8/24説教「思い悩むな」

はじめに
先日、家族で静岡県の沼津港に行って遊覧船に乗ったり、港の近くにたくさんある海鮮料理が食べられる店で焼き物や刺身を食べました。夏休みでたまにのことですが、それでも日本は豊かな国で終戦後のような食糧難ということはありません。お米の値段が上がったことが話題になりました。古古米も買って食べていますが、水につける時間を長くしたりすれば、まずくはありません。今日のルカによる福音書12章22節で、主イエスは、弟子たちに「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われ、29節で「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」と言われています。私たちの状況は、主イエスが前提としている、今日を生きるための食べ物があるか分からないという状況とはまったく違います。私たちの「何を食べようか」、「何を着ようか」という悩みは、とても恵まれた状況での贅沢な悩みなのです。しかし、連日ニュース報道で見るガザの子どもたちの食料の補給が行かず栄養失調になっている状況は胸が痛みます。早くイスラエル軍の攻撃を止めて食料供給をしてほしいと願うばかりです。戦後すぐの日本でも食糧難で、ガード下で孤児たちが栄養失調で横たわっている状況を見てアメリカの世論が日本への食料援助を本気になって支援したと聞いた覚えがあります。今、世界でも日本でも貧富の格差がますます広がっています。私たちはこのことをしっかり受けとめ、それぞれに出来ることを模索していかなくてはならないし、なによりもこのことを覚えて執り成し祈り続けていかなくてはなりません。主イエスが「思い悩むな」と弟子たちに語った言葉から早速、御言葉のメッセージを聴きましょう。
主イエスが前提としている状況
22節で主イエスは弟子たちに「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言っています。それは、たくさんの選択肢の中から、何を食べようか、何を着ようか思い悩むな、ということではもちろんありません。そうではなく今日一日を生き延びるための食べ物のことで思い悩むな、衣服のことで思い悩むな、ということです。言うまでもなく生きていくためには食べ物が必要です。また外界から体を守って生きるためには衣服が必要です。だからわざわざ「命のことで」、「体のことで」と言われているのです。今日、命を養うための食べ物があるか分からない。今日、体を守るための衣服があるか分からない。主イエスはそのような状況を前提として語っています。そしてそのような状況にあっても、何を食べようか、何を着ようか思い悩むな、と言われているのです。
将来について思い悩む
しかし、「何を食べようか」、「何を着ようか」という思い悩みだけが、深刻な悩みなのではありません。私たちが日々の生活の中で直面する悩みは、ほかにも様々なものがあります。今、私たちは将来について思い悩んでいるのではないでしょうか。希望が持てない将来への思い悩みがこの社会を覆っているのです。若い人たちには、おそらく受験や就職の思い悩みがあると思います。しかし、正直なところ高齢になってくると若い人の悩みが良く分からなくなっていますが、大きな閉塞感があるのだと思います。スマホ時代で、心を傷つける中傷の悩みもあるかもしれません。また働き盛りの人たちには、家族の介護の思い悩みがあります。また時代の変化に伴い生き方を変えざるを得ない悩みもあるかもしれません。日産車体の平塚工場が閉鎖になるなど考えたこともありませんでした。学生時代に日産車体の下請けの会社のバイトで平塚工場で働らいていたことがありました。あのころ親会社の日産車体は輝いて見えました。また、昔、大磯にNCRという外資系のレジスター製造工場があり、父親が務めていたことがあり、夏休み期間にバイトをしたことがありましたが、従業員とトラブルになり辞めました。当時、平塚海岸の近くに住んでいて、その後同級生がNCRに就職し、私がNCRに入社できなかったことを、父親は残念がっていましたが、今はその工場は跡形もなく空き地になっています。働き盛りに仕事を変えるのは、収入の面と生きがいの狭間で悩むことはありますが、過ぎてみるとすべてが良い思い出です。私は7~8回、転職していますが、最後に牧師という仕事というよりは伝道の使命を与えられたことは神の恵みとしか言いようがありません。そして歳を重ねた人には、自分の老後についての思い悩みがあります。出来ていたことが少しずつ出来なくなる苦労があります。私たちの人生は、実に様々な思い悩みで満ちているのです。主イエスの時代と状況は違っても、私たちは日々、思い悩みながら生きている。それが私たちの現実なのです。私たちはこのことをしっかり受けとめ、それぞれに出来ることを模索していかなくてはならないし、なによりもこのことを覚えて祈り続けていかなくてはなりません。
