12/28説教「目を覚ましている僕」
鈴木憲二牧師
旧約聖書:詩編:103編1-9節
新約聖書:ルカによる福音書12章35-48節
讃美歌:8(1-4)、33,50(1-3)、472(1-4)、24
交読詩編:139編1-24編
主を迎える用意
今朝、私たちに与えられております新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書12章35~48節までです。今朝の説教題は、聖書にある題のとおり、「目を覚ましている僕」としました。35節から40節の間に3つのたとえが記されています。この三つのたとえは、イエス・キリストが世の終わりに再び来られると言われた再臨のキリストを示しています。主イエスが十字架におかかりになり、復活され、天に昇り、再びおいでになることは、ルカが書いている使徒言行録の1章11節に次のように書いていることからも分かります。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」
というふうに主イエスが再び来られるとルカは書いています。
最初のたとえは、自分たちの主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、ただちに主人のために開くように、腰に帯を締めて、明かりを灯している人のようでありなさい。という話です。35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と記されています。消防士が出動の指令を受けたらいつでも出動できる用意のようなものです。和服でいうならば、「腰引きからげて、自由に、どんな命令にでも応じて動くことができる備えをする」ということだ、と言われます。ともし火をともしているのは、主人が帰ってきたら、その足もとを照らすための光です。言ってみれば、この世のことに捕われず、執着せず、いつも神のために用意している姿ということになります。
このたとえを主イエスは誰に話しているのでしょうか。今日のこのたとえ話は、主人を待つ僕の話です。主イエスの弟子たちはイエスのことを「主」であると呼んでいたわけですから、主イエスは弟子たちの主人であるわけです。41節でペトロが主イエスに質問しています。
「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それともみんなのためですか。」と。
この、主人を待つしもべの話は、弟子たちに対してなされた話であるわけです。
ところで、弟子たちと同じように、私たちも主イエスを「主」と呼んでいます。つまり、私たち
にも「主イエスが再び帰ってくるのを目を覚まして、きちんと待っていなさい」と語っているの
です。このたとえ話は、そんなに難しい話ではないのですが、ただ一つ面倒なことがありまして、主人がいつ帰ってくるか分からない、という設定になっているのです。
主人は結婚式に招待されて出かけたと言う話です。ところが主人はその婚宴に出かけていて、いつ帰ってくるかわからない、というのです。「いつ帰ってくるかわからない」ということが私たちにはよく理解できないかも知れません。2千年前のイエスの時代と、現代の私たちとは時代も風習も異なるからです。当時の結婚式の風習では、結婚の儀は、長い場合には一週間に渡って行われたようです。日本でも、昔は自宅で結婚式を行ない、地方によっては何日も宴会が続いたという話も聞きましたが、現代ではそう言うことはないでしょう。主イエスの時代には結婚式の披露は長期間行われていたということです。そして途中入場も、途中退場もあり。なのです。だから、現代の日本の結婚式とは全然違うわけです。
だいぶ前になりますが、ある親せきの結婚式に招かれて、あるホテルでの結婚式に親族として出ましたが、結婚式も披露宴も写真館もすべてそろっていて、牧師だけが教会の牧師でしたが、快適でいいのですが、すべてが流れ作業のように進みます。大体2時間ぐらいで終わります。パックになっているようです。日本式でも、今は各自の家で結婚式をすることはあまりありません。
ところが主イエスの時代のユダヤでは一週間も続くわけです。その間、いつ来てもいいし、いつ帰ってもいいようなのです。ですから、留守番をする僕の立場としては、いつ主人が帰って来てもいいように待っていなければならないのです。
しかし、このたとえ話は、「いつになるかは分からないけれど主イエスが必ず帰ってくる」という話です。これは何を意味しているのでしょうか。
これを話している主イエスは、この場面で、弟子たちと一緒にいるわけです。従って、「帰ってくる」というのは、この時、この場面のことではありません。
