今の時を見分ける
今年の夏は非常に暑い日が続きました。まだ過去形ではなく連日厳しい残暑が続いています。町の広報から熱中症警戒の声が連日聞えました。テレビでもスマホでも気象情報をよく見ますが、晴や雨ではなく暑さが気になります。民放テレビで、気象情報を中心に、面白く分かり易く解説している番組もあります。今や気象情報も進歩しています。以前は富士山レーダーが活躍していましたが、今は気象衛星が正確な映像を伝えています。民間の気象情報専門会社がかなり局地的な気象情報も提供するようになりました。あらゆる業界で天気予報を必要としているのです。気象予測によってスーパーの売り上げを予測したり、イベントにも天気予報はかかせません。このように今はさまざまな手段で天気予報を知ることができます。
今日の個所で、主イエスは、天気予報のことを群衆に語っています。「あなたがたは雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる(54節)。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」(55節)。当たり前のことですが、当時は天気予報などありません。人々は日々の生活の中での経験から、こういう空模様になると、こういう現象が後に続いてやってくる、そういう天候の法則のようなものをわきまえ知るようになっていました。パレスチナ地方で西に雲が出るということは、地中海の湿気をたくさん含んだ雨雲が西から湧きあがってきている。だから西雲が出ると、決まってにわか雨に降られることになると知っていたのです。ガザは地中海に面した町ですが、奥地のエルサレムからは、地中海は西になります。また南風は砂漠のある乾燥した暑い地域の空気を運んできます。だから南風が吹く時には決まって暑くなる、ということが見通せたのです。こうして天候からある兆しを見て取って、それによってその日の生活の予定を立て、これから起こることに備え、対応しながら日常の生活を送ることができたのです。それは当時の人たちにとってみれば、いわば当たり前のことで、自然なこと、当然のこと、いわば常識であったのです。日本では、夕焼けがきれいに見えると明日は晴れだというのは常識ですね。
主イエスは群衆に語ります。あなたがたはそのように空や地の模様を的確に見分けることができるのに、どうして今の時を見分けることができないのか、と言われました。今の時を見分ける、それが今朝のテーマです。それは、様々な徴から、今がどのような時であるかを正しく知り、これから何が起るのかを正確に見通し、それに対処する、ということでしょう。そういう知恵を持て、と主イエスは言っておられるのです。私たちはこのような知恵の大切さを知っています。社会的、経済的に今の時を見分け、世の中がこれからどう動くか、予測するでしょう。トランプ関税が世界経済にどういう影響を与えるか、関心事ですが、為替相場や株価がどうなるかを見通すことができれば、社会的に成功することもできるし、ひと財産築くことができるでしょう。しかし言うまでもなく、主イエスがここで「今の時を見分ける」と言っておられるのは、そういうことではありません。社会や経済の情勢を見分けることではありません。それでは主イエスはいったい何を見分けることを求めておられるのでしょうか。
あなたを訴える人
そのことは、57節以下を読むことによって分かってきます。57節に「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」とありますが、これは、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(56節)と同じことを語っています。今の時を見分けるとは、何が正しいかを自分で判断することです。そしてここで判断すべき正しいこととは何かが語られているのです。主イエスは集まった群衆にこういう話をされました。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには」とありますが、もしそういう事態になったなら、という仮定の話ではありません。主イエスは、今あなたは、自分を訴える人と一緒に裁判官のところへ向っているのだ、そういう状況にあるのだと言っておられるのです。自分がそういう状況にあることをはっきりと知ることこそが、何が正しいかを判断することであり、そしてそれが、今の時を見分けることだと言っておられるのです。
