10/26説教「子供を祝福する」

はじめに
今朝の御言葉は「子供を祝福する」という説教題にあるように、主イエスが幼子を招かれた。という出来事が語られています。教会によっては幼児祝福式を礼拝で行なっている教会があります。幼児祝福式というのは、子どもたちが神に愛され生まれてきたことを教会全体で喜び感謝をささげる日です。大磯教会では行っていません。また私が子どもの頃通っていた教会でも、幼児祝福式は行いませんでしたが、しかし、共に子供たちを招く教会学校の働きは大きく、子供たちも教会へたくさん来ていました。子どもたちが多く、キリスト教に対する社会の期待感も強い時代でした、ということもあるでしょう。私自身も小学生から日曜学校に通い、青年時代から結婚してからも日曜学校の教師をしており、子供の説教をする中で聖書を学んできたという経験があります。信徒時代に日曜学校の校長もしていました。大磯教会の教会学校も早く再開したいと願っています。教会学校の子どもたちの声がにぎやかな教会は喜びが溢れます。さて、今朝のお話は、主イエスが神の国、神のご支配に入れられる人とは、どのような人なのかが語られています。16節で主イエスが「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われていることからも分かります。早速、御言葉の恵みに与りましょう。
主イエスに触れていただくために
今朝の箇所の出来事は、マルコによる福音書10章13~16節とマタイによる福音書19章13~14節でも語られています。福音書の中で最初に書かれたのはマルコ福音書と考えられているので、この箇所でルカ福音書は、マルコ福音書を下敷きにして書かれていると考えられます。両者を比べるとほとんど同じですが幾つか違いもあります。その違いは、後から書かれたルカ福音書が下敷きにしたマルコ福音書を変更した部分であり、そこにルカ福音書ならではのメッセージがあるのです。私たちはそのことに目を向けつつ、主イエスが語ったメッセージを聴きとりたいと思います。
冒頭15節にこのようにあります。「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った」。人々は主イエスに触れていただくために乳飲み子を連れて来ました。それは、自分自身のためではなく自分の子供たちのためでした。自分の子どもが主イエスに触れていただき、力を与えられ、恵みと祝福を受けることによって健やかに成長することを願って連れて来たのです。マルコ福音書には、「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(10章16節)とあり、主イエスが子どもたちに手を置いて祝福されたと語られています。ここでも、主イエスに手を置いて触れていただき、祝福してもらうために、人々は自分の子供を主イエスのもとに連れて来たのです。ところで、マルコ福音書10章13節では、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」と語られています。マルコ福音書が「子供たちを連れて来た」と語っているところを、ルカ福音書は「乳飲み子までも連れて来た」と語っていて、「子供たち」を「乳飲み子」に変えているのです。「子供」と訳された言葉は、通常、思春期より下の年齢の子どもを指す言葉で、赤ん坊も含みますが、幅の広い年齢の子どもが含まれます。それに対して「乳飲み子」とは、文字通り乳児を指す言葉であり、また福音書の中ではルカ福音書だけで使われている言葉です。マルコ福音書では、子どもたちは親に連れて来られたとはいえ、自分で歩いて来たのかもしれません。しかし飼い葉桶の中に寝かされた主イエスと同じような乳飲み子であれば、もちろん歩くこともできなかったし、もしかしたら首も座っていなかったかもしれません。親が抱きかかえて連れて来るしかなかったのです。自分から主イエスに触れることもできないので、主イエスに触れていただくしかなかったのです。
大人を叱った弟子たち
そのような乳飲み子を人々が連れて来たところ、主イエスの弟子たちは「これを見て、叱った」と言うのです。これは考えてみれば分かることですが、弟子たちが叱ったのは、乳飲み子ではなく、乳飲み子を連れて来た大人たちに対してです。弟子たちが大人たちを叱った理由については色々と想像することができるでしょう。彼らは、主イエスの安全を確保するために叱ったのかもしれません。あるいは主イエスの忙しさを心配してのことかもしれません。エルサレムに向かう途上で、主イエスは群衆に語りかけ、ファリサイ派の人たちや律法学者たちと論じ合い、弟子たちに教えておられました。忙しく慌ただしい日々を送っていたのです。それを間近に見ていた弟子たちは、この上、乳飲み子までも構っていたら先生が倒れてしまう、という思いがあったのではないでしょうか。ルカ福音書は、わざわざ「乳飲み子を」ではなく「乳飲み子までも」と語っています。それは、大人だけでも子どもだけでもなく乳飲み子までも主イエスのもとにやって来たということを強調しているだけでなく、大人と子どもはともかくとして、乳飲み子までも相手にしていられない、という弟子たちの思いをも強調していると思います。いずれにしても弟子たちは乳飲み子を連れて来た大人たちを叱ったのです。主イエスは、乳飲み子であったとしても、神の国に招かれるのだと言ってくださるのです。ここには、大きな希望が満ち溢れています。
