7/13説教「ヨナのしるし」

ヨナのしるし
今朝もまたルカによる福音書から御言葉の恵みに与りたいと思います。今朝、私たちに与えられているルカによる福音書11章29節以下は、先々週までの悪霊との闘い、ベルゼブル論争からの続きです。29節に、「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。」とあります。その群衆の中には、マタイによる福音書12章38節以下に記されているように、律法学者とファリサイ人がいた訳ですから、主イエスは、彼らに向って云ったのかもしれません。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。群衆は「しるし」を求めて来ている、そのことを主イエスは「よこしまだ」と言っておられるのです。どういうことか。「しるしを求める」とは、要するに奇跡を見たい、それによって信じる根拠を確かめたい、納得したい、ということです。はっきりとしたしるしを示してくれるなら信じてやる、という人々の思いが「よこしまだ」と主イエスは言われているのです。そして、あなたがたにはヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない、と言っておられます。さてヨナのしるしとは何でしょうか。それは30節にある、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように」ということです。このことを語っているのが旧約聖書ヨナ書であり、今朝はその第3章を、今朝の旧約聖書の箇所として先ほど読みました。ヨナは神から大いなる都、アッシリアのニネベに言ってみ言葉を告げるように命じられたのです。現在のシリアにあたる位置にあります。そのみ言葉とは、ニネベの人々の罪が大きいので、神はお怒りになり、この町を滅ぼそうとしておられる、ということです。3章は、ヨナがニネベの町でそのみ言葉を人々に告げたこと、するとヨナの告げるみ言葉を聞いたニネベの人々は神を信じ、町をあげて断食をして自らの罪を悔い改めたこと、それで神は思い直し、町を滅ぼすのをやめた、ということを語っています。これが、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」という出来事です。ヨナはニネベの町で、何か人々を驚かせるような奇跡を行ったのではありません。彼はただ町を歩き回りながらみ言葉を告げたのです。ニネベの人々はそのヨナの言葉を聞いて、信じたのです。「お前の語っていることが、本当に神の言葉であるしるしを見せろ、奇跡を行なって我々を納得させたら信じてやる」などとはニネべの人々は言わなかったのです。そこに、しるしを求めているあなたがたとの大きな違いがある、と主イエスはここで言っておられるのです。ニネベの人々は、自分たちが悪霊に支配され、悪霊の住処となってしまっていることを、み言葉によって示され、これではいけないと思ったのです。そして、そのみ言葉を心の内にしっかりと受け止め、それに聞き従っていったのです。つまり神の言葉を聞き、それを守る人となり、神の側に身を置いて、悪霊と戦う者となったのです。今朝の個所の少し前の23節には「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」とありますが、彼らはまさに神に味方し、一緒に集める者となったのです。そのことによって、悪霊よりも強い方である主なる神が、彼らを支配していた悪霊を打ち破り、解放し、そして守って下さる。本当に幸いな者となることができたのです。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というみ言葉は私たちに対する問いかけです。主イエスは私たちに、あなたがたは私に味方し、私と共に悪霊と戦うのか、それとも結局悪霊のわが家となって、悪霊の支配の下で主イエスに敵対するのか、と問うておられるのです。主イエスと共に悪霊と戦う者となることが、今私たちに求められているのです。
しるしを欲しがる
主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われています。それでは「ヨナのしるし」とは何なのかを考えて見たい。少し前の個所で、私たちはベルゼブル論争という箇所を読みました。そこで、主イエスが口の利けない人を癒されたのを見た人たちの中には「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」がいたと書かれています。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める」とは、主イエスが救い主である証拠を求めるということです。主イエスの癒しのみ業を見ても、それだけでは主イエスが救い主だと信じられなかったのです。「天からのしるしがなければ、神からの証拠がなければ信じられない」あるいは「信じてあげない」、そのような思いが、思い上がりが彼らにあったのではないでしょうか。そのために主イエスは29節以下の言葉を彼らに語っておられるのです。
エビデンスに基づいて決める
ところで、しるしを欲しがるのは、主イエスの時代だけの特色ではないでしょう。今、私たちが生きている時代の特色でもあり、全体的な傾向でもあるのではないでしょうか。最近よくエビデンスはどこにあるか。ということをよく耳にします。根拠とか、証拠とかいう意味ですが、医療行為などで、エビデンスと言えば、科学的根拠は何か。という場合に使います。会議などでエビデンスを示してくださいと言えば、合理的な証拠、あるいは根拠があるのか。ということでしょう。もちろん私たちはこのような科学的根拠に基づく判断や合理的な根拠を疎かにするべきではありません。たとえ同じ状況であっても、その状況に対する私たちの感じ方は様々だからです。根拠なしに判断し、決断するなら、なぜそのように判断し、決断したのかを説明できません。説明できなければ納得してもらうことも、合意を形成していくことも難しいでしょう。しかし根拠があれば、たとえ感じ方に違いがあったとしても、その根拠に基づいて説明することによって合意を形成していけるかもしれないのです。