自分を訴える人がいる、つまり、主イエスはここで私たちに、目を開いてそのことを見つめさせようとしておられます。「最後の一レプトンを返すまで」と言っています。「レプトン」をインターネットで調べると、それは素粒子の分類の一つであるとありますが、聖書の中ではユダヤの通貨の最小単位です。日本で言えば5円程度ということでしょうか。この訴えからわかるように、この訴えは、借金の返済を求める訴えです。つまり私たちには、返済しなければならない借金、負債があるのです。聖書においてこの借金、負債は、罪を表すたとえとしてしばしば用いられます。借金は返すか、免除してもらわなければいつまでも残ります。同じように罪も、償うか、赦してもらわなければ解決しないのです。あなたには、償うか、赦してもらわなければならない罪がある。あなたがその罪を犯し、傷付け、苦しめている人があなたの傍らにいて、あなたはその人と共に、役人あるいは裁判官、つまり裁きをする者のもとへと向っているのだ、それが、あなたの置かれている状況、立場だ、そのことを正しく知り、見分けなさい、と主イエスは言っておられるのです。このことを見分けたなら、そこでなすべきことが明らかになります。「途中でその人と仲直りするように努めなさい」ということです。自分が罪を犯し、傷付け、苦しめているその人と仲直りする。それは、ただ「仲直りしよう」と言うだけでは実現しません。自分の罪を認めてきちんと謝ること、そしてできるだけの償いをし、相手の赦しを求めることです。借金と違って罪は、いくら返したからこれでもう返済終了、というわけにはいきません。私たちのできる罪の償いには限りがあり、赦してもらうことなしには解決はしないのです。あなたにはそのように、赦してもらうことでしか解決しない罪がある、そのような、ねじれた関係に陥っている相手がいる、しかもその人はどこか遠くにいるのではない、あなたのすぐ傍を共に歩んでいる、目を開いてそのことを見つめ、その人と仲直りをするために、赦してもらうために努めなさい、それが、今の時を見分けること、何が正しいかを自分で判断し、実行することなのだと、主イエスは言われているのです。そのように、ご自分の周りに集まっている群衆全体に、つまり信仰者にだけでなく、信じていない人々にも、疑いや迷いの中にある人々にも、語りかけておられるのです。
主イエスが言う偽善者とは
56節に「偽善者」という言葉が出てくることを、私たちは最初不思議に思います。今の時を見分けることができない者のことがどうして偽善者と呼ばれるのか、「愚かな者」であれば分かるが、と感じるのです。しかし、今の時を見分けることの内容を57節以下から示され、自分を訴える人、自分が罪を犯し、赦してもらわなければならない人がいることを認めることこそが今の時を見分けることだと知らされる時、それを認めないこと、つまり自分の罪を認めず、赦してもらわなければならないことなどないと言い張ることがまさに偽善であることが分かります。偽善者というのは、自分の罪を覆い隠して善良な者であるように装っている者ですが、私たちが偽善に陥るところで起っていることはむしろ、自分の罪に目を塞いでそれを見ようとせず、またそれを見ないために自分の正しさを必死に主張している、ということなのではないでしょうか。
「偽善者」という言葉は、実はここで初めて出てきたわけではありません。この章の一番初めに、群衆たちが集まってきたその時に、主イエスがまず弟子たちに話し始められた。その時に主はこうお語りになったのです。12章1節後半の言葉です。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」(1節)。うわべでは神を敬っていても、心の中では自分が一番大事になっている。神の掟を守れない人を軽蔑し、心の中で裁いている。神の前で自分の真実の姿をさらけ出さずにすませると高を括り、神の前で清い自分を取り繕おうとしている。それがファリサイ派の人々の姿です。それと同じ言葉が、今度は群衆たちに向かって飛んできたわけです。「偽善者よ」!ということは、ファリサイ派であろうが、弟子たちであろうが、そしてこの群衆たちであろうが、誰であろうと、偽善の罪から自由な者はいない、ということです。私たち皆が偽善者だ、そう言ってもよいのです。
主の定めを知ろうとしない民
今朝の旧約聖書の御言葉はエレミヤ書8章を読みました。預言者エレミヤは背きの民イスラエルを、この神からの問いかけに直面させました。8章5節から7節までをもう一度読みます。
「どうして、この民イスラエルは背く者となり/いつまでも背いているのか。偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。(5節)
耳を傾けて聞いてみたが/正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなく/わたしは何ということをしたのかと/言う者もない。馬が戦場に突進するように/それぞれ自分の道を去って行く。(6節)
空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」(7節)。
「偽善者よ」と言われると、そんなことない、と私たちは言い返したくなってしまいます。腹を立てさえするでしょう。私たちは誰も、本当のことは認めたくないのです。本当の姿を暴かれたくない。自分の醜い現実に直面したくない。そこでうまく取り繕って済ませている。しかしそれがあなたの現実だ。主の定めが、今キリストによって目の前に差し出されているのに、それを敢えて知ろうとしない。そこにあなたの偽善がある。あなたは「偽善者」。それがあなたの真実の姿だ、主はそうおっしゃるのです。腹立たしいし、認めたくないことだけれども、事実なのです。
