はじめに
今朝もルカによる福音書から御言葉の恵みに与ります。今朝の説教題は「悔い改めの実」と付けました。キリスト教において悔い改めというのは、とてもよく使われる大切な言葉です。それでいて、きちんとした意味が伝わっていない誤解されやすい言葉であるとも言えます。悔い改めとは後悔や反省などと似たような言葉だととらえていないでしょうか。悔い改めるとは、一般的には自分の過ちを反省して心を入れかえることを意味します。しかし、キリスト教における悔い改めは、この説明では不十分です。キリスト教における悔い改めとは、自分の罪を認めて神に心を向けることです。つまり、今まで罪を犯して神に背を向けていたところから、神に向き直ることです。このように、キリスト教における悔い改めとは、神が中心にあるのです。 悔い改めというと、何か重い罪を犯した人だけの話だと思いがちですが、人は誰しもが神から見れば罪人です。パウロは、ローマの信徒への手紙で次のように言っています。
「正しい者はいない、一人もいない。 11悟る者もなく、神を探し求める者もいない。 12皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない、ただの一人もいない。」(ローマ 3章10~12節)
アダムとエヴァが罪を犯して以来、罪の性質が入り込み、人間は神に背き続けています。ですから、悔い改めというのは全ての人間に必要なものなのです。ルカは使徒言行録17章30節で次のように言っています。
「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めるようにと、命じておられます。」(使徒行伝17章30節)
つまり、自分には関係ない!と思ってはいけないということです。「悔い改め」と似たニュアンスの言葉に、「後悔」というものがあります。確かにどちらにも、自分がしてしまった過ちを悔やむといった意味合いがありそうです。しかし、これらは似て非なるものです。最も大きな違いは、神に心を向けるかどうかです。「後悔」は過去の過ちを悔やみはしますが、それで終わりです。神に心を向けることもなく、罪の中にとどまり続けます。一方で、「悔い改め」はただ悔やむのでなく、神への心の方向転換が伴います。その結果、背を向けていた神に向き直り、罪から離れた新しいスタートを切ることが出来るのです。さて、今朝の個所で、主イエスは、悔い改めなければあなた方は滅びると言われました。早速、み言葉から聴きましょう。
悲惨な出来事
冒頭の13章1節に、「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(1節)とあります。先週の個所になりますが、主イエスが話されていた「ちょうどそのとき」に、何人かの人が来て、ショッキングな事件を主イエスに伝えました。ピラトというのは、ユダヤの総督ポンティオ・ピラトです。ピラトは後に、主イエスを十字架につける判決をくだしたのです。このピラトが「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という残虐な行為に及んだと言うのです。この出来事は、ほかの資料に記録がなく、聖書のこの箇所にしか記されていません。しかし多くの学者は、この出来事が実際にあったに違いないと考えています。新約聖書ではピラトの人となりはそれほど多く語られていませんが、同時代の資料には、ピラトは「融通が利かない、頑固で、残酷な」人物であったと記されているので、彼がこのような行為に及んでも不思議ではないと考えられているのです。ピラトは、おそらく過越の祭りのときにエルサレム神殿に来て、いけにえの小羊をささげようとした何人かのガリラヤ人を殺したのでしょう。文字通りには、その人たちの血をいけにえに混ぜたことになりますが、要は、ピラトが神殿でガリラヤ人たちを殺したことを「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言い表しているのかもしれません。
シロアムの塔、倒れる
この箇所には、もう一つショッキングな事件が記されています。こちらは主イエスのもとに来た群衆ではなく、主イエスご自身が話された事件です。シロアムの塔が倒れて18人が亡くなった、と言うのです。シロアムは、ヨハネ福音書9章7節に出てくる「シロアムの池」のシロアムです。シロアムの池は、エルサレムの南東の城壁の内側にありました。シロアムの塔は、おそらくこのシロアムの池の近くにあったのでしょう。城壁の工事にともなう水道工事の際に、このような事故が起きやすかったようです。このシロアムの塔が崩壊した事件もほかの資料には記録がなく、聖書のこの箇所にしか記されていません。しかし当時は誰もが知っていた事件であったのだと思います。だからこそ主イエスはこの事件を取り上げたのです。
当時の応報思想
