地上に火を投ずる
8月最後の主の日の礼拝を迎えています。通常であれば少しは秋の気配があるのですが、昨日も関東でも40度を超える気温の上昇がありました。私たちの抱く常識というのも結構あやふやなもので、変えられていきます。科学的な常識も随分と破られてきました。科学の進歩は目覚ましく、スマホなど情報機器になかなかついて行けない私など高齢者には、便利さがかえって生活の不便さにもなっていることがあります。ところで、聖書の御言葉にも私たちの常識を破る言葉があります。今朝のルカによる福音書12章49節から53節の主イエスの言葉は私たちの信仰の常識を破る言葉ではないでしょうか。この箇所を読むことに、私たちはあるとまどいを覚えるのではないでしょうか。それは、51節に主イエスのこういう御言葉があるからです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。これはびっくりするようなお言葉です。主イエス・キリストは、地上に平和をもたらすために来て下さった、それが、私たちが普通に思っていることです。常識といってもいい。そしてそれは決して根拠のない思い込みではありません。ルカによる福音書の語る主イエスの誕生の物語において、天使の軍勢が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美を歌いました。主イエスの誕生は、地に平和をもたらす出来事なのです。また、主イエスの誕生物語において、ザカリアは、主イエスについてこのように預言していました。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(1章78-79節)。「あけぼのの光」である救い主イエス・キリストは、私たちを平和に導くと言われました。だから羊飼いたちに救い主の誕生を告げた主の天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美しました。私たちの救い主イエス・キリストは、地に平和をもたらすために来てくださった、誕生してくださったはずなのです。そのように、私たちが信じ礼拝している神は平和の神であり、主イエスを信じ従っていくところには平和が与えられるということは、新約聖書の基本的な教え、常識だと言うことができます。けれども今朝の箇所のこの御言葉は、そういう私たちの常識を覆すようなことを語っているようにも思えるのです。
主イエスが投ずる火
「わたしは地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ分裂をもたらすために来た」。これと同じことを主イエスは49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言っておられます。分裂をもたらすことと、火を投ずる、は同じことを言っているように思います。主イエスがこの地上に火を投ずる方である、それはどのようなことなのでしょうか。49節の後半には、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」という主イエスの言葉があります。つまり、主イエスが投ずる火は、この地上にまだ燃えていないのです。だからわたしがそれを投じる、と言っておられるのです。このお言葉から、この火の意味するものが、平和の反対である争い、戦い、戦争などではないことが分かります。この主イエスがもたらしてくださった「火」は、審きのことだと理解されてきましたが。しかし、もう一つの理解は、これを神の霊、霊の力と解釈するのです。神ご自身に他ならない霊です。そしてこの「火」を審きと理解することと、霊と理解することとは、これは矛盾したり対立したりすることではありません。神ご自身によって、私たちは審かれるのです。そして、その神ご自身に生かされる。神ご自身である主イエスが、その神ご自身の審きの下に十字架にお架かりになりました。そして甦られたからです。「火」とは、神の霊のこと、多くの人々が、そのようにこの言葉を読み取った時に、その「火」が、主イエスによって、ついにこの地上に再び灯されたことに、大きな喜びを感じたのです。そういうことから、わたしたちは今朝の聖書箇所をペンテコステと重ね合わせて読むとよく理解できるのです。「火」は聖霊のことを指します。主イエスが地上に来たのは、聖霊を送るためということになります。十字架と復活を経て、主イエスは天から地上に聖霊を一人一人に降します。使徒言行録2章3節に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たのです。炎のような火は全体を覆うものではなく、分裂したものでした。すべての人を画一化して、クリスチャンを量産する巨大な火ではなく、舌のように分裂した小さな火が、各個人に降り各個人に宿りました。すると、人々は聖霊に満たされ、聖霊が導くままに、同時にさまざまな言語を使って語りだしたのでした(使徒言行録2章4節)。これが教会の誕生、ペンテコステの出来事です。主イエスに従うということは、むしろ分裂が起こるかもしれません。お互いが水平な関係になることです。個人レベルまでばらばらに分裂し、自分の言葉で話すことです。主イエスが来たのは、一人一人に火を送るためです。自分の意見を出し、異なる他者とも生きることができるようにするためです。そして敵とも共存することが平和なのです。
