6/15説教「神の指が働くところ」

はじめに
今日、6月の第3日曜日は、一般的には父の日ですが、教会歴でいえば「三位一体主日」と定められています。キリスト教の教義として三位一体は重要な教義です。唯一である神が、父と子と聖霊という三つの区別された位格(ペルソナという)であるという。これはキリスト教の基本中の基本の教理でありますが、難しい教えの最高峰とも言われています。教会は、主イエスがご自身の生涯をかけて、神の使命を全うされた救いの業を思い起こし”父、子、聖霊”この三位が人類の救いを実現されたことを、もう一度味わい直すために定めた日です。なぜなら、三位一体の神秘は、人知をはるかに超えるものであり、決して解析し理解するものではないのです。そのことを教えてくださったのが、主イエス・キリストです。教会は主イエスが教えてくださった神をできるだけ忠実に表そうとして、歴史の中で「三位一体の神」というキリスト教の神理解が明確になっていきたのです。主イエス・キリストは、私たちに三位一体の神秘を示してくださり、さらに私たちを三位一体の中に招き、導いてくださるのです。しかしながら、聖霊についての理解が私たちには難しいのです。今、大磯教会の水曜日の祈祷会ではその週の説教の聖書箇所を再び学びを深めています。今年はペンテコステ後も聖霊について何度も説教で語っているので話題になります。キリストが天に昇られ,代わりに弁護者として聖霊が降ったことは、キリスト教の教義としては分かるが、目に見えない神が理解できない、ということはよく言われることです。
さて今朝私たちに与えられた聖書箇所、ルカによる福音書11章14~23節には、見出しとしてベルゼブル論争とありますが、ここには「悪霊」という言葉が8回も出てきます。悪霊とは何なのか。聖霊と対立するものなのか。そしてここには主イエスが悪霊を追い出されたことが語られています。この悪霊も目には見えない厄介な存在です。非科学的なことのようにも思われるのですが、その実態は何なのか。今朝は、そのことを聖書を通して考えたいと思います。私たちはより本質的なこと、つまりこの出来事において本当に見つめられていることを受けとめていかなくてはならないのです。

主イエスは悪霊を追い出された
今朝の箇所の冒頭14節には「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」とあります。主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出すことによって、口の利けない人を癒されたのです。この癒された人は、言葉が出なくなる病を患っていたのか、あるいはそのような障がいを抱えていたのだと思います。現代社会に生きる私たちにとって、病や障がいを「悪霊」によるものと考えるのは非科学的なことと言わざるを得ません。しかし当時の人たちは科学的な知識がなかったからそのように考えたのです。しかし、現代においても、病を抱えている人に、「あなたは悪霊に取り憑かれているから、その悪霊を祓わないと大変なことになる」と言って、相手を不安にさせたり、恐れさせたりする人たちはいるのです。それに対して私たちは、健全な考え方で対処しなければなりません。かつて、私が、ある会社に勤めていた時に、同僚に不幸が続いた時に、上司が、有名な神社にお祓いに行ったことがありました。現代でも、悪霊を払うために除霊を行ったり、病気や障がいに対して、それは悪霊を因果関係とするのだ、という考えは結構あります。悪魔や悪霊に取りつかれて不幸が起きると言う考え方です。
悪霊とは、科学的な意味での病を引き起こしている原因ではなく、私たちが自分の力ではどうすることもできない現実を引き起こしている様々な力とでも言えるものです。病や障がいというのは、そのような現実の一つであり、災害、戦争、貧困などもそうです。長きに亘る治療を必要とする病があり、生活が一変してしまう突然の怪我や病もあります。いずれも私たちの力で防げるわけではありません。また、ついこの間の、コロナ禍や、長期戦になったウクライナにおける戦争、そしてイスラエルとガザ、そして今まさにイランとの全面戦争になりそうな事態があります。私たちが自分の力で立ち向かえることではありません。あるいはトランプ関税や、最近の急激な物価の高騰は、経済的に弱い立場にある者への生活と命を脅かしています。この急激な物価の高騰も私たち一人の力で食い止めることはできません。私たちは誰もがこのような自分の力ではどうすることもできない現実、とりわけ不条理な苦しみの現実に直面して生きているのです。私たちの力を越えた、「悪霊」としか言い表せないような力が、それらを引き起こしているのです。ですから14節で語られているのは、主イエスが「口の利けない」という苦しみの現実を引き起こしていた力に打ち勝たれることによって、その力から口の利けない人が解放されて話し始めた、ということなのです。

群衆の中からの声
その様子を見ていた群衆は驚きました。その中には「『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で
悪霊を追い出している』と言う者や、主イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」と語られています。ここで彼らは主イエスが悪霊を追い出したことそのものを問題にしているのではありません。主イエスが悪霊を追い出した力はどんな力なのか、ということを問題にしているのです。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った人は、「親分であるベルゼブルの命令であれば、子分である悪霊たちは従うに違いない。だからあの男は、親分ベルゼブルの力を使って口の利けない人から悪霊を追い出している」と考えたのです。これに対する主イエスのお答えが17節以下で語られています。
群衆の中には、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める」人もいました。「天からのしるしを求める」とは、この口の利けない人の癒しが、本当に神の力によるものだという保証を求める、ということです。

