11/30説教「先駆者」<待降節第一主日>

はじめに
今朝はアドベントの第1主日の礼拝です。アドベントは救い主イエス・キリストの誕生をまち望む期間で、12月25日の前の4つの日曜日を含む期節とされています。そしてクリスマスが来るという一連のメッセージは、それ以後に続くキリストの生涯とその活動、さらに教会の存在と使命の出発点になりますから、いつの頃からかキリスト教の一年、教会暦の開始は、アドベントの第一主日から始まるという理解になっています。そういうわけで、大磯教会のこの一年を少し思い出してみると、昨年のクリスマス前は、牧師の隠退そして次の牧師への移行を想定し牧師館の建設のことで私も教会員も頭がいっぱいでした。間取りのことや資金の工面も容易ではありませんでしたが、工事契約を昨年の11月19日に締結し、今年の1月8日に起工式を行い、3月9日の上棟式を経て5月31日に完成引き渡しがありました。そして4月20日のイースターに教会総会において牧師の来年3月末での辞任、そして神奈川連合長老会への加盟が議決されました。すでに牧師、長老は連合長老会のさまざまな会議、修養会にも出席し、新しいスタートを切っています。しかし、教会員の多くの人たちがまだ、連合長老会というものに理解ができておりません。今日の午後3時から加盟式が行われます。あらためて正式に神奈川連合長老会へ加盟した喜び、そして責任を、加盟教会から来られる代表の方々と共に分かち合いたいと思っています。ただ礼拝その他のすべての教会の営みに、特に違いがあるわけではありません。私を含めて4代にわたる牧師を中心に、すでに、聖書の御言葉によって常に改革されて行くという長老教会としての教会形成がなされています。福音の宣教が一層この地においてなされて行くことを祈っています。
証し人ヨハネ
さて、今朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書1章19節から28節までです。ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネをどのように描いているのでしょうか。既に1章6節、7節に洗礼者ヨハネのことが語られていて、そこにはこうあります。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。洗礼者ヨハネは証しをするために来た、これがヨハネによる福音書における洗礼者ヨハネの位置づけです。「光について証しをするため」ともあります。その「光」とは、9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われている光、つまり主イエス・キリストのことです。すべての人を照らすまことの光である主イエスを証しするために、洗礼者ヨハネは神によって遣わされたのです。
今朝の箇所の冒頭の19節は、「さて、ヨハネの証しはこうである」と始まっています。洗礼者ヨハネがどういう証しをしたのかがこの19節以下に語られています。つまりヨハネは主イエスについて証しをするため遣わされたのですから、ここには、ヨハネが主イエスについて語ったことが記されているのだろう、と私たちは思います。ところがこの19節以下に語られているのは、「あなたはどなたですか」と問われたヨハネが、「わたしはこれこれではない、これこれだ」と答えたということです。つまりヨハネはここで自分のことを語っている、自分のことを証ししているのです。
ヨハネは祭司やレビ人たちの質問に対して、20節でこう語っています「彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」とあります。メシアというのは、神が約束して下さった救い主を意味しています。エルサレムから遣わされた祭司やレビ人は、洗礼者ヨハネに対して、お前は自分が救い主だとでも思っているのか、と厳しく問うたのです。それに対してヨハネは、「いや、私は救い主ではない」と言いました。さてヨハネが「私はメシアではない」と言ったことを受けて人々は「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねました。エリヤは旧約聖書に出てくる預言者ですが、救い主メシアの先駆けとしてもう一度現れる、と聖書にあります。そこで、お前は自分が救い主メシアだと言うつもりなのか、と彼らは問うたのです。それに対してもヨハネは「違う」と答えました。