今という時のあるうちに
これだけ空や地の模様を正しく見極めることを心得ていながら、なぜ今という時のしるしを正しくわきまえることができないのか。主はそうお語りになったすぐ後で、私たちがどのような道を今歩んでいるのかをお示しになりました。私たちの毎日の歩み、それは自分を訴える人と一緒に役人のところへと向かっていく途中のようなものだ、というのです。私たちは誰でも、一緒に歩いている人から、神の前に訴えられかねない中を歩いているのです。明らかに、借金したお金を返さないことで訴えられ、役人の所に連れて行かれる場面が描かれています。そこでなすべきことは何か。役人のところに到着する前に、今自分を訴えて、役人のところに連れて行こうとしているこの隣人と早く仲直りをすることなのです。和解をすることなのです。私たちは誰でも、こうしてお互いのことについて告訴状を持ちながら、一緒に歩いているところがあるかもしれません。誰もが互いに、隣人に対して負い目を持って歩んでいます。共に生きる人に対して果たすべき責任を果たしていない、そのことを持ち出され、訴えられたらどうするのか。ぐずぐずしているわけにもいかないのです。時は迫っている。手遅れにならないうちに心を改めなければなりません。一度、裁判の手続きが開始されたのなら、後戻りできないのです。その隣人は私たちを裁判官の前に引きずっていき、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。そして1レプトンという一番小さな額のコインを、すべて返し終わらなければ、そこから出てくることはできなくなるのです。主イエスが再び来られる時とは、この最後の裁きが始まる時です。その時になったら、もう後戻りはできない裁判が開始されるのです。私たちはどうかすると、なんでも赦していただける、このまま終わりの日に至ってもなんとかなると高を括っているところがあるかもしれません。けれども残されているのは「今」という時しかないのだ、と主はおっしゃるのです。「今という時のあるうちに」、私たちは自分を訴える人と仲直りをしなければならないのです。
人生途中で仲直り
人生途中でその人と仲直りする。何よりも神御自身が、私たち一人ひとりと仲直りを望んでおられるのです。本来ならば、私たち自身が自分の非を認めて悔い改めるべきところです。けれども、神御自身が下手に出て、我が独り子イエスを、あなたの罪のために犠牲にするから、これで仲直りをしようと手を差し伸べてくださっているのです。独り子イエスを犠牲にする。それは、父なる神の勇気です。愛です。仲直りをするためには、愛と勇気が必要なのです。私たちは皆、人生の途中を歩んでいます。そこで何よりもまず、主なる神と仲直りをさせていただきましょう。絶えず悔い改めて、神さまの愛と勇気に感謝して、御言葉に聴き従う生き方へと立ち帰りましょう。そして、神さまを見上げて祈り、人との仲直りを実現していきたいものです。まだ遅くはありません。今です。
今の時を見分ける
「今の時を見分ける」、今がどんな時なのかをわきまえ、それに応じた行動をとる、求められているのはそのことですが、しかし私たちに本当にこの時のしるしを見極めることなどできるのでしょうか。むしろ神の時を見分けることを拒む頑なさを、自分たちだけではどうにもできなかったからこそ、主イエスは十字架の死にまで至ってしまったのではないでしょうか。この神との関係を真実なものとするために、その独り子が、私たちに代わって十字架にお架かりになり、私たちが受けるべき裁きを代わってその身に負ってくださいました。そうだとしたら、ここに出てくる私たちと道行きを共にする人とは、主イエスご自身のことでもあるのではないでしょうか。もちろんこの主イエスは、終わりの日に来られる裁き主、私たちを裁く裁判官でもあります。けれども同時に、この裁判官は私たちを看守に引き渡して、私たちが返しきれない負債を抱えたままで滅びの牢屋にぶちこまれることを何とか避けたいと躍起になり、いつも心を砕いてくださっている、そういう裁判官なのです。私たちを愛してやまないお方なのです。まさに私たちの主は、「苦しむ裁き主」なのです。私たちのことをこれほどまでに愛してくださる主によって神との間に和解を得ることができるならば、それによって隣人との関係もまた、「仲直りするように努める」歩みとなっていくはずです。神との関係と、隣人との関係は結び合っているからです。そしてこのことは、どんな他者よりも先に、一番近く、今日も私たちと歩みを共にしてくださっている神の独り子、主イエスというお方を重んじることから始まるのです。これこそが、来るべき御国をわきまえて今を生きることです。時を見分けて今を生きることなのです。そして神との間に和解を与えられた者として、共に生きる隣人との和解にも生きる者とされる。それこそが実は、神の子とされた私たちにとって、あたりまえの生、最も自然な生き方、御国の常識をわきまえた歩みなのです。 お祈りします。