はじめに
今年度の後半の説教の聖書箇所は、アドベントやレントなど教会歴による説教以外は聖書のたとえ話から取り上げたいと思います。2020年にコロナ禍の中で『聖書のたとえ話』という本を出しましたが、それは聖書研究祈祷会で私がレジメとして書いたものをまとめたもので、一つ一つの話は短いものです。伝え聞いたところによると、親しい教会のある高齢者の会でその本を学びのテキストにして毎回、用いていると伺いました。限定出版の本ですが、他の教会でも用いていただいていると聞いて嬉しいことでした。そこで説教としても語って見たいと思い、よく知られた主イエスのたとえ話を10回ほど取り上げたいと思います。早速、今朝は、第1回目として「種を蒔く人のたとえ」。マタイによる福音書13章1節から23節の個所から御言葉の恵みに与りたいと思います。
蒔かれた種は実を結ぶ
3節に「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」とありますが、この種蒔きとは何を表すのでしょうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。神の国の喜ばしい訪れを言葉によって述べ伝えること、つまり、伝道のたとえということができます。種蒔きのたとえは人によって様々な受け止め方ができると思います。ある人は、自分の歩んできた道をふり返り、あまりにも多くの茨に心を奪われ、実りが少なかったことを思うかもしれません。ある人は、教会から離れていった友を思い、石地でない良い土地に種が落ちたならと思うかもしれません。私自身は道端に落ちたのに、鳥が食べる前にたまたま風に吹き飛ばされて生き延びたのかもしれないと思ったりもします。
例の『聖書のたとえ話』に書いたことですけれども、ある人が、青年の頃、教会学校の教師として延べ数百人の子ども達と過ごしたけれども、数10年たった今、誰も教会に来ていないと言われました。しかし、10年前の会堂改修の際に、そのことの知らせを出したら、何人かの方から献金が送られてきたので嬉しかったと語っていました。そして、御言葉の種が蒔かれていたと語っていました。これはY姉が語ったことを私が印象深く思っていたので、その時に書いたことです。その通りでしょう。その方たちは必ず教会に戻ってきます。種は時期がくれば成長し、実を結びます。ただ、その時期は人により違います。天に召される直前に実を結ぶことでも結構ではありませんか。
たとえ話は何のために語られるのか
ところで、主イエスは、多くのたとえ話によって、神の救いとはどのようなものであるかをお示しになりました。たとえ話は、身近な、誰もがよく知っている事柄を用いて語られるものです。神の救いという、目に見えない、イメージを掴みにくい事柄を、身近な、よくわかる事柄に置き換えて語るのです。たとえ話は、人々が天の国、神の救いについて、よりはっきりとしたイメージを持ち、よりよく理解できるために語られたと言えるでしょう。
ところが、今朝の箇所の10節から17節を読むと、主イエスはそれとは違うことを言っておられます。ここには弟子たちが主イエスに、「なぜたとえを用いてお話になるのですか」と質問したことへの答えが語られています。主イエスはこうお答えになりました。11節から13節です。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」。ここに、「天の国の秘密」という言葉がありますが、これが要するに神の救いのことです。それを人々がよく分かり、理解できるようにたとえで語るのだ、と言われているのかと思うと、実はそうではありません。「あの人たちには天の国の秘密を悟ることが許されていない、だからたとえで語るのだ」というのです。少し分かりにくいですが、それは、彼らが少しでも悟り、理解できるように、という意味ではありません。その後に、イザヤ書の預言の言葉が引用されています。14節、16節の言葉です。今朝の旧約聖書の御言葉、イザヤ書第6章9節、10節の言葉です。言葉が少し違いますが、そこにある言葉です。そこに語られているのは、イザヤが遣わされて預言をすることによって、かえって人々が理解せず、その言葉を受け入れず、悔い改めようとしない、ということが起るということです。主イエスのたとえ話によっても同じことが起るのです。つまりそれを聞く人々が、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」。たとえ話はそういう働きをするのだと主イエスは言っておられるのです。