分断の現実
この主イエスのお言葉は、私たちが生きている社会や世界の現状に目を向けるとき、いっそう深刻に受け止めざるを得ません。今、私たちは対立が新たな分裂や分断を生み出していくのを目の当たりにしています。ウクライナにおける戦争は、ロシアとウクライナの対立であるだけでなく、国際社会に新たな分断をもたらしているのです。戦争が長期化する中で、この戦争の原因を、一人の人物や一つの理由に求めることはできなくなっています。世界中の国々を巻き込むことによって、この戦争はとても複雑化し、国際社会に新たな分断をも生み出しています。北朝鮮がロシアを支援して戦争に加わっているということは、東アジアにも戦線が拡大してきている恐れさえもあります。もちろん今も、私たちが命と生活を脅かされている人たちの苦しみに心を痛めていることに変わりはありません。しかし、今や世界の国々の間の分断を深めています。またアメリカのトランプ政権のやり方も世界に分断を深めることになるのではないかとの危惧もあります。
対立と分裂を語ったミカ
今朝の旧約聖書の御言葉はミカ書7章1節から7節をお読みしました。主イエスがもたらす分裂とは、私たちが目の当たりにしているような分裂なのでしょうか。そうではありません。預言者ミカが告発しているように、主イエスが来てくださる前からこのような対立と分裂はあったのです。社会の腐敗を告発し、そこに生じる対立と分裂を語ったミカは、それにもかかわらず7節で「しかし、わたしは主を仰ぎ わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」と告げています。対立と分裂の社会にあっても、願いを聞き届けてくださる神に信頼して「救いの神」を待つ、と告げているのです。このミカが告げたことは、神が独り子主イエス・キリストを世に遣わされることにおいて決定的に実現しました。救いの神は、対立と分裂の社会のただ中に、主イエスを遣わしてくださったのです。そうであるならば主イエスが分裂をもたらすために来たと言われている、その分裂とは、人類の歴史で繰り返され、そして今、私たちが目の当たりにしているような分裂ではあり得ません。
地上に火を投ずるために来た
主イエスは弟子たちに49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われています。主イエスがもたらす分裂は、主イエスが地上に火を投ずることによって引き起こされるのです。しかも主イエスは「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われます。つまり、主イエスが弟子たちに語っている時、まだその火は、燃えていないのです。主イエスはその異なる火を投じるために世に来たのであり、今、その火を投じようとしておられるのです。
私たちを裁き、滅ぼす火
「火」は、聖書において神の裁きのしるしです。ですから地上に火を投ずるとは、地上に神の審きをもたらすことにほかなりません。主イエスはこの地上に神の審きをもたらすために来られたのです。主に忠実に生きようとせず、自分の欲望に従って生きることによって対立と分裂を引き起こしている者たちを審き、滅ぼすために来られたのです。ほかならぬ私たち自身が神に忠実に生きるのではなく、自分の欲望に従って生きているからです。もっともっと欲しいという思いを満たそうとしているのです。欲望の対象が何であれ、大きいことであれ小さいことであれ、自分の欲しい物を手に入れることに満足を得ようとしているのです。私たちは欲望に駆られるとき、しばしば怒りと憎しみにも駆られます。自分の欲望が満たされないとき、思い通りに行かず期待していた満足が得られないとき、私たちは怒りと憎しみにと捉えられるのです。そこに対立と分裂が生じるのです。私たちの身の周りで起こっている小さな対立や分裂であっても、社会や世界で起こっている大きな対立や分裂であっても、相手に対する怒りと憎しみによって引き起こされていることに変わりはありません。主イエスが地上に投ずる火は、このように神に背いて自分勝手に生きている私たちを審き、滅ぼす火です。相手に対する怒りと憎しみによって対立と分裂を引き起こしている私たちを、主イエスが地上に投ずる火は審き、滅ぼすのです。
