行録第2章には二つのポイントがあります。第一は、聖霊が降って教会が誕生したことです。そして第二は、その教会の伝道によって、新たな人々がそこに加わり始めた、ということです。この二つのことは切り離すことができません。教会が誕生するとは、伝道が始まることであり、それによって教会に新たな人々が加わり始めることです。この二つのことが共に起ったのが、ペンテコステの出来事だったのです。第2章の最後、47節の後半の言葉が、そのことをはっきりと語っています。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。教会が教会として歩んでいること。言い換えれば生きているとは、このように、伝道がなされ、新たな人々が仲間に加えられていく、ということなのです。それは勿論、人間の業や力によることではありません。「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」、とあるように、それは主なる神のお働きによることです。聖霊の力によること、と言い替えてもよいでしょう。
罪の指摘
ペトロがこの時語った説教の結論は36節です。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。ここには、イスラエルの人々の重大な罪が指摘されています。主イエスを十字架につけて殺した罪です。主イエスこそ、神から遣わされた救い主であり、数々の奇跡や不思議な業によってそのことをお示しになっていたのに、あなたがたはその神からの救い主を受け入れずに、十字架につけて殺してしまった、とペトロは語ったのです。人々が「大いに心を打たれ」て「わたしたちはどうしたらよいのですか」と訊ねたのは、まず第一には、自分たちがそのように大きな罪を犯してしまったということを示され、愕然としたからだと言えるでしょう。私たちが大いに心を打たれ、揺さぶられ、このままではいけない、変わらなければならない、変えられたいと願うようになるのも、自分の罪をはっきりと示され、指摘される時です。それも、ただ通り一遍に、自分にも反省すべき点がある、というぐらいのことではなくて、神からの救い主を十字架につけて殺してしまった、というような、言い訳のしようもない罪を犯してしまった、という事実に愕然とする時、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いが生まれるのです。神のみ言葉はそのように私たちの心を打ち、揺さぶります。聖霊の働きによってみ言葉が語られる時、私たちは自分の罪を示されて愕然とするのです。逆に言えば、聖霊が働いて下さらなければ、私たちは自分の罪に気づくこともなく、従って「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うこともないのです。
赦しの宣言によって
ペトロの説教はしかし、イスラエルの人々の罪を指摘しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を乗り越え、それをも用いて救いのみ業を達成して下さった神の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神の恵みの勝利が宣言されているのです。だからこそ、聞いた人々は深く心を打たれ、揺さぶられたのです。神のみ言葉は、人間の罪を暴きたて、断罪して打ちのめすものではありません。罪が指摘されるのは、それが既に主イエス・キリストの十字架の死によって担われ、復活によって赦されているからです。神の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、み言葉は告げるのです。聖霊のお働きによってみ言葉が語られ、聞かれる時、この恵みが、人の心を大いに打ち、揺さぶるのです。そこでこそ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いは私たちの真実な思いとなります。自分のどうしようもない、言い訳のしようもない、とりかえしのつかない罪が、主イエスの十字架の死と復活によって担われ、赦され、神の恵みが自分の罪に既に打ち勝っている、その救いの事実を示された時に私たちは、その恵みに大いに心を打たれ、揺さぶられ、自分はこれまでのままではおれない、変わらなければならない、変えられたいと真実に願うようになるのです。