分かりやすいたとえ話
しかし主イエスのたとえ話はそんなに理解できない、難しい話なのでしょうか。「種を蒔く人のたとえ」はそんなに分かりにくい話でしょうか。種を蒔く人が蒔いた種が、様々な場所に落ちた、という話です。これらの譬え話は弟子たちに対して語られています。群衆に対してなされているというのではなく、「弟子たち」に対してなされているのです。「天の国の秘密を悟ることが許されているのは弟子たちだけです。「だから」こそ弟子たちに対して、この譬えの説き明かしがなされるのです。この譬え話しは種を蒔く人が蒔いた種が、様々な場所に落ちた、という話です。この当時のこの地方の種まきは、まず畑を耕してそこに種を蒔くというのではなく、先に種を蒔いてからそこを耕すというやり方だったようです。日本の農業と随分違います。稲作と麦作の違い、冬季の雨を利用して冬に成長する大麦、小麦やエンドウやビートが中心の農業です。そして、種蒔きは、日本のように畝を作って蒔くのではなく、ばら撒いた後で鋤き返すのです。ですから、種は耕された畑にのみ落ちるとは限らないので、様々な所に落ちます。道端に落ちれば、そこは耕されることなく、種は鳥の餌になってしまいます。石だらけで土の少ない所に落ちることもあります。そこでは一応耕されて芽を出しても、根がしっかり張れないのでそのうちに枯れてしまうのです。あるいは茨などの雑草が周囲にあると、そちらが先に伸びて囲まれ、負けてしまって育たないということもあります。良い土地に落ちるとは、しっかり耕される畑のことです。そこに落ちた種は実を結ぶのです。「良い土地」に落ちた種の収穫は、通常は種の十倍程度収穫できれば一応はいいらしいのです。六十倍、百倍というのは予想を越えた大豊作ということを言っているのです。主の恵みは人間の予想をはるかに越えるのです。これらのことは全て、当時の人々にとって、身近な、分かるたとえでした。そして主イエスはそのたとえ話の意味の説明を明らかにします。道端に落ちて鳥に食べられてしまう種とは、「御国の言葉を聞いても悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」ということです。「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人です。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」。そして「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。このたとえ話は、主イエスのみ言葉、神の国の秘密を語るそのみ言葉を聞いた者が、それをどう悟るか、理解するか、そしてそのみ言葉に従って、困難や妨げに負けずに生きることができるか、そしてその種であるみ言葉の実をいかに結ぶことができるか、ということを語っているのです。この主イエスの譬え話しのみ言葉は主の御言葉を聞く私たちにもあてはまるのではないでしょうか。み言葉の種が蒔かれても、それが全く芽を出さずに、鳥に食べられてしまうようにいつのまにか消えてなくなってしまう、そのように、御言葉が私たちの心に全く根付かず、失われてしまうということを、私たちは自分自身において、また他の人々において経験します。また、御言葉が一旦は受け入れられ、芽を出す、それは信仰が芽生えたと言ってもよいでしょう。しかし、それが私たちの心にしっかりと根付かないということがあります。主を信じる信仰は少しは続くかもしれません。けれども、色々な困難に出会い色々な形での迫害を受けるようなことがあると、すぐにつまずいてしいます。あるいは、私たちの信仰の生活は常に茨に囲まれていると言うことができます。信仰が育っていこうとする時に、それを覆い塞いでしまうような様々なものがこの世には満ちているのです。
ひたすら御言葉を蒔き続ける