乳飲み子は神の国へ入れるか
ある説教の中で語られていたことですが、ある方が「乳飲み子を連れてきてお祈りしてもらうメリットがどこにあったのでしょうか?」という質問をされた方があったようです。なぜ、乳飲み子を連れてきたのか不思議に思うわけです。もちろん、その答えは想像するしかないのですが、こんなにも人気のある主イエスに触れていただいたら幸福になれるとか、神の祝福が与えられると考えたのではないかと思います。ルカ福音書には書かれていないのですが、マタイ福音書でも、マルコ福音書でも、主イエスが子どもたちに手を置いてお祈りしていることからも分かります。そして、ルカ福音書には、1つのテーマがあるように思います。それは、連れられてきた乳飲み子は、神の国に入れるのか? というテーマです。もっと分かりやすく言うと、救われたいと思っていない人に、神の救いが与えられるのか? ということです。そして、この問いの結論は、「はい」と言える部分と「いいえ」と言える部分があると言えます。まず、「はい」となぜ言えるか、から考えてみたいと思います。16節をお読みします。
16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
主イエスはここで明確に、自分で選び取って主イエスの前にきたのではない、しかも自分でよく考えることもできない乳飲み子であったとしても、神の国はそのような人たちに与えられるということを明確にしておられます。このことは、とても大きなことです。私たちは、救われるために、あるいは信仰を持つためにある程度の信仰理解が必要であると考えています。その点で、乳飲み子は対象外です。「乳飲み子」という言葉からも良く分かるように、まだ乳を飲んでいる子どもが、どのくらいキリスト教の教理を理解できるのか。そう考えると、まったくもってまだかれらは対象外であると考えた弟子たちの気持ちも理解できるのです。私たちも、そのように考えがちだからです。洗礼は何歳から受けられるのか、判断に迷うところですが。小学生では早いのか。幼児洗礼は何歳までなのか。けれども、少なくともこの箇所の主の言葉を聞くと、乳飲み子であったとしても、神の国、神の救いは与えられることを、主イエスがここで語っていてくださることが分かります。
では、誰でもどんな人であったとして洗礼を受けられるのか、神の国に入れるのか、救いをいただけるのか。その意味でもう一度整理すると、どんな人でも神の国に招かれているということを答えているのが16節で、次の17節では、ではどういう人が神の国に入れられるのかについて、主イエスは答えておられます。17節をお読みします。
17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ここで、主イエスは「子供のように神の国を受け入れる人」が神の国に入ると言っています。では、この「子供のように」という言葉が何を意味しているのか、そこが重要です。私たちはつい、「子どものようになるべきだ」という考え方をしてしまう場合があります。子どもは純粋だからそういう部分が大事なのだとか、素直さだとか、さまざまな子どもの美徳をここから考えようとする場合があります。けれども、そうすると、誰でも招かれているという16節の言葉がどこかに行ってしまって、結局、「子供のようになれる人だけが」という理解にもなってしまいかねません。
ここで主イエスが言われる「子供のように神の国を受け入れる」というのは、どういうことなのでしょうか?主イエスが言われる「子供のように」というのは、「何も持っていない者」ということです。「乳飲み子がただ乳を必要とするように、神の国を受け取る者」という意味です。大事なことは、神の国、主イエスが与える救いを受け取るかどうかです。ただ、それだけが、ここで言われているのです。逆に言うと、神の国を受け取ることができなければ、当たり前のことですけれども、神の国に生きることにはならないのです。
子どもの理解ですから、受け止め方はいたってシンプルです。はじめは死後の世界の意味での「天国に入れる」という受け止め方だったかもしれません。あるいは、ただ、神の話を聞いていたいということだったかもしれません。その神の国の中身については、そのあと、どんどん上書きされていって、信じている内容は更新されていきます。「神の国」とは神様のご支配だと。それで良いわけです。神の国に入ることができる者というのは、何かとても厳しい条件があるのではなく、主イエスのことを受け止めるところから、はじまっていくのです。