このように二つのショッキングな事件が、人々の間でホットな話題となっていました。同じようなことはいつの時代も起こっています。日本でも毎日のように事故は起きています。地震も水害も、突然道路が陥没して車が地面の奥深くに落ちるという悲惨な事故も起きます。私たちも日々、ショッキングな事件を知らされて、日常の会話の中でそれらを話題にしているのです。ところで主イエスのところにやって来た人たちは、この二つの事件をどのように受け止めていたのでしょうか。この人たち自身は何も語っていませんが、主イエスのお言葉から窺い知ることができます。主イエスはこのように言われました。
「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い
者だったからだと思うのか」(2節)。
「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々より
も、罪深い者だったと思うのか」(4節)。
つまり主イエスのところにやって来た人たちは、あるいは二つの事件を話題にしていた人たちは、「ピラトに殺されたガリラヤ人は、ほかのガリラヤ人よりも大きな罪を犯したから、そのような目に遭ったのだ」、「シロアムの塔が倒れて亡くなった18人は、エルサレムに住んでいたほかの人たちよりも大きな罪を犯したから、そのような災難に遭ったのだ」と思っていたのです。実際、そのように考えるかな、とも思うのですが。このように自分の行いに応じて報いがあるという考えは「応報思想」と呼ばれます。この因果応報という思想は当時のユダヤ人の常識的な考えでした。ヨハネによる福音書9章で、生まれつき目の見えない人について、弟子たちが主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねていますが、この弟子たちの言葉に応報思想がはっきりと表れています。本人が罪を犯したから、あるいはその両親が罪を犯したから、その罰として生まれつき目が見えないのだ、と当時のユダヤ人は考えていたのです。
「罰が当たった」と考えるか
このような考え方は私たちと決して無関係ではありません。私たちはショッキングな事件が起こるとき、しばしばその事件が起こった原因を話題にします。悲惨な目に遭った人の過去を詮索して、私たちはどこかで自分はあの人ほど酷いことをしていないから、あんな悲惨な目に遭うことはないと思ってしまうことがあるのです。自分も神に従えないことがあり、罪を犯してしまうことがあり、悪いことをしてしまうことがあるけれども、あの人ほどは酷いことをしていない。だから自分はあれほど悲惨な目に遭うことはない。そうやって自分とほかの人の罪を比べることで安心を得ようとしてしまうのです。それだけでなく私たちは、自分自身が悲惨な目に遭ったときも「罰(ばち)が当たった」と考えてしまうのです。私たちは人生において悲惨な目に遭うことがあるかもしれないし、今、現に遭っているかもしれません。そのとき思うのです。今、こんな酷い目にあっているのは、自分が悪いことをしたからではないか、と考えるのです。そう考えることで、自分が直面している災難、苦しみや悲しみの原因を説明しようとします。「罰が当たった」と考えることで納得しようとするのです。しかし、仮にそれで納得できたとしても、私たちに生きる希望と力が与えられるわけではありません。むしろまた罰が当たるかもしれないという不安と恐れを抱き続けるしかありません。応報思想で説明することでは、悲惨な現実の中にあり、耐え難い災難の中にあり、押し潰されそうな苦しみや悲しみの中にある私たちに、生きる希望と力が与えられることは決してないのです。
神に方向転換
主イエスは、罰が当たったと考えることに対してノーを突きつけた上で、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われたのです。この主イエスのお言葉を、悔い改めることが滅びないことの条件だと受け止めるなら、私たちは応報思想に逆戻りするだけです。しかし、ここで主イエスは滅びない条件として私たちに悔い改めを求めているのではなく、悔い改めて生きるように私たちを招いておられるのです。悔い改めるとは、向きを変えることです。方向転換をすることです。どこを向くのか、どちらに方向転換をするのか。神の方にです。悔い改めるとは、私たちが神の方を向くこと、神の方に方向転換をすることなのです。自分自身やほかの人のことばかり見つめて生きることから方向転換をして、神のことを見つめて生きるようになることです。そのとき私たちは神が自分を愛してくださっていることに気づかされます。独り子イエス・キリストを十字架に架けてまで、私たちを愛してくださっていることに気づかされるのです。もちろん神の愛に気づけたからといって、不条理な現実が消えてなくなるわけではありません。苦しみや悲しみがなくなるわけでもありません。しかしその不条理な現実を、私たちの苦しみや悲しみ、やりきれない思いを神との関わりの中に置くことができる。私たちは不条理な現実に向き合い、苦しみや悲しみを担うことができるのです。「滅びる」とは、自分の体がばらばらに砕け散ってなくなるようなことではありません。そうではなく神との関係が失われることです。神の方に向き直り、神が自分を愛してくださっていることに気づかされ、神との関わりを持って生きることこそ、滅びないで生きることなのです。そこに、応報思想とはまったく違う道が、自分の苦しみや悲しみばかりを見つめるのともまったく違う道が開けていくのです。不条理な現実によって私たちは滅ぶのではありません。不条理な現実にあって、神との関係を失うことによって滅びるのです。だから主イエスは、悔い改めなさい、神の方を向きなさい、神との関わりを持って生きなさい、その神との関わりの中で苦しみや悲しみを担いなさい、と言われるのです。