これは未来の話なのです。ルカによる福音書によれば、23章から主イエスの十字架の受難について記されており、そして24章で復活されることが記されています。そして40日間、弟子たちと共におられ、最後に、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれるのです。
そのことが、この福音書の一番最後に描かれています。けれども、聖書はそれで終わりではないのです。ルカは、このルカによる福音書を書いていますが、使徒言行録という書物も書いたのですが、弟子たちの働きを記したその使徒言行録の一番最初、先ほど紹介した1章11節に、
「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」
と記しています。この言葉は、天使の言葉なのです。ですからこれは、神の約束なのです。主イエスご自身も、この福音書の中で、ご自分が世の終わりに再び来られることを語っておられます。ですから、これは、世の終わりを迎える時の話なのです。
以前にも説教で話ましたが、印象に残る話があります。むかし、ブルームハルトという牧師は、いつも、人のまだ乗ったことのない四頭立ての馬車を庭に用意していたという話です。誰かが不思議に思って、何のためか聞くと、「自分はイエス・キリストが再臨なさる時、一番最初にお迎えに行けるように、こうしていつでも用意しているのだ」と言ったそうです。そして彼は、毎年新年を迎えると、今年こそイエス・キリストがいらっしゃる年だと信じて、心待ちにして待ったそうです。笑い話のようですが、私たちの信仰生活は待ち望む生活です。信仰生活とは待ち望むことだということを考えさせるのです。そこには来臨のキリストに対する信頼があります。ただ漫然と待つのではないのです。腰に帯をして、明かりを灯して待つのです。明かりは周囲を照らします。周囲が暗ければ暗いほど、照り輝かなければなりません。輝くのは自分ではありません。イエス・キリストを反射して輝くのです。
そして、二つ目のたとえは、「主人が帰って来たとき、目を覚ましている僕は幸いだと言うのです。今朝の説教題の「目を覚ましている僕」です。目を覚まして待っていてくれた僕に対して、主人はとても喜んだのです。主人はその僕たちを席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というお話しです。目を覚ましていない僕は、眠りこけているのです。人生のうえで眠りこけている人というのは、自分の目先のことしか考えない人なのです。自分しか見えないで、他のことが見えません。神が見えない人ということなのです。主イエス・キリストの再臨の時が見えないのです。目を覚ましている人々に対して、神は最後に良くしてくださるというのです。主人であるお方が、かえって私たちに仕えてくださるのです。これは何を意味しているのでしょう。イエス・キリストは私たちのために、十字架にかかってくださるほど、愛してくださった。良くしてくださったのです。神は最後に、私たちのためにすばらしいことをしてくださるという話です。目を覚ましていなければ、そのことが分からないという話です。
三つ目のたとえは、「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。私たちは自分がいつ死ぬかはわかりません。日野原医師が、クリスチャンである入院患者から「いったいわたしの体はいつまでもつのか」と問われた時に、この言葉を読んできかせたと、ある本に紹介されていました。人が何月何日に死ぬなどということは、医者であってもわかりません。終末期医療に深く関わられた日野原医師でもわからないのです。もし告げたところで慰めにもなりません。この医師は、信仰を持っている患者に、「死を迎える用意」ではなく、「主を迎える用意」をするようにと促すのです。「いつも主を迎える用意をしていたらよい」。これも深い慰めの言葉です。
最後の「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」という言葉です。主はすべての人に同じ要求をするわけではありません。神のために特別な召しを受けている人があります。しかし、私たちはとかく自分を楽な方におきたいために、自分はこのうち、少なく求められている方だと言いがちです。しかし、私たちは、反対に多く与えられている方なのです。というのは、キリストの福音を聞いていること自体、特権なのです。
わたしの魂よ、主をたたえよ
今朝私たちに与えられた旧約聖書の御言葉、詩編103篇1節から9節までをお読みしました。詩人は1節でこのように歌います。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。」(1節)
