【マタイによる福音書6章9節前半】だから、こう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ。
「天におられる」と祈りますが、天は場所をさすのではありません。神が全知全能であって、神の力の及ばないところはなく「聖」であり「義」であることをさすのです。そして私たちが祈る対象は、父なる方です。神を父と呼ぶことは旧約聖書にもよく知られています。ルターはこの呼びかけについて「神はこれによって、神が真に私たちの父であることを信じさせ、こうして、あたかも、愛児が慈父に向かうような喜びと信頼とをもって、神に祈りをささげるように、私たちに勧めておられるのである」と教えています。私たちが祈る対象は、抽象的なものではありません。父なる神と呼びかけることのできる人格をもった神です。しかも、父なる神は、私一人の父ではなく、共に罪赦されたすべての者の父なる神です。神の御前では、人種や階級や貧富の差はありません。「わたしたちの父よ」と呼びかけることは、私たちの家族、友人のみならず、キリストを信じる者も信じない者も、憎らしい敵をも含んでいるのです。私を苦しめたあの人、この人を思って私たちは「わたしたちの父よ」と祈れるでしょうか。キリストのゆえに祈ることが赦されているし、祈らねばならないのです。敬老の日に子供たちから祝われる立場になった現在、自分が敬うこともなく反面教師としてしか見ていなかった父親を、今は懐かしく、天にいて見守っていてくれるように思えるようになったのは、「父よ」と呼びかける祈りを教えてくくださった御子イエスのおかげでしょう。いつでも祈る「主の祈り」はすばらしい祈りの見本です。