ここまで理解していなければならないとか、あるいは、聖書が自分でちゃんと読めるようになる必要があるとか、あるいは、ちゃんと献金して、奉仕できるようにならないとダメとか、そういうことではないということです。年老いて、いろんなことが理解しにくくなってしまったというような人に対しても、あるいは、病気のために意思の疎通が難しいような状況だとか、まだ小さな子どもや、日本語がよくわからない外国の方が教会に来るというような場合も含めて、神の救いはその人たちの前に示されているということなのです。その人がどんな状況の中にあっても、家族や、知り合いが救いをあきらめる必要はないのだということです。何より一番大事なのは、実は私たち自身が一人ひとり、いくつになっても、大人になっても、神さまの愛する子どもである、という事実です。
子どものように
子どものように、とりわけ乳飲み子のように神の国を受け入れるとは、ただひたすらキリストによって実現した神の恵みのご支配を受け入れて生きることです。私たちはしばしば目に見えない神の恵みのご支配を信じられず、その証拠が欲しいと思ってしまいます。「どうしてこんなことが起こるのだろうか」と思わずにはいられない現実の中で、神の恵みのご支配を受け入れるための証拠を求めてしまうのです。しかし乳飲み子は、徹底的に受け身で生きるしかありません。自分で主イエスのもとに来ることができないので、親に抱きかかえられて連れて来られるしかなかったし、自分から主イエスに触れることもできなかったので、主イエスに触れていただくしかなかったのです。言葉で自分の気持ちを伝えることができないので泣いて訴えるしかありませんし、自分で食事を摂れないので与えられる乳によって養われるしかないのです。しかしまさにこのような乳飲み子の姿こそ、神の国を受け入れる者の姿なのです。
主に立ち帰れ
今朝の旧約聖書の御言葉はヨエル書2章12~17節を読みました。16節で「幼子、乳飲み子を呼び集め」の言葉があるからです。12節で主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」とあるように、預言者ヨエルは人々に「主に立ち帰れ」と悔い改めを呼びかけています。13節で、預言者ヨエルは、ここで悔い改めの表現として、「衣を裂く」のではなく「心を引き裂く」と言っています。心から悔い改めることが必要だと言っているのです。イスラエル人は、身体と心は一体であり、内面と外面は表裏一体であることを自覚していたのです。身体が病めば、心は痛み、心が病めば身体も不調となることは、今の私たちにも言えることです。だから癒しとは、身体だけ、心だけの問題でなく、全人的な働きかけが必要となるのです。主イエスも病気の人の癒しの中で、しばしば「あなたの信仰があなたを救った」と告げるが、それは強い信心によって癒しが生じるというのではなく、病が心身両面の問題であることを語っているのです。
神の国を受け入れる者
主イエスは乳飲み子を呼び寄せて、「神の国はこのような者たちのものである」と言って下さいました。それは私たち一人一人を、神の恵みのご支配のもとで生きることへと招いて下さっている恵みのみ言葉です。この招きの中で私たちは、子供のように神の国を受け入れる者とされるのです。今日の個所のすぐ前の18章9節以下のファリサイ派の人と徴税人のたとえも、それと同じことを語っています。ファリサイ派の人と徴税人のたとえにおいては、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったあの徴税人こそ、神の招きによって神の国に入れられた人です。彼は、人々の目から見たらとうてい赦されようがない罪をかかえていながら、神に赦しを願い求めたのです。それはお腹の空いた乳飲み子が母親のお乳をもとめて、周囲の人々のことなど全く気にすることなく大声で泣いているような姿です。神はこの祈りに応えて、彼を義として下さいました。それは、神がもともと恵みのみ心によって罪人である彼を招き、呼び寄せて下さっているから実現したことです。「子供のように神の国を受け入れる人」というのは、あの徴税人のように、深い罪をかかえ、とうてい神のみ前に出ることなどできない者でありながら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈る人なのです。そのように心から祈るということは、その罪の赦しを信じているということです。神の国、神のご支配とは、この罪の赦しの恵みによるご支配です。その神の国が、主イエス・キリストによって、その十字架の苦しみと死とによって既にもたらされているのです。私たちは、神の独り子主イエス・キリストの苦しみと十字架の死によってもたらされ、目に見えない仕方で既に実現している神の国、神の恵みのご支配を信じ受け入れ、そこに入れていただいたことに感謝し、神のご支配を心から願い求めつつ歩みたいのです。

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