内輪もめすれば国は成り立たない
主イエスはまず17-18節でこのように言われています。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果
て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出し
ていると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろう
か」。つまり、主イエスが悪霊を追い出すことができるのは悪霊の親分だからだ、親分が子分に
「出ていけ」と命じているのだ、と言っているのです。またある人は、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めました。この人たちは、主イエスの悪霊追放の力がどこから来たのかを確かめたいと思っているのです。「天からのしるし」とは、主イエスの力が天からの、つまり神からの力であることの証拠です。それを示して欲しい、そうすればあなたの力が神によるものであると認めてやる、ということです。そのように傍観者として眺めている彼らに対して主イエスは、17~19節のみ言葉を語られました。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。ここで主イエスは、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という中傷に対して反論しておられます。「私がしていることは、サタンの中での内輪もめではない。もしそう言うなら、あなたがたの仲間で悪霊を追い出している者はどうなるのか。それも悪霊の親玉の仕業だなどと言ったら彼らは怒るぞ」ということです。つまり主イエスによる悪霊追放だけを悪霊の頭ベルゼブルの力によることとするのは無理があるのです。主イエスはそのように見事に反論しておられるわけですが、しかしこのお言葉はそういう反論あるいは弁明ではなくて、もっと大切なことを宣言しています。それは、「あなたがたは今激しい戦いが行われている戦場の真ん中にいるのだ」ということです。その戦いとは、主なる神とサタンとの戦いつまり悪霊との戦いです。しかもそれは局地的な小競り合いではありません。神の国とサタンの国の、滅ぼすか滅ぼされるかの全面戦争、総力戦です。ここに出てくる「国」という言葉は「支配」という意味です。神の国は神のご支配、サタンの国はサタンの支配です。神とサタン、どちらの支配が確立するのか。あなたがたはその決戦場にいるのだ、と主イエスは告げておられるのです。

もっと強い人
このように、今朝の箇所の最後の23節で主イエスは私たちに、傍観者を決め込むのではなく、主イエスの悪霊との戦いに参加するようにと求めておられるわけですが、その促しに先立って、21、22節が語られていることに注目しなければなりません。そこにこうあります。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。ここにも戦いのたとえが用いられています。しかも略奪というまことに乱暴なたとえです。このたとえは何を語っているのでしょうか。21節に出てくる、「武装して自分の屋敷を守っている」「強い人」とは誰のことでしょう。それはサタンです。サタンが十分に武装して自分の屋敷を、あるいは城を守っているのです。そうである限り、サタンの持ち物、サタンが自分の支配下に置いているものは安全です。安全であるというのはサタンにとって安全なのであって、つまりそれらはサタンの支配からぬけ出すことはできないのです。しかし22節には、「もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とあります。その「もっと強い者」とは、主イエス・キリストのことです。主イエスが、サタンの城を襲撃し、サタンを武装解除してその城の中にあるサタンの持ち物を略奪し、分捕り品とするのです。このたとえはそのように、サタンに対する主イエスの戦いと勝利を描いているのです。

神の国はあなたたちのところに来ている
この主イエスの戦いにおいて、私たちはどこにいるのでしょうか。サタンの城を攻撃する主イエスの軍勢の兵卒として勇敢に戦っているのでしょうか。そうではありません。このたとえにおいて私たちのことを語っているのは、サタンのもとに置かれている「持ち物」であり、サタンに勝利した主イエスによって略奪され、主イエスのものとなった「分捕り品」です。私たちは、主イエスと共にサタンと戦っていると言うよりも、既にサタンの虜になり、悪霊の支配下に捕えられてしまっているのです。その私たちを、主イエスがサタンに勝利し武装解除することによって救い出し、ご自分のものとして下さったのです。サタンとの決定的な戦いは既に主イエスによって戦われ、主イエスの勝利に終っているのです。神の国はサタンの国に既に勝利しており、私たちはサタンの支配から神のご支配の下へと移されているのです。そのことを語っているのが20節です。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスが悪霊を追い出し、口の利けなかった人を癒された、それは悪霊の親玉のではなく「神の指」によるみ業だ、つまり神様のみ手の業だ。「神の指」という言い方によって、「み手の業」と言うよりもより丁寧な、繊細なみ業がイメージされると言えるかと思いますが、いずれにせよそれは神のみ業なのであって、そのことによって神の国があなたたちのところに来ている、サタンの国は敗北し、神のご支配が実現しているのです。そのように、サタンに対する主イエスの勝利が既に実現しているのです。それを明確にするために21、22節の略奪のたとえが語られているのです。ですから23節で私たちに参加が促されている戦いは、もう決定的な戦闘が終わり勝敗の帰趨が見えている、主イエスの勝利が決定的となっている戦いです。最終的勝利が約束されているこの戦いへと、主イエスは私たちを招いて下さっているのです。

十字架と復活によって
サタンとの戦いにおいて主イエスが既に決定的に勝利しておられる、その勝利は、今朝の箇所の、口を利けなくする悪霊の追放によって実現したわけではありません。その決定的戦いは、主イエスのご生涯全体において戦われたのであって、その最後の山場は十字架の死と復活です。神様の独り子であられる主イエスは、神をも隣人をも、愛するよりも憎んでしまう罪の中にあり、悪霊の虜となって語るべき言葉を失い、神とも隣人とも良い交わりを失っている私たちの罪を全て背負って、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。主イエスが十字架につけられて殺されたことによって、神に敵対するサタンの力が勝利したかのように見えます。
サタンに対する主イエスの決定的勝利はこの十字架の死と復活とによって実現しています。
私たちは主イエスが十字架と復活によって得て下さった決定的勝利の後の、しかしなお世の終わりまで続いていくサタンとの戦いへと招かれているのです。既に主イエスと、神の勝利は決定的となっています。私たちを、またこの世界を支配しているのは、サタン、悪霊ではなくて、主イエスの父である神なのです。その神のご支配があらわになり、完成する終わりの日を待ち望みつつ、私たちは主イエスと共に戦っていくのです。お祈りします。

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