マタイによる福音書11章20節】それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
主イエスは、御言葉を聞き、その御業を見ても、悔い改めず、神に立ち返ろうとしない人々に対して、お叱りになられます。主イエスは悔い改めない者たちを深く憐れんでおられるのです。コラジンの町やベトサイダの町は自分たちが不幸だと思っていたでしょうか。別にうまくやっているし、幸せだと思っていたかもしれません。しかし主イエスはあなたがたの今の本当の姿は不幸なのだと言われるのです。自分のことが見えていない者に本当のことを教えてくださるのです。これは裁きの言葉であるとも言えるでしょう。しかしその裁きは、主の深き憐れみと愛から出ているのです。主イエスは悔い改めようとしない者たちのために叱られます。ご自分がかえって傷つくことになることをわかった上で叱ってくださるのです。先日、多くの牧師たちが集まった会合で、ある若い牧師が、仲間であると共に厳しく指導してくれた先輩牧師によく叱られた話をユーモアを交えて話していました。私も伝道師として神奈川教区に初めて赴任した当初、先輩牧師に叱られました。理不尽なり方だと怒りも覚えましたが、福音の伝道者になった者へのある意味、祝福だと思えるようになりました。長く牧師をしていると叱ってくれる先輩牧師がいなくなっていることに気づきます。愛を持って叱ってくれる存在は大切なのです。嫌われても叱る愛、黙って叱られる勇気は後で生きて来るのです。