主イエスが受ける洗礼
50節には、「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。文脈からしてこれは、この火を投ずるために、私には受けねばならない洗礼がある、ということです。主イエスご自身が洗礼を受けることによって、この火が、この世に投じられると言っておられるのです。ここで主イエスが洗礼を受けるとはどういう意味でしょう。ここでの洗礼は、あの洗礼者ヨハネからの洗礼のことではありません。そして50節後半には、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。つまり、主イエスは深く苦しむことによってこの洗礼を受けることになるのです。ですからこの洗礼は、主イエスがこれから受ける十字架の死を意味しています。苦しみを受け、十字架にかけられて死ぬ、という洗礼を主イエスはこれから受けようとしておられると言う意味です。そしてそのことによってあの火が、地上に、私たちの間に、投じられるのです。
私たちが受ける洗礼
私たちは、主イエス・キリストと出会い、その十字架の苦しみと死とによって自分のための救いが、罪の赦しが実現したことを信じて、洗礼を受け、キリスト者となります。それは言い換えれば、主イエスの十字架の苦しみと死とによって私たちの心に火が投げ込まれ、その火が燃え上がる、ということです。私たちが洗礼を受けるとは、主イエスによって心の中に火を投じられることなのです。それは、私たちの心の中にもともと多少は燃えていた火が主イエスによって大きく燃え上がるということではありません。私たちはそれぞれ自分の中にいろいろな火を持っており、それが時として明るく燃え上がったり、くすぶって消えかかったりしています。主イエスが私たちの内に燃え立たせようとしておられるのは、そのような私たちの火ではなくて、神からの火です。神からの火は、私たちの全てを焼き尽くします。生まれつき神をも隣人をも愛するよりも憎んでしまう罪に支配されており、神に逆らい、隣人を傷つけている古い私たちが、この神からの火によって焼き尽くされ、死ぬのです。そしてこの神からの火は、殺すと共に生かす火です。古い、罪に支配された私たちを焼き付くし殺すけれども、それで終りではなく、生き返らせ、新しく生かす火です。そのようにして私たちを救って下さる火です。洗礼を受けてキリスト者となるとは、この神からの火によって古い自分が焼き尽くされて死に、罪を赦されて、神の子どもとして新しく生きる者とされるという救いにあずかることなのです。そしてこの救いを実現して下さったのが、主イエスが受けて下さった、十字架の死という洗礼なのです。主イエスは私たちの全ての罪をご自分の身に背負い、その罪に対する神の審きを代って引き受けて下さいました。罪に支配され神に背き逆らっている私たちは、神の怒りの火によって焼き滅ぼされなければならない、その滅びを、神の独り子である主イエスが代って受け、その火によって焼き滅ぼされて下さったのです。それは主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心でした。主イエスは父なる神のみ心に従って、十字架の死へと道を歩まれたのです。それゆえにこのことが「受けねばならない洗礼」と言われているのです。独り子をこの洗礼のために、つまり十字架の苦しみと死のために遣わして下さったところに、神の私たちに対する深い愛が示されています。この愛によって、主イエスが引き受けて下さった審きの火は、同時に主イエスを生き返らせ、新しい命を与える救いの火となったのです。
新しく生かす火
人間が燃え立たせる火どうしの対立は、戦争や殺戮を引き起こし、双方を傷つけ、殺すことで終り、憎しみが憎しみを増幅させていくという、何の希望も与えない悲惨な対立です。しかし主イエスが投じて下さる火は、このような憎しみに捕えられてしまっている私たちを焼き滅ぼすことによって新しく生かす火なのです。私たちが自分の欲望と表裏一体である憎しみから解放され、憎しみが憎しみを生む悪の連鎖を断ち切って平和を打ち立てていくための道は、主イエスの十字架の苦しみと死によって打ち立てられた罪の赦しの恵みと、そして主イエスの復活によって神が私たちにも約束して下さった、神の子として生きる新しい命の恵みをいただくことにこそあります。私たちはその恵みにあずかるために洗礼を受け、主イエスによって心の中に神の火を燃え立たせていただいて、その火によって新しく生かされていくのです。主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって愛を示されました。主イエスが投じて下さる神の火を受け、その火によって燃やされていくことによってこそ、私たちは、この世界の平和のために本当に貢献していくことができるのです。祈ります。