心配や不安を捨てろ
元来の主イエスの教えにおいては、思い悩みや恐れというものは否定的なものと捉えられています。否定的な意味の心配や不安を捨てろという命令です。心配性を止め、神を信じて楽観的に生きなさいということです。楽観的な生き方の模範例が、空の鳥・野の花です(22-29節)。そして楽観的な生き方を勧める理由が色々挙げられます。たとえば、思い悩んでも寿命を伸ばすこともできないのだから(25節)、ソロモン王よりも野の花の方が着飾っているから(27節)、人間は鳥や花より優れているから(24・28節)、思い悩みは非ユダヤ人がすることだから(30節)といった具合です。主イエスの凄みは、この途方もなく楽観的で、あっけらかんとした「その日暮しの勧め」を、自分自身そのまま生きたことにあります。主イエス一行は旅を続けました。与えられたパンを感謝して仲間たちと分かち合っていました(9章10-17節)。神は、命と体、つまりわたしたちの全存在を必ず世話してくれる。なぜなら命の創り主なのだから。それゆえに、命・体よりも価値の低いことがらに振り回されるな。思い悩むな。これが、主イエスが最初に語った時点の教えの趣旨です。もちろん主イエスは鳥と花の儚さ、つまりわたしたちの弱さをよく知っています(28節)。主イエスも十字架でその私たちの弱さを担いました。わたしたちの日常の心配事をよくご存知の方が、心配性のわたしたちと同じ目線で言われています。弱さを突破せよ。それは、弱さを認めながら、なお神にあっけらかんと信頼することによってなされます(6節)。
神が養い、装って下さる
24節以下には、烏のこと、野原の花のことを考えてみなさい、という主イエスの教えが語られています。つまり烏も野の花も、どちらも神が養い、装って下さっていることを主イエスは私たちに見つめさせようとしておられるのです。それこそが、「思い悩むな」という命令の根拠です。食べ物や衣服よりも、命と体の方が大切な、肝心なものだ。そしてその肝心な命と体は、神が養い、装って下さっているのだ、ということを主イエスは見つめさせようとしておられるのです。烏や野原の花のことを考えてみなさいと主イエスが言っておられるのは、神はそれら以上に私たちのことを大切に思い、養い装って下さっている、ということを示すためです。鳥や野原の花よりも人間の方がずっと価値がある、というわけですが、これは、どちらの方がより高等、高級か、ということではありません。鳥も花もそして人間も、皆神がお創りになり、養い装っておられるものです。そして神はご自分の被造物の中で、私たち人間を、とりわけ大事なものとして創り、大切に養い、装って下さっているのです。それが、旧約聖書創世記の初めの所にある天地創造の物語が語っていることです。天地創造のみ業の最後に人間が創られたのは、神がこの世界と全ての被造物を、人間が生きるための場として、また人間を養い生かすために創って下さった、という恵みのみ心の現れなのです。だから思い悩むな、と主イエスは言っておられるのです。
信頼に基づいて、自由に生きる
そうすると、この「思い悩むな」という命令は、要するに「神を信じなさい」という命令なのだ、ということが分かってきます。それは信仰の大きさを他の人と比較しているのではありません。つまり信仰は、大きい小さい、厚い薄いというものではなくて、「信じている」か「信じていない」かのどちらかなのです。神を信じている人は、神が自分の命と体を養い、装い、守って下さると信じているのであって、そこには思い悩みからの解放が与えられるのです。