主イエスの働きや初期の教会は、神の国の福音伝道が容易にいかなかった。そのことをこのたとえは意味しているのでしょう。人々に受け入れられなかったことをたとえで表現されているのです。教会の伝道は、困難と失敗の茨の道でありました。ここには教会の伝道のあり方が示されています。教会の働きは、だれかれ構わず招き、御言葉を蒔き続けることと言うことができます。道端であろうと、石地であろうと、茨の中であろうと、相手を選ばず、せっせと蒔き続けることです。見込みが有る無しは関係なく蒔かなければなりません。神の国にえこひいきはないのです。大磯教会もそのように百十数年、この地で御言葉が蒔き続けられたのだと私は思います。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。・・あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(コリント(一)3章6~9節)。種蒔きのたとえの示すことは、愚かで、うだつの上がらないわたしたちを用いて、神が密かに豊かに実を結ばせてくださっているということです。わたしたちは神の言葉を伝えることに心しましょう。実を結ばせることは神に任せましょう。教会は、ただひたすらに種を蒔く農夫のように、御言葉を蒔き続けるのです。
あなたがたは良い土地である
主イエスがこのたとえ話によって私たちに語ろうとしておられるのは何か。主イエスは、「あなたがたは良い土地である」と言っておられるのです。そのことは16、17節にも語られています。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。あなたがたの目は見ている、あなたがたの耳は聞いている、だからあなたがたは幸いだ、と主イエスは言っておられます。それは、「こういう条件を満たせば幸いになれるぞ」ということではありません。あなたがたはみ言葉を聞いて悟り、理解し、良い土地として実を結ぶことができている、本当によかったねと主イエスは言っておられるのです。それが、このたとえ話で主イエスが語ろうとしておられることです。
種を蒔いて下さっている神
しかしそうであるならば、主イエスは何故、最初の三つのケース、道端とか、石だらけの地と
か、茨の間というような土地のことをお語りになったのでしょうか。あなたがたは良い地だ、と
いうことを言おうとしておられるなら、そのことだけを語ってくれればよいではないか、余計な
ことを言うから誤解を招くのだ、と思うかもしれません。しかしそれは違うのです。最初の三つ
のケース、道端や、石だらけの地、そして茨の間、それはやはりどれも、私たちの姿です。しか
しそこで私たちがしっかりと聞き取っていかなければならないのは、そのような、道端であった
り、石だらけの地であったり、茨に塞がれているような私たちの心に、神が、常にみ言葉の種を
蒔き続けて下さっているということです。み言葉の種は、どんな土地に対しても蒔かれていま
す。たとえその土地が、全くみ言葉を受け付けず、取り付くシマもないような、蒔かれた種はそ
のまま鳥についばまれてしまうような、そんな道端であっても、私たちがそのような頑なな心で
いる時にも、神はみ言葉の種を私たちの心に蒔いて下さっているのです。また私たちが、表面的
にはみ言葉を受け入れて信仰の芽を出すけれども、心の中には堅い石がごろごろしていて、み言
葉が深く根を下ろすことができない、そのために少しでも嫌なこと、つらいことがあると、信仰
なんかやめたと言って捨ててしまう、そんな弱い者、つまずきやすい者であっても、その私たち
に、神はみ言葉の種を蒔いて下さっているのです。そのような者であっても、その私たちに、神
はみ言葉の種を蒔いて下さっているのです。それは神が、何とかして私たちを、み言葉の種が育
ち実を結ぶ良い土地にしようと情熱を傾けていて下さるということです。
神が払って下さった犠牲
私たちが神の恵みに気づき、感謝する信仰者となるに至るまでに、いったいどれほどのみ言葉の種が、虚しく蒔かれ、鳥についばまれていったことでしょうか。茨に塞がれて消えてしまったものがどれだけあったでしょうか。神はそれだけの犠牲を払って、私たちを導いて下さっているのです。その神の私たちのための情熱と犠牲の頂点が、主イエス・キリストであり、その十字架の死です。それは全て、主イエス・キリストの十字架の死を指し示しています。神はこのような犠牲を払って、独り子の命をも与えて下さる情熱を傾けて、私たちを、み言葉のための良い土地として下さっているのです。この神の恵みこそ、多くの預言者や正しい人たちが、見たいと願いつつ見ることができなかったもの、聞きたいと願いつつ聞くことができなかったことです。それを今私たちは、主イエス・キリストによって見聞きする幸いを与えられているのです。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」「あなたがたは幸いだ」と語りかけて下さっている主イエスの恵みをかみしめつつ歩みたいと思います。お祈りします。