彼らの問いがそのように救いの恵みに心打たれたことから発せられたものであることは、「兄弟たち」という呼び掛けから分かります。彼らはペトロら使徒たちを「兄弟たち」と呼んでいるのです。それは、同じユダヤ人の兄弟、というだけの意味ではないでしょう。彼らは、自分たちの深い罪を指摘するペトロらの言葉に、単に彼らを責め、断罪する敵対的な言葉ではなく、兄弟としての愛を感じ取っているのです。罪を指摘するこの言葉の中に、救いがあることを感じているのです。神によって罪を指摘され、断罪されることには、救いがあります。神による罪の指摘は、絶望へと至らせるものではありません。むしろ新しく生かされる希望がそこには与えられるのです。それゆえにこそ、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」という問いが生まれるのです。どうしようもない罪が指摘され断罪されて絶望するしかないなら、このような問いは生まれてこないでしょう。聖霊によって語られた恵みのみ言葉に大いに心を打たれて、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うことこそ、信仰の始まりなのです。
生きた教会の姿
けれども、使徒言行録はそのような主のお働きを語るのに際して、先に洗礼を受けて教会に加えられた信仰者たちが、何をしていたか、どのように生活していたか、をこの第2章の後半において描いています。救われる人々が日々仲間に加えられていった、その教会とは、どのような共同体だったのか、そこで何がなされていたのかが今朝の箇所に語られているのです。そしてそれは言い替えれば、教会がこのような共同体であり、そこに集う人々がこのように歩んでいたから、そういう教会に、日々新たな仲間が加えられていった、ということでもあります。教会に新たな人々が加えられていったのは主のみ業、聖霊のお働きによることですが、しかしそれは、信仰者たちが何もせずに寝ている間に起ったことではないのです。先に洗礼を受けて教会に加えられた者たちが、ここに語られているような共同体を形成していった、そこに聖霊が働いて、新たな人々が次々に仲間に加えられていったのです。日々新しい仲間が加えられていく、そのように生き生きと生きている、伝道が力強くなされている、聖霊のみ業に溢れている、そういう教会のあり方が教えられているのです。
一つになって
44節に、「信者たちは皆一つになって」とあります。46節にも、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあります。そして最後の47節にも、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。ここでは、最初の教会の人々が、「一つになって」歩んでいたこと、心を一つにして生きていたことが強調されているのです。聖霊によって生き生きと歩む教会において、そこに連なる人々は、一つになるのです。そういう共同体であってこそ、そこに、日々新たに人々が加えられてくるのだと言うことができるでしょう。初代の教会によって力強く伝道がなされていった、その秘密はこの「一つになって」ということにあります。同じ一人の主を信じ、同じ救いの恵みにあずかっているのに、なかなか一つになれずに、いろいろとすったもんだしてしまうのが私たちの現実です。一つになることは、ただ仲良くしようと思っているだけで実現するものではないのです。つまりここに語られている最初の教会の姿は、私たちに、教会は何によってこそ本当に一つになれるのかを教えてくれているのです。
使徒の教え、相互の交わり
42節に、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあります。最初の教会の人々が熱心にしていたことが四つ、ここに掲げられています。第一は「使徒の教え」です。使徒たちの教え、その語る福音、即ち主イエスの十字架と復活の証言を聞くこと、それが教会の人々が熱心にしていた第一のことです。そして第二は、「相互の交わり」です。教会に連なっている信仰者どうしの交わり、相互の関係のことが、教会の姿を語る第二の重用な事柄としてとりあげられているのです。み言葉を聞き、救いにあずかる私たちは、そのみ言葉によって兄弟姉妹との交わりへと押し出されるのです。み言葉によって本当に生きる場が、兄弟姉妹との交わりの場なのです。そもそも、神は聖霊を注ぎ、教会を誕生させて下さったのです。それは私たちを、兄弟姉妹との交わりに生きる者としようとするみ心の現れです。洗礼を受け、教会に加えられるとは、その交わりに生きる者とされることなのです。相互の交わりにおいて、いかに「一つになって」歩むことができるか、が私たちの大きな課題なのです。
パンを裂くこと、祈ること