主イエスは鳥の例として烏(カラス)を挙げています。カラスは汚れたものとされていました。鳩は平和の象徴です。烏(カラス)も鳩も同じ箱舟に載せられた。それが神の世界です。神の国は、主イエスが語られた放蕩息子のたとえの通りです(15章11-32節)。ただ生きたい、ただ生きるだけで良いという本心に立ち返った弟息子は、そのままで受け入れられました。わがままのし放題でしたが、彼の父は寛大でした。弟息子は本能的に父親の寛大さを知っていたのです。そこに信頼を寄せて、思い切って帰宅したことに彼の信頼の大きさが表れています。兄息子からみればえこひいきです。「義」にもとる裁定です。ただ兄息子は彼の父を誤解していました。彼もわがままに過ごして良かったのに、赦されていることを知らなかったのです。この意味で父を信じていませんでした。烏(カラス)・花・弟息子に共通しているのは、神に対する大いなる信頼に基づいて、自由に生きるということです。
私たちを愛してくださる神を信じる
私たちが信じるこの神は、得体の知れないお方ではありません。独り子を十字架にかけてまで私たちを愛してくださっているお方です。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えてくださったお方なのです。25節26節で主イエスは「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と言われています。私たちは自分の命をわずかでも延ばすことができません。確かに平均寿命は延びました。医療の進歩と日本においては80年間戦死者がいなかった。また幼児の死亡も減少したことがあると思います。しかし、私たちはコロナ感染症で、いつ、だれが命を失うか分からない恐怖を感じました。自分の意志ではないのです。私たちの命は私たちのものではなく神のものだからです。神こそが私たちに命を与えてくださり、その命を養い守ってくださり、お定めになっているときにそれを終わらせられ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださるのです。その神を信じて生きるとき、私たちに思い悩まない人生が与えられるのです。神が本当に自分を愛し、認め、大切にしてくださっていることを信じて生きるとき、自分の存在価値を見いだすことから解放されます。神の養いと守りの下で生かされていると信じて生きるとき、心身の重荷によって、当たり前に出来ていたことが出来なくなってしまったとしても、そのことを受けとめていくことができます。神が地上における死を超えて復活と永遠の命を約束してくださっていると信じて生きるとき、将来に希望が持てないときも、受験や就職に思い悩み、家族の介護や自分の老後に思い悩むときも、絶望することなく生きていけるのです。
思い悩みが決定的に支配することはない
だからと言って、神を信じたらすぐに私たちは思い悩むことがなくなる、ということではありません。神を信じたら、受験や就職の悩みが、家族の介護や自分の老後の悩みが消えてなくなるわけではないのです。しかし私たちが神を信じて生きていくならば、なお悩みがあり、苦しみや悲しみがあったとしても、その悩みや苦しみや悲しみが、私たちを決定的に支配することはもはやありません。私たちの人生を支配しているのは、私たちに命を与え、その人生を導き、支え、守り、お定めになっているときにそれを取り去られ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださる神にほかならないからです。私たちがこのことを信じて歩んでいく中で、思い悩みからの解放が与えられ、私たちは思い悩みから自由になって生きることができるようになるのです。
思い悩みを神に委ねる
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉、詩編55編23節にこのようにあります。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」。神を信じて生きるとは、こういうことです。神が与えてくださっている信仰を受け入れるとは、このように告白しつつ生きることです。私たちの重荷を、思い悩みを、神に委ねます。私たちを養い守ってくださる神に、私たちに命を与え、人生を導き、それを取り去られ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださる神に委ねます。その私たちを、神は必ず支えてくださるのです。なお私たちが様々な思い悩みに直面するとしても、神は私たちに動揺しない歩みを、思い悩みから解放された歩みを与えてくださるのです。私たちはこのことをこそ信じて生きていくのです。祈ります

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