この1節の言葉にあるように、詩編103編は神への讃美と感謝を歌った詩編です。経済学者で東京大学総長をされ、無教会主義のキリスト教指導者であった矢内原忠雄(やないは らただお)という人の解説によると、1節の「わたしの内にあるもの」とは、体の中のすべての器官、即ち五臓六腑のことだと説明しています。心臓とか腎臓とか大腸、小腸とか、各種の臓器にそれぞれ各種の感情が宿ると詩人の時代には考えられていました。したがって、体内のすべての器官などといえば、自分のすべての感情、すべての意思、すべての知性のすべてが、こぞって神の聖き御名をほめたたえよ、と歌っているのだと説明しています。
詩編103編は高貴な、澄み渡った響きをもって神の恵みを歌い上げ、後世の人々に文学をも人生をも豊かにしてきた詩編の一つです。3節から5節で次のように歌います。
3主は前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
4命を墓から贖い出してくださる。 慈しみと憐れみの冠を授け
5長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
ここには詩人が激しい病から癒やされたことを示しています。詩人の魂に神の偉大さについての思いが圧倒的な力で押し寄せてきているのです。人間の目には暗黒としか見えない罪と病と死においてこそ、神の恵みは最も輝き、彼にとって人生はその光によって照らされたものとして写るのです。
そのことによって、人生全体が様変わりし、新しい励ましと力を得ること、そして、罪ゆえに神から遠く離れているならば、人生に成功はないことを詩人は知っているのです。神があらゆる罪を赦してくださり、障害を取り除き、人生を新しい土台の上にすえて下さったという確信が詩人を突き動かしているのです。ここから、詩人は鷲が翼を広げるように、力みなぎる新しい生命感が湧き上がることを歌っているのです。そして8節、9節で次のように歌っています。
8主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。
9永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。
神のとらえがたい偉大さを人間的思考の尺度に合わせようとする応報思想は、何と狭いことか。そして、神が永遠に怒りたまうかもしれないという、罪から生じた人間的な不安は、何と心小さなことか。己の罪深さを知ることなくして、恵みを知ることはできないのです。正に罪は詩人の人生の最も衝撃的な事実であるゆえに、詩人は、恵みは罪よりも大きく、神の愛は神の怒りよりも強いことを知るのです。神の憐れみなしには生きられないことを詩人は悟るのです。
目を覚ましているというのは、いつでも主イエスに心からすがることができる準備ができていることです。神の憐れみなしには生きられないことを心に留めていることです。主人の思い、つまり神の御心とは、独り子の命すら与えてくださった愛の御心です。そして終わりの時、主イエスは、私たちに神との祝宴の場所を用意してくださり、神との交わりと本当の喜びを完成してくださるのです。私たちはその日を希望として待ち望むのです。
悪い管理人
45節以下には、主人の帰りを待っているという緊張感を失ってしまう僕の姿が描かれています。「もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」とあります。この管理人というのは、主人の僕、召し使いの一人ですが、召し使いたちの上に立てられており、時間通りに皆に食べ物を分配することを命じられています。ところがその管理人が、自分が主人になったかのように錯覚して、同じ僕仲間に威張り散らし、自分に従わせようとすることです。つまり、ここに描かれているのは、僕であることを忘れ、自分が主人として振る舞う者の姿です。しかし、ここに語られていることは、特別な立場にある人だけでなく、誰にでも起こることです。私たちは自分の人生の主人が神であることを忘れ、自分の思いや願いを第一にしてしまうからです。つまり、私たちの誰もが、ここに語られている悪い管理人になってしまうことがあるのです。
「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(48節)という意味は、私たちに重荷を負わせようとする御言葉ではありません。多く与えられ、多く任されている者、そして教会が、それだけ、神に愛され、期待されていることを語っているのです。
主の思いを知って生きる
今朝の御言葉は、神の国を求めて生きるとは具体的にどうすることなのかを教えているのです。それは、主イエスが再び来られる再臨による救いの完成を信じて待つことです。緊張感を失って眠り込んでしまうことなく、目を覚まして主イエスの帰りを待つのです。その私たちに神は喜んで神の国(神の支配)を与えて下さるでしょう。その信頼に生きるところに、思い悩み、心配からの解放が与えられるでしょう。 祈ります。