11/2説教「私たちは主のもの」

はじめに
今朝のこの礼拝は就眠者記念礼拝です。この教会において信仰者として歩み、そして天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のことを覚えてこの礼拝を守っています。お手もとに就眠者の名簿をお配りしました。昨年のこの礼拝以降新たにここに加えられたのは、教会員の藤田潮美さん、大磯教会付属幼稚園であった照が崎幼稚園出身の谷川信子さん、大磯教会で葬儀式をされた池井昱夫(イクオ)さんの3名の方々です。多くの人々が、これまでこの教会に連なって歩み、そして天に召されていきました。同じように私たちも、遅かれ早かれ皆天に召されていきます。私たちは皆、就眠者の予備軍ということです。就眠者を覚えて守るこの礼拝は、私たち一人ひとりの行末を思いつつ守る礼拝でもあるのです。就眠者を覚え、また自分たちの行末を思いつつ守るこの礼拝において、私たちは、既に天に召された方々の思い出に浸るということもあるでしょう。またその方々の信仰を思い、それを受け継ごうという思いを新たにすることも大切です。その方々が今主のみもとで平安を与えられていることを覚え、私たちも将来主のもとでその方々と再会することができると期待するということもあるでしょう。しかし、就眠者記念礼拝は、召された方々のために行うのではありません。召された方々は、既に、天において、神の懐に抱かれています。ですから、地上に遺された私たちが、その方たちのために、何かをして差し上げる必要はないのです。就眠者記念礼拝は、遺された者たちのために、行われるものなのです。遺された者が、召された方の歩まれた道筋を想い起こし、その方を生かしてくださった信仰に思いを馳せ、自分の生き方を顧みる時なのです。そして、受け継いだ信仰を、今度は、私たちが伝えていくことの大切さを、再認識する時なのです。そのような思いをもって、この礼拝を献げたいと思います。
全地よ、主に向かい
さて、今朝わたしたちに与えられている旧約聖書の御言葉は、詩編100編1節から5節です。
この詩編は、2節「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ」という言葉や、4節の「感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ」と呼びかける言葉が示す通り、礼拝への招きの歌であると言われています。1節から3節は、エルサレム神殿に入場する聖歌隊によって歌われ、4節から5節は迎える神殿内の聖歌隊によって歌われたと想像することもできると言われます。交互に歌われる賛美の歌であったようです。
この詩編100編の特色は、神への賛美を喜んで歌っていることにあります。信仰の活力を与えられる詩です。礼拝は神への喜びを歌い、信仰の活力が与えられる場所です。この詩は、神を熱心にほめ讃えよという言葉で始まり、神のご臨在の喜びを歌い、神にすべてを献げつくす喜びを歌っています。3節の「知れ、主こそ神であると」という言葉も、神にたいする讃美を歌っています。讃美は、人間の気分によらず、人間が神に出会い、神への喜びにまったく身をゆだねる礼拝の場であると詩人は歌っているのです。そして、この詩編100編は、キリスト教会の歩みの中でも賛美歌として愛用されてきました。讃美歌21でいうと、この後歌う讃美歌148番「全地よ、主に向かい」という歌はこの詩編を歌ったものです。歌詞も曲も、16世紀のジュネーブ詩編歌が元になっています。因みに、148番の讃美歌の1節、2節の歌詞は次のようです。
1 全地よ、主に向かい 歓喜の声をあげよ。
よろこびの歌を 主にたずさえゆけ。
2 造られし者は 知れ、主こそ神と。
われらは主のもの、主のひつじの群れ。
ほとんど詩編100篇を歌っています。3節、4節もそうです。
3 感謝の歌うたい 進め、主の門に。
み名をほめうたい、主の庭に入れ。
4 みめぐみは深く あわれみはとわに
変わらぬ真実(まこと)は 代々にゆるぎない。

