11/23説教「神の恵みに感謝する」

はじめに
今日は収穫感謝日であり謝恩日でもあります。私たちはこの収穫感謝日に、大地の実りを感謝するだけではなく、それぞれの働きに応じて、あるいはそれを超えて与えられた収穫というものを思い起こして、改めて感謝したいと思います。まことに神は、私たちをさまざまな形で生かしてくださっています。十分な生活はできていないかもしれませんし、十分な健康ではないかもしれないけれども、主イエスと共に生かされている幸いに感謝を捧げたいと願うのです。

私たちの過越しのいけにえはイエス・キリスト
今朝の旧約聖書の御言葉は、申命記16章5~11節を先ほど司式者がお読みしました。イスラエル人がカナンに定住した時に、中央神殿に詣でて祝う祭りには、種を入れないパンの祭り、つまり過越祭と七週の祭り、そして仮庵(かりいお)の祭りがありました。これをイスラエルの3大祭りと言います。その三大祝祭日について、この申命記16章は記しています。5節に過越祭のことが次のように記されています。
5過越しのいけにえを屠(ほふ)ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のう ちのどこででもよいのではなく、6ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。
この過越のいけにえは、必ず神が選ばれた中央神殿で、ほふられなければなりません。「夕
方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。」(6節)と、時刻まで定められています。これは単純なことではありますが、非常に重要なことです。そして、私たちの過越のいけにえは、イエス・キリストの十字架であって、これ以外に、各々が自分で勝手に捏造(ねつぞう)してはならないということです。

共に喜び祝いなさい
そして七週の祭りについて9節から10節に次のように記されています。
9あなたは七週を数えねばならない。穀物に鎌を入れる時から始めて七週を数える。10そし
て、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分
に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい。
七週の祭りは、大麦の刈り入れの始めから七週間(五十日、ギリシャ語で、「五十」はペンテコステ)守らなければなりません。この祭りは、感謝と服従と喜びを意味するささげ物をする時です。
ここには一つの信仰の試みが含まれています。それはささげる者のささげ物によって、その人が主から受けた祝福を、どれくらい値(あた)い高く考えているかが計られるからです。今日、私たちはささげ物の量によって、感謝の内容を計ることはできませんし、今、ある宗教団体の異常な献金行為が問題になっていますが、金額ではなく、それでも全力を尽くしているかどうかによって、神の祝福に対する感謝の程度が計られているのです。マルコによる福音書12章41節から44節に献金について次のようにあります。
イエスはさい銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、さい銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
そして11節に次のようにあります。
11こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。
これはレビ人から奴隷、在留異国人、みなしご、やもめに至るまで、全員が守るべき祭りでし
た。これは中央の神殿で祝うべき、特別な祭りでした。「喜びなさい。」は、主にささげた物を
自分たちで食べることを言っています。このような祭りの時は、貧しい奴隷や、在留異国人、み
なしご、やもめたちにとって、十分に食べることができる数少ない時であったでしょう。落ち穂
を拾って生活しなければならなかったナオミやルツたちにとって、楽しい、喜びの時となったに
違いありません。「神の恵みの分かち合い」という理解は旧約聖書の収穫祭にも見られたので
す。すなわち、神への感謝の供え物として集められた産物は、社会的弱者に分配されたのです。

神の御心を知ろうと願う
さて、今朝、私たちに与えられている新約聖書の御言葉、ヨハネによる福音書7章14~24節から、主イエスがお語りになった言葉から聞いていきたいと思います。
14節の、この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りがすでに半ばになったころ、主イエスは宮に上って教え始められました。するとユダヤ人たちは驚いて言いました。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」。一般的に牧師が神学校で聖書を学ぶようにユダヤ教の指導者たちはラビの学校で学びますが、主イエスはそこで正規に学んだことがないのに聖書を良く知っているのに驚いて、彼らは不思議に思ったのです。それに対して主イエスは、こう言われました。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。誰でも神の御こころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自ら語っているのかが分かります。」と。
主イエスの教えは、当時のラビたちの教えとは全く違うものでした。ラビたちの教えというのは、自分たちの教えを裏付けるために、有名なラビたちの言葉、を引用するというものでしたが、主イエスの教えはそのような権威に裏付けられたものではなく、いわばオリジナルなものというか、全く新しいものでした。しかもそれは、イエスを遣わされた方である神のみこころに基づいたものであったということです。ユダヤ人の指導者たちは、そのことが理解できませんでした。ですから、自分たちの教えと全く違う、全く新しい教えを聞いたとき、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」と驚いたというのです。
17節にこうあります。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と。いったいどうしたら、それが神から出たものであるかがわかるのでしょうか。私たちが何かの教えを聞いたとき、それが神からのものであるのかそうでないのかを判断するためには、それを聞いた私たちが神のみこころを行おうとしているかどうかで決まるというのです。確かに、何が真理なのかを見分けることは難しいことですが、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、必ず見分けることができると言うのです。私たちがなかなか正しい判断を下すことができないのは、正しい情報をもっていないということもありますが、それよりも私たちの中に自分の都合のよいものは受け入れ、そうでないものは排除しようという働きがあるからです。そうではなく、いつも神の御こころを行いたいと願っているなら、たとえそれが自分にとって都合が悪いことでも受け入れ、正しく判別することが出来るのです。それは確かにそうではないでしょうか。神の御心を知ろうとアンテナを張っている、そういう心にみ言葉が反応するのです。何気なく語った他人の言葉が神の言葉として響くこともあるのです。キリスト者は皆、み言葉によって召命を与えられているのです。またここには、「神の御こころを行おうとするなら」とあるように、ただ神の御こころを知ろうとするだけでなく、それを行おうとすることが大切だと言っているのです。つまり、神の御こころを単に知識としてではなく、自分の生活の中に適用し実践していこうとする姿勢が求められるということです。私たちは、主を知ることを切に求めているか。それが問われているということでしょう。確かに、試練の中にあるときに、御心を知ることは簡単なことではありません。しかし、切に願い求めていくなら、神は多くのものを判別する知恵を与えてくださると思います。