エビデンスをはっきりさせる議事録審査会
ところで話は少し飛躍するかもしれませんが、大磯教会は今年、5月25日の神奈川連合長老会の会議で、連合長老会加盟が正式に承認され、改革長老教会としてよりはっきりとした歩みを始めています。その中で、教会の議事録審査という重要な働きがあります。大磯教会も早速参加しています。それは連合長老会としての重要な働きです。昨年1年間の各教会の議事録の審査を行なっています。牧師二人が一組で、割り振られた教会の昨年1年間の長老会議事録と教会総会議事録を丹念に読んで審査するわけです。これが結構大変な作業で、日付や表現の誤りなどだけでなく、例えば、洗礼の試問会が適正にされているかとか、長老会の開始に聖書の何処を読んではじめたか、長老選挙が規則に従って適正に実施され、正確に記録されているかとか、後日、問題が起きた時に議事録に、発言者の氏名が正確に表記されているかなど、様々なことを審査します。そして加盟14教会の議事録の最終審査を全員集まって、あさって15日に、横浜大岡教会に集まって、朝から夕方まで、一日かけて各教会の議事録審査とそれに対する牧師の答弁があります。そしてまとめ上げた報告書を、それぞれの長老会で検討し改善策を審議するのです。その働きによって、健全な教会形成が出来るということです。まさにエビデンスをきちっとさせるということになります。牧師は大変ですが、教会が抱える問題を共有出来るし、問題点にも気が付くことも出来、主の教会として教会形成がなされるのです。
救いのエビデンスを求める
話しは少し外れてしまったので、元に戻します。しかしこのようなエビデンスを求める今の時代の傾向を、私たちの救いに関わる事柄に持ち込んでしまうなら、私たちの時代も「天からのしるし」を欲しがる時代、よこしまな、悪い時代ということになります。ここで主イエスが群衆に、しるしを欲しがることを問題にしているのは、彼らの信仰を見ているのです。主イエスのところに集まった群衆たちは、目の前におられる主イエスご自身のお言葉を聞き、み業を見たのに、主イエスが救い主であることを信じようとせず、もっと確かな証拠を、「天からのしるし」を欲しがりました。ここに主イエスの前で自分を低くしようとしない彼らの姿を見ることができます。「イエスを試そうとして」と言われていたように、彼らは主イエスの前で自分を低くするどころか、自分を高くして、主イエスが救い主なのかどうかを見定めようとしていたのです。
私たちは彼らの姿を他人事のように眺めているわけにはいきません。確かに主イエスのところに集まった群衆とは違い、私たちはみ言葉を語ってくださる主イエスをこの目で見ることはできません。しかしそれは、今、主イエスが語りかけていてくださらないということではありません。主イエスは今も生きて働かれ、聖霊のお働きによって語りかけてくださっています。それにもかかわらず私たちは、しばしば主イエスの前で自分を低くすることができず、主イエスのお言葉を信じようとせず、自分の納得できる救いを求めて神に「しるし」を、エビデンスを要求しようとするのです。それは、神に対してまことに思い上がった振る舞いです。自分の納得できる救いを求めるとは、結局、自分の頭の中に神を、そして神の救いのみ業を閉じ込めてしまおうとすることにほかなりません。そのとき私たちは神のみ業が私たちの思いをはるかに越えていることを忘れ、自分たちの思った通りに神がしてくださると勘違いしているのです。
「ヨナのしるし」だけは与えられる
しかしだからといって神は私たちに何も与えてくださらないのではありません。神が私たちに与えてくださっているものがあるのです。それが今朝の箇所では「ヨナのしるし」と言われています。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われていました。しるしを欲しがっても、しるしは与えられない。けれども「ヨナのしるし」だけは与えられるのです。私たちは神が与えてくださる「ヨナのしるし」にこそ目を向けていかなくてはならないのです。ではヨナのしるし、ヨナが示した救いのエビデンスは何か。続く30節で主イエスは、「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と言われています。人の子とは、イエス・キリストのことです。つまりヨナのしるしが与えられるとは、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子である主イエスが、今の時代の人たちに対してしるしとなることなのです。このことが何を見つめているのかを、主イエスは続く31-32節で旧約聖書の二つの物語を通して語られました。まず31節では南の国の女王について、続く32節ではニネベの人々について語られています。
南の国の女王
31節にこのようにあります。「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」。南の国の女王とは、旧約聖書列王記上10章に登場するシェバの女王のことです。そこではシェバの女王がイスラエルの王ソロモンを表敬訪問したことが語られています。
ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。彼は最も知恵ある者であり、その名は周りのすべての国々に知れ渡ったのです。シェバの女王も、そのようなソロモンの名声を聞いた一人です。シェバは現在のイエメンのあたりですが、女王はそこから遠いエルサレムのソロモンを訪ねたのです。彼女はソロモンに難しい質問をして彼の知恵を試しましたが、ソロモンは彼女の質問にすべて答えました。「王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(3節)と言われています。
神の知恵を求めていない
この女王の姿は、天からのしるしを欲しがる今の時代の人たちの姿とはまったく異なるのではないでしょうか。しるしが与えられなければ信じられない、エビデンスがなければ、確証がなければ動くことができないという今の時代の人たちの姿とは、つまり私たちの姿とはまったく異なるのです。確証がなくても、莫大な富と労力、時間を献げてまで、この女王はソロモンの知恵を聞きに行きました。それは、神がソロモンに授けた知恵を聞きに行ったということであり、つまり神の知恵を聞きに行ったということにほかなりません。しかし今の時代の人たちは、私たちはそれほどまでに神の知恵を求めているでしょうか。シェバの女王のように、確証がなくても多くのものを献げて神の知恵を求めようとしているでしょうか。求めていないのではないか。神の知恵が本当に役に立つと分かっているなら聞いても良いでしょう。でもそうでないならわざわざ時間を割いてまで求めなくても良いと思っているのです。神の知恵に頼らなくても自分の知識でなんとかなると思っているからです。主イエスは、今の時代の人たちとシェバの女王を比べて語っています。神の知恵を求めず、したがって神の知恵を畏れず、神の前で自分を低くしようとせず、自分の力でなんとかしようとする今の時代の人たちを、この女王は世の終わりの裁きの時に罪に定めると言われたのです。
ニネベの人々
続く32節にはこのようにあります。「ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」。ニネベの人々がヨナの説教を聞いて悔い改めた出来事は、今日、共に読まれた旧約聖書ヨナ書3章に語られています。主なる神はヨナにアッシリアの首都ニネベに行って、主の言葉を告げるよう命じられました。ヨナは主が命じた通りニネベに行きます。3章4-5節にこのように語られています。「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。』すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」というヨナの言葉を聞いたニネベの人たちは悔い改めたのです。彼らが断食し、身に粗布をまとったのは彼らが悔い改めたことのしるしです。悔い改めるとは、神からそっぽを向いていたのに神の方に向き直ることです。ヨナの言葉を聞いたニネベの人たちは、神を信じ、神の方に向き直り、神に背く悪の道から離れたのです。ヨナはなにか特別なことをしたわけではありません。ニネベの人たちの前で驚くべき奇跡を行ったわけでも、彼らに丁寧に語りかけたわけでもありません。ただ、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫びながらニネベの都を歩き回っただけです。
私たちに与えられているしるし
私たちはシェバの女王ほどに神の知恵を求めようとせず、ニネベの人たちほどに神の言葉を信じようとせず、むしろ天からのしるしを欲しがり、神に証拠を求め、エビデンスを求めてしまいます。しかしそのような私たちに、神は「ヨナのしるし」を与えてくださっているのです。しるしが欲しいと、エビデンスが欲しいと思い上がってしまう私たちに、主イエスは「あなたたちはよこしまだ」と言われるだけではなく、「ヨナのしるし」が与えられていると言われます。私たちに与えられている「ヨナのしるし」。それは、主イエスの言葉です。主イエスを通して語られる神の言葉と知恵です。ヨナの語った言葉がニネベの人たちに対してしるしとなったように、主イエスが語る言葉が私たちに対するしるしとなるのです。主イエスを通して私たちに語りかけられる神の言葉と知恵こそが、「今の時代の人たち」に、つまり私たちに与えられているしるしなのです。「人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」とは、このことを見つめているのです。私たちに与えられているしるしは、群衆が期待していたようなしるしでも、私たちが求めるようなエビデンスでもありません。私たちが救いについて合理的に納得するためのエビデンスではないのです。そうではなくそのしるしは、私たちの思いを越えた、私たちを本当に生かす救いの現実を告げています。主イエスを通して私たちに語りかけられる神の言葉と知恵は、ソロモンにもヨナにもまさる、神の国が私たちのところに来ているという救いの現実を告げているのです。主イエス・キリストの十字架によってすでに神の国が実現し、私たちがその神の国に入れられて生きていることを告げているのです。私たちも与えられたみ言葉を受け入れ、み言葉によって神の方に向き直っていきます。私たちに与えられているしるし。私たちが求めるべきしるしは神の言葉です。主イエスの語りかけです。私たちが生きている「ここに」、ソロモンにまさりヨナにまさる、神の国の到来の現実があります。救いの恵みの現実があるのです。私たちは毎週の礼拝で与えられる神の言葉と知恵から、私たちがこの救いの恵みの現実に生かされていることを告げ知らされ、支えと慰めと希望を与えられて歩んでいくのです。祈りを献げます。。

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