教会の交わりにおいて、私たちが本当に分かち合うべきものは何か。それが、次の第三と第四のこと、「パンを裂くこと、祈ること」です。「パンを裂く」とは、食事を共にすることですが、それは単なる会食ではなく、主イエスが弟子たちとの最後の晩餐において、パンを裂き、弟子たちに渡して、「これはわたしの体である」と言われ、「わたしを記念するためこのように行いなさい」と言われた、そのパンを裂いて共に食べることです。つまりこれは、本日の礼拝において私たちがあずかろうとしている聖餐のことを言っているのです。聖餐のパンと杯、それこそ、私たちが教会において分かち合うべきものです。聖餐に共にあずかっている、そこに、私たちの交わりの中心があり、本質があるのです。それゆえに、教会ではメンバーのことを「陪餐会員」と呼ぶのです。聖餐に共にあずかっている会員、という意味です。聖餐に共にあずかり、パンと杯を分かち合っている、そこに私たちを本当に一つとする交わりの絆があるのです。
財産の分かち合い
42節にはこのように、最初の教会の人々の信仰の生活の姿、特にその交わりの基本的なあり方が語られています。そして43節以下には、このような交わりがさらにどのように展開されていったかが語られていくのです。44、45節にはこうあります。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。ここで分かち合われているのは、財産や持ち物です。自分の持っている財産や持ち物を売ってお金にして、それを教会に捧げ、それが「おのおのの必要に応じて」分配されたのです。共産主義というのはもともとこういうことを目指していたものです。共産主義、社会主義はその理想を実現することができなかったわけですが、ここには、教会においてそれが実行されていたことが語られています。財産のある豊かな者がそれを捧げ、それによって貧しい者が支えられ、両者が共に一つとなって共に生きていく、そういう交わりが生まれたのです。このことは全く自発的になされたことです。どれだけ教会に献げるかは、各自の自由でした。しかし多くの者がそのようにして互いの支え合い、分かち合いに生きていたのです。このような具体的な分かち合いがなされ、弱い者、貧しい者、いろいろな意味で援助を必要としている者が支えられていくことは、成立の当初から教会の大事な、また本質的な働きだったのです。
畏敬と好意を寄せられる教会
使徒の教え、即ちみ言葉を共に聞き、パンを裂く、つまり聖餐にあずかり、祈りを共にすることによって、主イエス・キリストとの交わりに生き、その恵みを分かち合う教会は、その分かち合いに支えられ、導かれて、お互いの弱さや貧しさを担い合い、助けを必要としている人を支え合い、仕え合う具体的な関係へと押し出されていくのです。み言葉は聞くが交わりに生きることはしない、というのでは、本当にみ言葉を聞いていることにはならないのです。み言葉は私たちを、交わりへと押し出すのです。それは、物質的なものも含めて、いろいろなものを分かち合い、互いに支え合って生きる生活へと押し出すということなのです。
分かち合いが、人間の好き嫌いや親しさに基づくものでなく、本当に教会としての、信仰に基づくものとなるためには、そこに先ず、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りを共にするという分かち合い、主イエス・キリストとの交わりに生き、その恵みに共にあずかる関係が必要なのです。そういう根本的な分かち合いがあるなら、人間的に親しいかどうか、相手のことをよく知っているかどうか、好きか嫌いか、ということに左右されずに、必要なところに必要な援助、助けを注いでいく真実の分かち合い、支え合いが可能になるのです。
このように、最初の教会の人々は、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りつつ、分かち合いに生きていました。それらはどれも、形は違っても、今日の私たちにおいても十分実現可能なことです。43節には、このような教会の姿を見て、「すべての人に恐れが生じた」とあります。「すべての人」とは、教会の周りにいる、信仰者ではない一般の人々です。彼らが心に恐れを抱いた、それは恐怖ではありません。ここには自分たちの間にはない何かがある、という畏敬の念のようなものです。今日、教会が、このような生き生きとした信仰の共同体として一つになり、真実の分かち合いに生きていくならば、そのこと自体が現代の人々にとっては、驚くべきしるし、奇跡となるでしょう。また47節には、教会が「民衆全体から好意を寄せられた」ともあります。私たちが、使徒の教えをしっかり聞き、聖餐にあずかることを大切にし、主イエス・キリストの恵みを分かち合い、それゆえにお互いの間での分かち合い、支え合いに真実に生きていくなら、教会は周囲の人々から、畏敬と好意を寄せられるようになるのです。主が新たに加えて下さる仲間を見出し、迎え入れるために、祈りを合わせ、互いに良いものを分かち合いつつ歩んでいきたいと思います。祈ります。

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