誰の栄光を求めているのか
そしてこのことは、当然、教えを語る者にのみ問われていることではありません。それを聞く者の姿勢も問われているのです。17節で主イエスが言っておられるのは、私をお遣わしになった方である父なる神の御心を行おうという思いを持っている者ならば、私の教えが自分勝手なものではなくて神から出たものであることが分かるはずだ、ということです。自分自身が神の栄光をこそ求め、神のみ心を行おうとしている者は、語られている教えを正しく受け止めることができるのです。つまり神が独り子主イエスをこの世にお遣わしになったことによって示されている神のみ心を知り、信じることができるのです。そのみ心とは、この福音書の3章16節に語られていたことです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神の栄光を求め、神に従おうとしている人は、この神の私たちへの愛のみ心を知り、それを信じて、主イエスを独り子なる神、救い主と信じて生きることができるのです。

神のみ心に従うことこそが大事
主イエスは22節以下で、モーセが与えた律法に「割礼」が命じられていることを取り上げておられます。イスラエルの民の男の子は生まれて八日目に割礼を受けるべきことが律法に記されているわけです。それはモーセによって与えられた律法にあることですが、しかし実はモーセから始まったことではなくて、族長たち、つまりイスラエルの民の最初の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの時代に始まったことだ、ということを語っているのが22節です。ユダヤ人たちはモーセによって与えられた律法を金科玉条のように大事にしているが、大事なのはモーセの言葉に従うことではなくて、アブラハムの時代からイスラエルの民に語りかけ導いておられ、モーセを選び用いてこの民をエジプトにおける奴隷の苦しみから救い出し、そのモーセを通して律法をお授けになった主なる神のみ心に従うことなのだ、ということです。モーセは主なる神によって遣わされてエジプトからの解放という主の救いのみ業に用いられたのであって、彼は自分をお遣わしになった神のみ心に従って、神の栄光を求めて生きた。そのモーセを通して神が与えて下さった律法も、神のみ心に従って生きるために与えられているのだ、ということを主イエスは語っておられるのです。

主イエスによって示された神のみ心
父なる神のみ心を、父ご自身から教えられて、それを実行し、また教えて下さったのは、独り子なる神主イエス・キリストです。主イエスは、ご自分をお遣わしになった方の教えを語り、またその方のみ心に完全に従って歩まれたのです。それゆえに、独り子なる神である主イエスが十字架にかかって死んだのです。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架で死ぬことによって私たちの罪を赦して下さることこそが神の救いのみ心だったからです。そして父なる神は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。そのことによって、私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さることが神の御心だったのです。この主イエスのご生涯と十字架の死と復活においてこそ、神の私たちへの救いの御心が示されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御心です。私たちはこの独り子主イエス・キリストによってこそ、神の御心を知ることができるのです。聖書が分かるというのも、この神の御心が分かることです。主イエスこそ、聖書を与えて下さった神の御心を直接聞いておられ、それを教え、実行して下さった方なのです。聖書のことを誰よりもよく知っているのは主イエス・キリストです。私たちがその主イエス・キリストと結び合わされ、一つとされるために、洗礼があります。洗礼を受け、キリストの体である教会の一員とされ、礼拝において主イエスとの交わりに生きていくことの中でこそ私たちは、聖書に記されている神の愛の御心を正しく知ることができるようになります。そしてその愛の御心によって支えられていく喜びの中で、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きる者となっていくのです。

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