信仰の弱い人と強い人  
さて、今朝の新約聖書の御言葉は、ローマの信徒への手紙14章1節から12節までです。パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙の14章で扱われている具体的な事柄とは何かを一言で言えば、1節にあるように、「信仰の弱い人を受け入れなさい」ということです。このことの前提には、教会の中に信仰の強い人と弱い人とがいる、ということがあります。そして両者の間にしばしば対立、軋轢が起ったのです。「信仰の強い人と弱い人」ということでパウロがここで具体的に語っていることは、3節に、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とあることから分かるように、「食べる」とうことに関することだったことが分かります。その内容はともあれ、このことにおいて信仰の強い者と弱い者とがおり、両者が互いに相手を軽蔑したり裁いたりしていたのです。そのようなことがローマの教会において起っていることを知っていたパウロが、それをどのように考え、対処すべきかという信仰的指導を語っているのです。
人を軽んじ、裁く心にどう対処するか  
教会においてお互いに軽蔑したり裁いたりすることが、私たちの間にもあることを率直に認めなければならないでしょう。教会は、主イエス・キリストを信じてその救いにあずかった者たちの群れです。しかし同じ信仰によって生きているはずの私たちの間にも、相手を軽蔑したり、裁いたりということがしばしば起るのです。それは私たち一人ひとりの中に、人を軽んじる心、裁く心が根深く巣食っているということです。しかしパウロはここで、「教会の兄弟姉妹の間で、人を軽蔑してはならない、裁いてはならない」と言っているのです。そのようなことから解放されて生きることこそが、キリスト者に与えられる新しい生き方なのだ、だからそのように生きようではないか、とパウロはローマ教会の人々に勧めているのです。
他人の召し使い  
パウロがそのように語ったのは、3節後半にあるように「神はこのような人をも受け入れられたからです」。という言葉がその理由であり根拠です。4節ではこう言っています。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」。あなたが軽蔑し、裁いているその人は、他人の召し使いであってあなたの召し使いではない、その他人とは神のことです。彼は神の召し使い、神のものなのだ、それをあなたが軽蔑し、裁くとは、あなたはいったい何者だ。つまりキリスト信者となった私においては、もはや自分が主人なのではなくて、キリストが主人であり、私はその僕、召し使いなのです。同じ信仰に生きる兄弟姉妹は主の召し使いどうしなのです。召し使いであるのに、主人の他の召し使いを自分の下にいる者のように軽蔑したり裁いたりすることは、主人であるキリストをないがしろにする罪だと言っているのです。
主のために生き、神に感謝する  
パウロは6節において、次のように語っています。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」。「特定の日を重んじる」とか「食べる、食べない」というのが、「信仰の強い人と弱い人」の間で問題になっていた具体的な事柄のようです。この6節において注目したいのは、パウロが、いずれの場合においても「主のため」にそれがなされ、そして「神に感謝する」ことが大切だと言っていることです。感謝するというのは、「感謝しなさい、感謝すべきだ」と命令されて、仕方なく、いやいやながら「じゃあ感謝します…」と不承不承に言うようなことではありません。感謝は、自然に生まれるものです。喜びがあるから感謝が生まれるのです。神から豊かな恵みが与えられていることが実感されるから、その喜びの中で、神に感謝するのです。主イエス・キリストの召し使いとして、主のために生きるところには、神の豊かな恵みによって与えられる本当に深い喜びがあるのです。その神の豊かな恵みは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられているものです。
主のために生き、主のために死ぬ  
「主のために生き、神に感謝する」という私たちの新しい生き方について、7、8節に次のように語られています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。もはや自分のために生きるのではなく、主の召し使いとして主のために生きる者となったキリスト者は、主のものとして主のために死ぬ者となります。それは、主のために死ななければならない、いわゆる殉教の死を遂げなければならない、という話ではありません。主のものとして死ぬことができる、ということです。つまり、主の召し使いとして主のために生きるところに与えられる深い喜びは、死においても失われることがない、ということです。死においても、私たちは主のものであり、主こそが私たちを支配して下さっているのです。つまり私たちがこの世の人生を終えて死ぬ時にも、そこで私たちを支配するのは死の力ではなくて、主イエスの救いの恵みなのです。9節には「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあります。主イエス・キリストが十字架の死を体験して下さり、そして復活して永遠の命を生きておられることによって、私たちは、生きている時も死においても、主イエスによる救いの恵みのご支配の下に置かれているのです。
ただ一つの慰め  
主のものとして生きるその喜びは「慰め」と言い替えることができます。「ハイデルベルク信仰問答」の問一には、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いが書かれています。その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」となっています。この答えの元になっている聖書の言葉が、今朝の箇所の8節の「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」なのです。私はもはや私自身のものではなく、主イエス・キリストのものとされている。つまり私の主人は主イエス・キリストであり、私は主の召し使いとして、自分のためにではなく、主のために生きる。キリスト者に与えられているこの新しい生き方こそが、この世を生きる人生においても、死を迎える時にも、私たちを本当に慰め、支え、喜びを与えるのです。
真実の喜びに生きる  
主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちはこのように、主イエスのもの、主イエスの召し使いとして、主のために生きる者とされています。そこにこそ与えられる深い喜びのゆえに神に感謝して生きるという新しい生き方を与えられているのです。主イエスの十字架と復活によって与えられた救いの深い喜びに裏付けられた新しい生き方においては、共に主のもの、主の召し使いとして生きている兄弟姉妹を軽蔑したり、裁いたりすることは、あってはならないと言うよりも、あり得ないことです。そのようなことは、真実の喜びを知らないところに生じるのです。人を軽蔑したり、裁いたりすることは、自分が人よりも優れた者、立派な者、上に立つ者であろうとするところに起ります。人と自分とをいつも比べていて、自分が人よりも高くなることに喜びを見出し、逆に自分が低くなってしまうことに苛立ちや怒りを覚えてしまう、それが私たちの生まれつきの古い生き方です。そこにおいて私たちはいつも「自分のため」に生きています。しかし主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちは、そのように人との比較によって得られたり失われたりするような相対的な喜びではなくて、生きている時ばかりでなく死においても、私たちを本当に支え、慰めを与える真実の喜びを与えられています。この喜びを本当に知ることができれば、私たちは、生まれつきの古い生き方から解放されて、新しく生きることができるのです。人を軽蔑したり裁いたりする心からの解放は、そういうことをしてはいけない、という教えによってではなくて、そのようなことによって得られる喜びとは比べものにならない、本当の喜び、死においても失われない喜びを得ることによってこそ起るのです。その喜びは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって与えて下さるものです。私たちがその喜びにあずかるために、主は聖餐を定め、与えて下さっています。これからあずかる聖餐において私たちは、主イエス・キリストの体と血とに聖霊のお働きによってあずかり、主イエスと一つとされ、主のために生きる者とされるのです。そこに、真実の喜びに生きる新しい歩みが与えられていくのです。
私たちは、生まれつきの古い生き方から解放されて、新しく生きることができるのです。人を軽蔑したり裁いたりする心からの解放は、そういうことをしてはいけない、という教えによってではなくて、そのようなことによって得られる喜びとは比べものにならない、本当の喜び、死においても失われない喜びを得ることによってこそ起るのです。その喜びは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって与えて下さるものです。私たちがその喜びにあずかるために、主は聖餐を定め、与えて下さっています。これからあずかる聖餐において私たちは、主イエス・キリストの体と血とに聖霊のお働きによってあずかり、主イエスと一つとされ、主のために生きる者とされるのです。そこに、真実の喜びに生きる新しい歩みが与えられていくのです。

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