すると彼らは更に「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねます。「あの預言者」というのは「モーセのような預言者」のことで、やはり神による救いが実現する時に遣わされると考えられていた人です。しかしヨハネはそれに対しても「そうではない」と答えました。更に「お前は何者だ」という問いに対するヨハネの答えは、「わたしはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもない」という応えだったのです。つまりヨハネは、「わたしは救い主ではないし、神による救いをもたらす者でもない」と繰り返し答えたのです。
わたしは荒れ野で叫ぶ声である
しかしエルサレムから来た祭司やレビ人たちは、ヨハネの答えが「何々ではない」ということばかりなので満足しません。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と更に問うたのです。それに対してヨハネは、預言者イザヤが言ったように「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と答えました。これはイザヤ書第40章3節の引用です。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」でした。ヨハネは自分が「荒れ野で叫ぶ声」であることを自覚して、その「声」であることに徹して生きたのだ、とヨハネによる福音書は語っているのです。
ヨハネは「声」であることに徹して生きたわけですが、それは即ち主イエスが救い主である証しのために生きた、ということです。ヨハネは主イエスを証しする声として生きたのです。彼は、メシアでもエリヤでもあの預言者でもない、救い主ではないし神による救いをもたらす者でもない、私は「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と語ったことによって、主イエス・キリストを証ししたのです。それは主イエスこそがその救いをもたらす方だということです。彼は、到来しようとしている救い主イエス・キリストに人々の心を向けさせようとしたのです。そして、考えてみますと、私たちが何者なのかというこの大切な問いも、ヨハネと同じように答えることができます。私もまたキリストを証しする者だと。神の言葉を聞いて、新しい自分を発見する。自分にはこんなに喜んで生きることができようになったのだということをこの世界に証しすることができることこそが、神が私たちに望んでおられることです。
預言者イザヤの呼びかけ
さきほど洗礼者ヨハネはイザヤ書40章3節の言葉で祭司やレビ人に答えたと言いました。「主の道をまっすぐにせよ」という命令です。まっすぐな道をつくるという仕事を負っている人、それがバプテスマのヨハネです。ではヨハネにとって道をまっすぐにすることは何を意味するのでしょうか。イザヤ書40章1節から5節において、預言者イザヤは、低いところを高くするようにと叫びました。バビロン捕囚という敗戦(前587年)、エルサレム神殿の崩壊、ダビデ王朝の滅亡を経験したユダヤ人たちは打ちひしがれていました。その民に向けて、イザヤは慰めの言葉をかけました。もうすぐ、約束の地に帰ることができる、神への謝罪と誠実な賠償の時は満了した、谷はすべて身を起こせ、低くされ小さくされた者たちは、自分の尊厳を取り戻せ、このように預言者イザヤは語ったのです。荒れ野で叫ぶ声は、低くされた人を高め、険しい道を平らにする仕事を果たしました。まっすぐにする道とは主が通られる道のことです。バビロンから解放してくださった主が、あなたを罪の縄目から解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。その道を整えるようにというのです。実際、その国の王様が旅をする時にはその行く先々に先遣隊を遣わして、道を整えました。道を広く、大きくし、まっすぐに、平らにしました。すべての谷は埋められ、すべての山や丘を低くしてならしました。
王の王であられるイエス・キリストが来られるのですから、その道を整えるようにと言われているのです。さて、あなたの道は整えられているでしょうか。谷底のように心が沈んではいないでしょうか。劣等感、自己憐憫、罪悪感、敗北感といった谷は埋められなければなりません。また、山や丘のような高くはなっていませんか。プライドや傲慢といった山や丘があれば削られて低くされなければなりません。障害物は取り除かれ、でこぼこ道は平らに整えなければならないのです。洗礼者ヨハネが語ったことは、高いところを低くするという仕事です。高慢に自己肥大をしている者たちに対して、「山と丘は身を低くせよ」と語る、これがヨハネの叫び声です。