主イエスの執り成し
「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われると、主イエスが私たちを脅しているように思えるかもしれません。しかしこの主イエスのお言葉は私たちを脅しているのではなく、私たちを悔い改めへと招いているのです。私たちが悔い改めて、神の方に向き直り、神との関わりを持って生きられるよう、主イエスは私たちに働きかけてくださり、執り成してくださるのです。主イエスは、神と私たちの間に立って執り成してくださる。6節以下の主イエスの譬え話は、この主イエスの執り成しを見つめているのです。
実のならないいちじくの木の譬え
この主イエスの譬え話で、なぜ、いちじくの木をぶどう園に植えたのか、と疑問に思われるかもしれません。ぶどう畑の環境でいちじくが実るのは無理がある、という理屈もあります。私が愛知県にいた時、水田を転作でいちじく畑にした農家を見ました。いちじくは水が豊富な土壌が適しているように思います。聖書学者は色々な説明をしていますが、当時、ぶどう園にいちじくの木を植えることが行われていた、という説明で十分なように思います。それよりこの譬え話において大切なのは、ぶどう園の主人とは神であり、園丁とは主イエスである、ということです。いちじくの木を植えたぶどう園の主人は、そのいちじくの木に実がなっているのを探しに来ましたが見つかりませんでした。そこで主人は、園丁にこのように言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ、なぜ、土地をふさがせておくのか」。それに対して園丁は答えます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。ぶどう園の主人が植えたいちじくの木とは、私たち一人ひとりのことです。そしていちじくの木に実がなるとは、私たちが悔い改めて、神の方に向き直り、神との関わりを持って生きるようになることです。でも、その実が見あたらない。私たちはなお悔い改めることなく、神の方を向かず、自分ばかりに目を向け、あるいは自分とほかの人を比べて生きている。だから神は、実のならないいちじくの木を、悔い改めない私たちを「切り倒せ、なぜ、土地をふさがせておくのか」と言われるのです。
今朝の旧約聖書の御言葉は、ハバクク書3章17~19節を読みました。
ハバククは、私たちの生存に必要不可欠なものがなく死を覚悟しなければならない状況でも、喜び躍り楽しむことが出来ると告白します。しかも「そういう中にあってもなお力があり、歩み、生きることが出来る」と、ハバククは歓喜のうちに賛美を献げ、その賛美の根拠が「救いの神であられる主なる神である」と告白をします。
ハバクク書が、他のどの聖書とも違うことは、神に対する猛烈な不服申し立てから始まることです。それは最後の部分の賛美とは真逆の内容です。しかしここから私たちが教えられる大事なことは、信仰とは、真剣であればあるほど、神への嘆きと神への喜びが同伴するということです。ヨブ記のヨブもそうです。因果応報を信じヨブに悔い改めを迫った友人たちを退け、ヨブは神に不平・抗議を訴えながら神に向い続けました。苦しみの中で、ヨブは執り成してくださる弁護者を求めました。新約の時代に生きる私たちは、その弁護者なる聖霊なる神を知っています。神は独り子イエス・キリストを十字架に架けてまで私たちを救ってくださいました。それほどまでに私たちを愛してくださっているのです。その救いの恵みの中に生かされているにもかかわらず、なお私たちは悔い改めようとしない。神の方を向こうとしないのです。神は、私たちが悔い改めて、神に向き直って生きるのを期待していてくださり、忍耐して待っていてくださるのです。
私たちは、この自分のことばかりを見つめている目を、神の方に向き変えることがなかなか出来ません。まことに頑なな、悔い改めようとしない私たちなのです。しかしそのような私たちのために、神の独り子であられる主イエス・キリストが人間となって下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。この主イエスによって、私たちが悔い改めて神と向き合って生きる者となるための道が開かれたのです。私たちは苦しみや悲しみの中で、神に向き会うことを見失ってしまう者ですけれども、しかしその中でも、ヨブのように真剣にそのみ心を求めていく時に、神ご自身が私たちにみ顔を示して下さり、悔い改めて神と共に生きる者として下さるのです。そこにこそ、苦しみや悲しみの中にあっても支えられ、慰められ、平安を与えられて生きる道があるのです。お祈りします。