主イエスを証しして生きる喜び
ヨハネは、「あなたは何者か」という問いに答えて、「私はこういう者だ、このように生きているのだ」と語ったのです。彼は、私は救い主ではない、救いをもたらす者でもない、ただ、まことの救い主を指し示し、その方に仕える者に過ぎないと言いました。自分はその方の履物のひもを解く資格もない、とも言っています。履物のひもを解くことは当時奴隷の仕事とされていました。つまりヨハネは、自分は主イエスに奴隷として仕える資格もない者だ、と言ったのです。このように自分自身のことを語ることによって彼は主イエスを証しし、主イエスへの信仰を告白し、主イエスを指し示す声として生きたのです。
ヨハネがこのように自分自身には何の力も資格もない、奴隷となる価値すらない、と語ったことは、彼が、自分には何の力もない、自分は何もできない、何の価値もない、と卑屈になり、自嘲的に、後ろ向きで消極的な、喜びのない生き方をしていた、ということでしょうか。あるいは、自分が決して前面に出ないように、いつも謙遜に、控え目に、目立たないようにしていなければ、という不自由で窮屈な思いによって無理をして生きていた、ということでしょうか。そのどちらでもありません。ヨハネは全く自由に生きています。洗礼を授けるなど何様のつもりだ、と厳しく批判されても、堂々と、「荒れ野で叫ぶ声」として、救い主の到来に備えて洗礼を授けているのだ、と答えることができました。自分自身は救い主でも、救いをもたらす者でもない、後から来られる救い主の履物のひもを解く資格もない者だ、と語っているヨハネは、喜びに満たされているのです。主イエス・キリストこそ救い主であられるという信仰を告白し、主イエスを証しして生きる者は、このように自分自身を確立することができます。自分とは何者か、自分は何のために生きているのか、をはっきりと自覚して、人生を喜んで積極的に生き、敵対する者たちの前でも自由に堂々と歩むことができるのです。それらは全て、主イエスを証しする者に与えられる恵みです。主イエス・キリストは、ご自身がまことの神であり、神の「言」であられるのに、この世に来て下さった方です。その主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さり、復活によって、私たちが死を超えた永遠の命に生きる者とされるための道を拓いて下さいました。この主イエスを信じてその救いにあずかり、主イエスと共に生きるなら、私たちは、洗礼者ヨハネと共に、主イエスを指し示す喜ばしい声として生きることができるのです。
聞け、荒れ野から
この後に歌う讃美歌273番は、まさに今朝の聖書の個所、イザヤ書40章とヨハネによる福音書1章19節から28節を歌ったアドベントの讃美歌です。旋律は、イギリス生まれでカナダに移住し活躍した教会音楽家のヘンリー・H・バンクロフトという人の作曲で、起伏に飛んだ歌です。1節には「聞け、荒れ野からとどく声を。道を備えよ、主が来られる。谷は高く、丘は低く、でこぼこの道は、平らになれ」とイザヤ書40章の預言者イザヤの言葉の通りです。2節は「野に咲く花」3節は「山々」など豊かに展開されていく情景描写に沿ってなだらかに流れてゆき、最後のひとフレーズにまでも転調が出てくるなど、どこへどう落ち着くのか最後の音までわからない、面白さがあります。激しく揺れ動くことはありませんが、絶えずゆるやかに変化して自然にクライマックスへ繋がっていく、イザヤ書40章でイザヤが語っている慰めに満ちた、そんな讃美歌です。そしてこの歌の作者は、やはりイギリスに生まれてカナダで没したジェームズ・L・ミリガンというジャーナリストが作詞しています。この歌詞はその教会合同を祝って作者ミリガンが書いたと言われます。
そしてミリガンは、メソジストの信徒として熱心な教会生活を続けた人で、カナダにおける1925年の3派合同に向けて会衆の連絡協議会を任されるなど、大きく貢献した人でした。この3派合同というのは、カナダにおけるプロテスタント系キリスト教のなかでは最大の教派で、カナダのキリスト教全体ではローマ・カトリック教会に次いで2番目に大きな教派ということですから、日本における日本キリスト教団のようなものでしょう。メソジスト教会、会衆派教会、そして長老教会の3分の2が合同しています。その後、その他の教派も加わったようです。ただ日本キリスト教団の教会員数は10万人以下ですが、カナダの3派合同教会は52万5千人の会員といいますから違いはあります。
この讃美歌解説を読んで、私は今日の午後から行われる神奈川連合長老会加盟式のことを思いました。大磯教会は1900年にメソジスト教会として設立され、その後日本キリスト教団の教会として、戦後、私を含めて4代の牧師が60数年にわたり教理的には改革教会、教会制度的には長老制度の交わりの中で教会形成をしてきました。そして今年ついに神奈川連合長老会に加盟し、改革長老教会の教会となりました。しかし、会衆派の歴史を持つ同志社の新島襄碑前祭の休憩所として協力したり、更には日本キリスト教団以外の教団、聖公会系のステパノ学園やカトリック教会とも協力してクリスマスキャロリングをやったりしています。まことに不思議な、稀有な教会かもしれません。立場はよりはっきりと旗色鮮明であるけれども閉鎖的にならず協力しあい伝道している教会と位置づけたいと思います。主が来られるために、でこぼこ道を整える教会として歩みたいと思います。
荒れ野で叫ぶ声」となるように求められている
25節で「あなたはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」とヨハネは問われます。これは洗礼という儀式に何の意味を持たせ、何のために行なっているのかという質問です。ヨハネは洗礼という儀式を用いて人々を共通の低みに立たせました。彼は悔い改めのための道具として洗礼を用いています。神への謝罪を、水の中に沈められることで表現するのです。洗礼は人間の平等を示す儀式です。ヨハネは高いところを低くけずりとって平らにするという意味で行いました。ヨハネのもとに行けばどんな人も平等に扱ってもらえたからです。威張っていた金持ちも借金を抱えた貧しい人も、ファリサイ派も徴税人も、同じ洗礼を受けなくてはいけなかったからです。こうしてヨハネは主の道をまっすぐにしました。個々人の傲慢さを打ち砕き、人間の平等性を訴え、高いところを取り除き、社会を平らにしました。荒れ野で呼びかけ、荒れ野に来た者たちと修道生活をする中で、そのことを実現しました。わたしたちは、ヨハネにならって「荒れ野で叫ぶ声」となるように求められています。教会は「主の道をまっすぐにせよ」と、呼びかける声となるのです。そのためには、自分の高いところを削り取る必要があります。高いところとは具体的には、「…力」と呼ばれるようなものを振りかざしたり、濫用したり、頼みにしたりする行いです。「権力」「財力」「能力」「暴力」「知力」「体力」「武力」などなど、世の中には「…力」があふれかえっています。力を持つものが支配しやすい仕組みがあります。これらはハラスメント・戦争の温床ともなります。しかし、教会ではそうであってはいけません。少なくとも教会では平等が実現していなくてはいけません。なぜなら、すべての人は等しく神の前で謝罪すべき罪人だからです。洗礼という儀式は、自分に死ぬということ・力を脱ぐことも意味します。わたしたちは洗礼を受ける人が増えることを望んで礼拝を続けていますが、それは剣を鋤に打ち直す人を増やしていく作業なのです。それが伝道です。世界を平らにしなくてはいけないのです。このとき教会は孤高の存在になるかもしれません。邪で曲がった時代にあって、まっすぐということを主張することは、力をふるいたがる者たちには煙たがられるからです。ここに教会のひとつの使命があるのです。
主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さり、復活によって、私たちが死を超えた永遠の命に生きる者とされるための道を拓いて下さいました。この主イエスを信じてその救いにあずかり、主イエスの下で、主イエスと共に生きるなら、私たちは、洗礼者ヨハネと共に、自分自身のことを喜びをもって語ることによって主イエスを証しし、主イエスを指し示す喜ばしい声として生きることができるのです。アドベントの期節を私たち一人ひとりの救いのために地上に来られた主イエス・キリストを心から迎えるために備えたいと願っています。 お祈りいたします。

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